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2010年1月 9日 (土)

『日本人のための宗教原論』他議論用2

『『日本人のための宗教原論』他議論用』での議論はこちらで継続します。
『『日本人のための宗教原論』他議論用』のコメント欄で
議論した内容は↓のとおり。

こちらでも平行して議論を行ってます。

http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9059511.html

投稿: 古賀 | 20091229 () 1435

『日本人のための宗教原論』は内容が、多岐に渡っているので、第四章の「【仏教】
は近代科学の先駆けだった」と 第七章「日本人と宗教」を重視し、「日本人」と「仏教」の2テーマに絞って議論したいと思います。

投稿: おおくぼ | 20091229 () 1648

>おおくぼさん

それで結構ですよ。

小室先生は確かに表現が不正確あるいはわかりにくいところはあります。例えば『日本人のための宗教原論』第4章のP227で「小乗仏教では、この世の迷いを断じきった聖人にさえも四階級があるといい」と書いてますが、これは厳密には正しくありません。小乗仏教の聖人の4階級とは、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢のことだと思いますが、このうちこの世の迷いを断じきったといえるのは阿羅漢だけです。

ただそのあとの説明「聖人の最高位である~罪あればこそである」を読む限りはちゃんとその点は理解されているようです。

投稿: 古賀 | 20091229 () 1858

第四章の「【仏教】は近代科学の先駆けだった」では、維摩居士の話が出てきます。
仏教の悟りの複雑のさの例として出したと思うのですが、そうすると、第七章の「日本人と宗教」と「維摩居士」の話は似てくるのではないでしょうか?
肯定的評価か否定的評価かは別れますが・・・。

例えば、親鸞が聖徳太子の夢のお告げで、妻帯を決意する話が出てきます。
梅原猛によれば、聖徳太子は、維摩居士の話が好きで、自分と重ねていたそうです。

358ページに「シュテファン・ツヴァイクのような大天才をもってしても、その辺りがなかなか理解しくくなっている。」と書いてあります。
日本人が宗教を理解できにくいという話なのに、どうしてシュテファン・ツヴァイクの理解力が出てくるのか謎です。

投稿: おおくぼ | 20091230 () 0211

>おおくぼさん

>仏教の悟りの複雑のさの例として出したと
>思うのですが、そうすると、第七章の「日
>本人と宗教」と「維摩居士」の話は似てく
>るのではないでしょうか?

何を言いたいのか良くわかりません。明確に要点を指摘してください。
きちんと議論をするからには、私は指摘する側にも曖昧でない明確な指摘を望みます。

>日本人が宗教を理解できにくいという話なの
>に、どうしてシュテファン・ツヴァイクの理
>解力が出てくるのか謎です。

確かにこの箇所に出てくるのは不自然ですね。

投稿: 古賀 | 20091230 () 1019

長くなると思いますが、足りなり部分は指摘して下さい。
何度でも補足します。
また議論はすぐに終わることを目指さず、ゆっくり時間をかけたいと思っています。
もし何らかの理由で、議論を中断したくなったら言って下さい。

私は空気を読むのが下手な人間であり、粘着質なタイプなので、いくつかのブログを閉鎖させてしまった経緯があります。
たぶん今でも恨まれていると思います。
弁解すれば、私には悪意は一切ありませんでした。

>仏教の悟りの複雑のさの例として出したと
>思うのですが、そうすると、第七章の「日
>本人と宗教」と「維摩居士」の話は似てく
>るのではないでしょうか?

まず引用します。

>本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならないように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
200ページ

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
201ページ

>維摩居士という人は、どこでどんな修行をしたなどどは一切書いていない。
>どれだけ善行を積んだかも書いていない。
>さらには、釈迦の教えを受けたわけでもなく、釈迦の教団とも関係ないと書いてある。
>このように、何の修行をしたかもわからないし、特別な善行も積んだかもわからない。
>誘惑の否定もしない。
>悪魔が維摩居士を誘惑しようと企み、絶世の美女を、いわゆる魔女なのだが、送り込んだところ、維摩居士は全部妾にしてしまったなどと書いてある。
>悟りをひらいた以上はそんなことは平気の平左であり、むしろ、そういう行動などに左右されるようでは悟りとは呼べないのである。
>この人の行いは「空」そのものである。
>独覚の好例として紹介したが、この維摩居士のレベルは、他の独覚に比しても飛び抜けているほどの大人物である。
201ページ

次に第七章から引用します。

>この点は、法然上人、親鸞上人のほうが徹底している。
>「南無阿弥陀仏」と唱える唱名だけでいい、修行も学問も一切必要ないといっている。
>これこそ仏教的な考えからいったら、大変な異端なのだ。
>まず異端だというのはどういうことかというと、本来の仏教では大変な修行を要求する。
そのうえ、善行、善果の積み上げをやりなさいともいう。
>それから学問も重要ですよ、とこういうことをいっている。
>ところが法然及び親鸞は、そんなことは一切必要ないといってしまった。

そうすると、小室説では維摩居士は異端なのでしょうか?
あるいは本来の仏教ではないのでしょうか?
『日本人のための宗教原論』では不明です。

投稿: おおくぼ | 20091230 () 1127

>おおくぼさん


私は空気を読むのが下手な人間であり、粘着質なタイプなので、いくつかのブログを閉鎖させてしまった経緯があります。
たぶん今でも恨まれていると思います。
弁解すれば、私には悪意は一切ありませんでした。

了解しました。


そうすると、小室説では維摩居士は異端なのでしょうか?
あるいは本来の仏教ではないのでしょうか?

どう説明すれば一番混乱をまねかないのかちょっと考えているんですが。

【前提1】
まず小乗仏教と大乗仏教では悟りの考え方が違います。

小乗では悟りを開いた聖者には3タイプあります。声聞、独覚、仏です。
(注:正確には声聞の中の阿羅漢)

独覚というのは、仏の教えを聞かずに独自で悟りを開いた聖者です。

小乗では、この3者の悟りにあまり質的差異を認めませんが、大乗では仏と他の2者は悟りの境地が天と地ほどにも違うことになっています。

大乗では菩薩を重視します。菩薩にも何段階かありますが、最高位近くの菩薩はほとんど仏と変わらない境地で、声聞や独覚を遥かに凌駕しています。

【前提2】
維摩経は大乗経典です。

【前提3】
大乗経典においては声聞や独覚の悟りはレベルが低いものと軽視されているはずですが、維摩居士の悟りの境地は非常にレベルが高い(仏に近い)ものと説明されています。
(というか維摩経は維摩居士の悟りの境地がいかに他の声聞や菩薩と比べてレベルが高いかを説いているお経みたいなもんです)

で、おおくぼさんの疑問に答える前に私がひっかかっているのは、維摩居士はむしろ在家の(高位の)菩薩と考えるのが妥当じゃないかと。

つまりこの点では小室先生が維摩居士を独覚と説明しているのは間違いである可能性が高いのです。

これは小室先生が小乗と大乗をきちんと区別せずに仏教を説明しているところから生じたものだと思います。
(続く)

投稿: 古賀 | 20091230 () 1405

【前提3】補足説明

調べてみたところ『維摩経』の中でお釈迦様が維摩居士のことを「衆生の中の最高である菩薩」と呼んでいる箇所を発見しました。

また維摩居士が本来この世界の人間ではなく阿しゅく仏という別の仏のいる世界(妙喜世界)から救済(菩薩行)のために生まれ変わってきたと記載している箇所も発見しました。

【解答】
小室説では小乗と大乗が混同されているので、出家してお釈迦様の元で修行せずに悟りを開いた維摩居士を独覚と解釈しています。
独覚は原始仏教で既に想定されている存在です。
異端ではありません。

ただ正しくは維摩居士は在家の菩薩と解釈すべきだと考えます。「過去世で仏陀を崇拝して善根を積み」「仏陀を礼拝し」「俗人の白衣を身につけながら、沙門の行いをまっとうし」などと表現されており、小室先生が「何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく」と書いているのといささか異なります。
また在家の修行者でも悟りをひらけると考えるのは大乗仏教の基本的立場です。
(続く)

投稿: 古賀 | 20091230 () 2017

A-維摩居士独覚説(小室説)
維摩居士を独覚と考える小室説によるなら、独覚の「修行をせずに悟る」と、念仏の「修行が不要」とはまるで違うといえるでしょう。関連性が無いといってもいい。

独覚はあくまで例外的存在だからです。

それに対して念仏で「修行が不要」というのは、修行しなくても悟りが開けるからではありません。まるで逆で「いくら修行しても悟りをひらけない時代である」という認識があるから、念仏に頼るという構造です。

B-維摩居士在家菩薩説
ただ先ほど説明したように小室説は間違いで維摩居士を在家の菩薩と考えるならば、日本仏教の特色のようにいわれる「戒律の軽視」はすでにこの時点(大乗仏教)で起こっているともいえます。

在家の信者の戒律は出家の戒律に比べて圧倒的に少ないからです。それにもかかわらず「在家の信者が出家者である声聞を圧倒的に打ち負かす」というストーリーである維摩経は直接的とは言えなくても戒律の軽視を後押しするものではないかと。

投稿: 古賀 | 20091230 () 2057

追記

少し明確でない箇所に気付いたので確認。

>そうすると、小室説では維摩居士は異端なの
>でしょうか?

異端というのは通常教えが正統でないということです。維摩経が異端の説という意味で言われているのですか?維摩居士が異端者という意味で言われているのですか?

投稿: 古賀 | 20091230 () 2113

『日本人のための宗教原論』の文脈で、維摩居士を異端と見なすか?という意味です。

なぜなら、『日本人のための宗教原論』では、法然と親鸞を異端と見なしています。
維摩居士は異端ではなく、法然と親鸞は異端であるとすれば、その違いの基準が、『日本人のための宗教原論』では曖昧な気がします。

どうして小室さんは維摩居士の例を出したのかという理由について私は悩みます。
ただ第四章は「空」の説明がメインであり、小室さんは、維摩居士の説明で・・

>この人の行いは「空」そのものである。

・・・と書いてあるので、「空」を説明するために、重要な例として出したとも推測できますけど。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2019

特に親鸞の場合は、『日本人のための宗教原論』で、聖徳太子の夢のお告げに言及しているからです。

>日本における聖徳太子信仰は大したものではあったけれど、聖徳太子といえば、仏教に理解は持っていたとはいえ、単なる政治権力者であり、悟りをひらいたわけでもなければ、ましてや僧侶でもない。
>そういう人に許すといわれて、それで許されると考えるがおかしくないか。
>これがお釈迦様が現れて許すといわれたのなら話はまだわかるのだが、親鸞聖人にしてからがこのような矛盾を抱えている。
373ページ〜374ページ

親鸞は、聖徳太子が悟りを開いていないと思っていたのでしょうか?
もし親鸞が、聖徳太子が悟りを開いた人物だと思っていたら、維摩居士が夢の中で「許す」と言ったと同じ意味になるのではないでしょうか?

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2035

>おおくぼさん


維摩居士は異端ではなく、法然と親鸞は異端であるとすれば、その違いの基準が、『日本人のための宗教原論』では曖昧な気がします。

維摩居士は法然と親鸞のように「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。確認してください。

投稿: 古賀 | 20091231 () 2106

前のコメントで引用した・・・・


>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
201ページ


確かに、小室さんは維摩居士が「修行も学問も不要」という教えを説いた・・・とは書いていません。
けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2157

古賀さんは、維摩居士について多くのことを書かれましたが、どこまでが古賀さんの説で、どこからが小室さんの説(古賀さんの理解する)かが、私には区別しにくいです。

私は、小室さんの説を批判することを第一目的にコメントしています。

だから古賀さんと「正しい仏教とは?」論争をするのは、あくまでも小室さの説を批判するためです。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2217

例えば、宮元啓一さんの『ブッダが考えたこと:これが最初の仏教だ』(春秋社)を読むと、小室直樹さんの仏教理解との違いが多々、発見できます。
けれど、私には宮元啓一さんの仏教理解がどの程度正しいかを判断する知識はありません。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2342

>おおくぼさん


けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。異端とはいえません。


古賀さんは、維摩居士について多くのことを書かれましたが、どこまでが古賀さんの説で、どこからが小室さんの説(古賀さんの理解する)かが、私には区別しにくいです。

一応わかりやすいように分けて書いてます。


だから古賀さんと「正しい仏教とは?」論争をするのは、あくまでも小室さの説を批判するためです。

ある程度の仏教知識がないとせいぜい「ここの表現はわかりにくい」「ここの表現は不適切だ」ぐらいのことしかいえないと思います。


けれど、私には宮元啓一さんの仏教理解がどの程度正しいかを判断する知識はありません。

小室先生は中村元先生の説に立脚していることが多いようです。

私は仏教については複数の解説書を読みながら、GoogleWikipediaで関連用語について調べてみて、経典の話が出たら可能な限りその経典(日本語訳)を読むぐらいのことはしています。
その上で「小室先生の書かれているこれは間違っている」と言っています。

投稿: 古賀 | 20101 1 () 0810

古賀さんへ

明けましておめでとうございます。

おめでたい正月早々慌ただしいですが、早速、議論の続きをしたいと思います。

まず、小室さんの維摩居士についての解釈について・・・。

>>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
201ページ

これは古賀さんの言うとおり、『維摩経』の記述と小室さんの維摩居士説には決定的な違いがあります。
例えば、『維摩経』には維摩居士は、過去世で善行を積んだと書かれています。
『維摩経』(中公文庫)25ページ

その場合、小室さんのただの勘違いで、その部分を修正して理解し、『日本人のための宗教原論』全体を理解するという方法があり、古賀さんの読み方は、その方法だと思います。

けれど、私は間違った理解か別として、小室さんの主張の矛盾だと考えます。

だから、修行もしないで悟った維摩居士を本来の仏教の一つとして高く評価し、一方で最澄や親鸞や法然を異端だと非難するのは、おかしいと考えます。

また親鸞の夢のお告げは、聖徳太子ではなく救世観音なのですが、それについても、小室さんの勘違いということは置いといて、小室説の矛盾だと考えます。

だから、私は二重の読み方をしていることになります。

1 小室さんの間違い(あるいは勘違い)を指摘すること。

2 小室さんの間違い(あるいは勘違い)を保留して、小室さんの論旨の矛盾を指摘すること。

今回、「小室さんの解釈する維摩居士」と「小室さんの理解する日本仏教」の整合性については2を重視します。

だから上のコメントの議論は噛みあっていないと思います。

>ある程度の仏教知識がないとせいぜい「ここの表現はわかりにくい」「ここの表現は不適切だ」ぐらいのことしかいえないと思います。

確かに、その通りです。
ただ、小室さんの主張はかなり専門的な内容が含まれています。
特に小室さんは「本来の仏教は・・・」と言います。
中村元さんの名前は出てきますが、中村元さんの説に立脚しているとは明言していません。
また中村元さんの説は、小室さんの理解に都合のいい部分だけ採用しているのではないでしょうか?

もし古賀さんが、宮元啓一さんの著作を高く評価しているなら、小室さんの『日本人のための宗教原論』と比較すると、決定的な理解の違いが発見できる気がします。
特に小室さんが、オウム真理教や日本の伝統仏教を、(小室さんの理解する)原始仏教と比較して、仏教でないあるいは異端だという主張についてです。

投稿: おおくぼ | 20101 1 () 1217

古賀さんは橋爪大三郎さんを高く評価しているようなので、橋爪さんの本から引用します。
小室さんの主張と比較して下さい。
ちなみに引用した本で、橋爪さんは小室さんを批判しているわけではありません。

>大乗仏教は在家主義で、在家の維摩居士が出家の僧侶より修行のレベルが高いという維摩経もあるぐらいだから、麻原が在家でも、別に問題はない。
ただそれなら、原始仏教に忠実だなどとは言わないほうがいい。」
96ページ
(注:これは前半が、島田裕巳さんのオウム真理教批判に対する反論で、後半が橋爪さんのオウム真理教批判です。)

>法華教は、本仏が垂迹して釈尊になるという論理を骨格としていて、あくまで釈迦仏の真意をのべたのが法華教という立場に徹しています。
>それに対して、オウムの場合、麻原の「最終解脱」なるものが、小乗ないし大乗のどの階位の覚りなのか、何の説明も正当化もない。
>だから関係ないと言っているのです。
>さらに言えば、仏教には多くの経典があり、多様な見解がのべられているけれども、修行者の修行を律する戒律(律蔵)にはひと通りしかない。
>それは釈尊の定めたものであって、釈尊以外の任意のグルが定めたものであってはならない。
97ページ

>小乗は(正式な言い方では、部派仏教)は、基本的に合理主義だから、非合理性を徹底的に排除する。
>大乗になってくると、かなりあやしい。
>空観というのがあるんですけれども、空観の論法は、「あるでもなく、ないでもない」とか、形式論理で書けない奇妙な「二重語法」を使うわけです。
>しかしその、イロジカルな語法の内部ではロジカルに透徹しているという特徴があります。
>その先の密教になると、もっとあやしい。
>論理的に考えていって結論が出るような構造には、もともとなっていない。
>オウムの場合は阿含教から出版して、原始仏教の五戒を守るというレベルの修行と、それから密教のヴァジュラヤーナのレベルとが両方ある。
>最初の修行レベルでは人は殺してはいけなくて、ヴェジラヤーナのレベルでは人を殺してよくて、これ自身は不合理ですから困ります。
>困るということ自身が修行であるというなら、これはもうめちゃくちゃである、私に言わせれば。
94ページ〜95ページ

引用は全て『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』(朝日新聞社)
橋爪大三郎&島田裕巳(対談本)

投稿: おおくぼ | 20101 1 () 1445

>おおくぼさん


だから、修行もしないで悟った維摩居士を本来の仏教の一つとして高く評価し、一方で最澄や親鸞や法然を異端だと非難するのは、おかしいと考えます。

何度でも同じ事を言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。だから仏教の異端とはいえません。だからその点はまるでおかしくありません。

おかしいのは小室先生が維摩居士を独覚と勘違いしていることです。しかもそれは私が発見して指摘したことであってあなたが指摘したことではありません。


また中村元さんの説は、小室さんの理解に都合のいい部分だけ採用しているのではないでしょうか?

ないでしょうかも何もそう思ったらあなたが調べて具体的に指摘すればいいだけの話です。そういう風な議論をしているのだと思いますが違いますか?


古賀さんは橋爪大三郎さんを高く評価しているようなので、橋爪さんの本から引用します。
小室さんの主張と比較して下さい。

意図が不明です。

投稿: 古賀 | 20101 1 () 2055

>おおくぼさん


2 小室さんの間違い(あるいは勘違い)を保留して、小室さんの論旨の矛盾を指摘すること。

その点は理解してます。


だから上のコメントの議論は噛みあっていないと思います。

だからそれは違います。勘違いを保留したままであろうと(つまり修行をせずに悟りをひらいた独覚だと考えたとしても)維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。だから仏教の異端とはいえません。

投稿: 古賀 | 20101 1 () 2215

>おおくぼさん


中村元さんの名前は出てきますが、中村元さんの説に立脚しているとは明言していません。

「空」の解説で中村元先生の著作を引用し、P244で「空を理解するうえで、中村元先生の貢献は瞠目に値する」と書いていますね。
当然それ以降の「空」の解説は中村元先生の説に立脚していると推測されますが。

投稿: 古賀 | 20101 1 () 2253

内容が多岐に渡っているので、コメントを分けます。

>「空」の解説で中村元先生の著作を引用し、P244で「空を理解するうえで、中村元先生の貢献は瞠目に値する」と書いていますね。
>当然それ以降の「空」の解説は中村元先生の説に立脚していると推測されますが。

私が立脚という言葉を使ったのが失敗でした。
訂正します。

前の私のコメント ↓

>また中村元さんの説は、小室さんの理解に都合のいい部分だけ採用しているのではないでしょうか?

古賀さんの返答コメント ↓

>ないでしょうかも何もそう思ったらあなたが調べて具体的に指摘すればいいだけの話です。
>そういう風な議論をしているのだと思いますが違いますか?


自分のブログで具体的に指摘します。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2029

>何度でも同じ事を言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。
>また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。
>だから仏教の異端とはいえません。だからその点はまるでおかしくありません。

>おかしいのは小室先生が維摩居士を独覚と勘違いしていることです。
>しかもそれは私が発見して指摘したことであってあなたが指摘したことではありません。

議論が噛みあっていないし、私の表現が悪いのことが原因ですが、私の主張を古賀さんは勘違いしています。

まず、私は小室さん主張に矛盾があると指摘しています。

私の前のコメント ↓

>これは古賀さんの言うとおり、『維摩経』の記述と小室さんの維摩居士説には決定的な違いがあります。
>例えば、『維摩経』には維摩居士は、過去世で善行を積んだと書かれています。
『維摩経』(中公文庫)25ページ

>その場合、小室さんのただの勘違いで、その部分を修正して理解し、『日本人のための宗教原論』全体を理解するという方法があり、古賀さんの読み方は、その方法だと思います。

>けれど、私は間違った理解か別として、小室さんの主張の矛盾だと考えます。

>だから、修行もしないで悟った維摩居士を本来の仏教の一つとして高く評価し、一方で最澄や親鸞や法然を異端だと非難するのは、おかしいと考えます。


「けれど」からが、私の言いたいことです。
小室流「維摩居士は素晴らしい&あるいは本来の仏教」説は、「法然&親鸞は異端」説と、『日本人のための宗教原論』の中で、矛盾するということです。

その前の私のコメント↓

>確かに、小室さんは維摩居士が「修行も学問も不要」という教えを説いた・・・とは書いていません。
>けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2157

維摩居士が言ってなくても、維摩居士は見本だという意味です。
だから・・・小室さんの説では、維摩居士は修行せずに悟った。
『日本人のための宗教原論』では明快には書かれていませんが、「何故か維摩居士は悟ることができたのか?」、ということが問題になっているはずです。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2051

私のコメント ↓

>古賀さんは橋爪大三郎さんを高く評価しているようなので、橋爪さんの本から引用します。
小室さんの主張と比較して下さい。

古賀さんのコメント ↓

>意図が不明です。

自分のブログで、小室さんの記述と比較します。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2053

初めに問題になった「小室さんの最澄と延暦寺の記述」について

まず、小室さんは海外から日本に宗教が来ると、戒律がなくなると主張します。
そして鑑真が「戒」を持ってきたとします。
次に最澄が「規範」を「全廃」したと主張します。
ここで、疑問なのは、最澄は中国に何故留学したのか?です。
「規範」を全廃するために、留学したのでしょうか?
また小室さんは触れていませんが、最澄の弟子の円珍と円仁も中国に留学しています。
「規範」を全廃するために、留学したのでしょうか?
もし「規範」を全廃するのが目的なら、留学する必要はないでしょう。

小室さんは比叡山延暦寺が、「日本仏教の総本山の中の総本山」と書いています。
法然と日蓮は延暦寺で勉強し、親鸞は法然の弟子です。
けれど彼らは、延暦寺の正統派なのでしょうか?
彼らは、延暦寺と大喧嘩したのではないでしょうか?

比叡山延暦寺が、「日本仏教の総本山の中の総本山」になったのは、最澄が死んでかなり経った後ではないでしょうか?

最澄の生前は、東大寺などの奈良の寺の方が優勢であり、嵯峨天皇に気に入られていた空海は東大寺と仲がいいです。
また空海も自分の寺を持っています。

最澄が延暦寺独自の戒(死後に弟子たちが作りました)を作ろうとした理由は、奈良の寺にしか、朝廷が「戒」を許されなかったからです。

小室さんは・・・

>僧侶と政治権力が関係ないというのがインドで、中国に入って、僧侶は政治権力と関係ができた。
>そして日本に入ってきてどうなたったか。
>日本の僧侶というのは初めは国家公務員だった。
>僧侶であるかどうかという免許証は、政府が出し、官位、僧侶の位もみな政府が決める。
だから平安時代を通してずっと、僧侶といえば、すなわち国家公務員だった。
370ページ

その数行後の文章は・・・

>それまでは僧侶になるのは大変で、学問を積んで、朝廷から官位を貰って初めて僧侶となる。
>ところが、鎌倉時代以降は誰でもなれるようになった。
369ページ〜370ページ

この主張だと、最澄や法然、親鸞、日蓮は、日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた人になるのでは?

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2146

>おおくぼさん


議論が噛みあっていないし、私の表現が悪いのことが原因ですが、私の主張を古賀さんは勘違いしています。

表現が悪いし、こちらが指摘してもあなたはそれをきちんと直しません。さらに勘違いしているのはあなたであって私ではありません。


小室流「維摩居士は素晴らしい&あるいは本来の仏教」説は、「法然&親鸞は異端」説と、『日本人のための宗教原論』の中で、矛盾するということです。

矛盾しません。
本来の仏教とはそもそも言ってません。維摩居士は釈迦の教えどおり修行すれば悟りをひらけるのは十分条件であって必要条件ではないという例として出ているだけです。悟りを開くのに「修行が不要」な人間もいると書いてあるので、「修行も学問も不要」という教えが説かれているわけではありません。きちんと読めばわかります。P200の16行目からP202の12行目までをきちんと読み返してください。

>維摩居士が言ってなくても、維摩居士は
>見本だという意味です。

独覚というものをきちんと理解してさえすれば、それが見本になりえないことがわかるはずです。
独覚というのはお釈迦様のもとで教えに従って修行したわけではないのに悟りを開いた存在で、そもそも見本になりえないのです。
また見本であるように書かれてもいません。

何度でも言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。だから親鸞&法然と比較すること自体おかしいのです。

あなたが「矛盾だ、矛盾だ」と言い続けるのは、単に自説に固執しすぎる性癖に過ぎないと理解しています。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2158

古賀さんへ

>矛盾しません。
>本来の仏教とはそもそも言ってません。

200ページの「そもそも、」からを読んで下さい。
小室流「維摩居士」は、小室流「本来の仏教」の一つです。

>維摩居士は釈迦の教えどおり修行すれば悟りをひらけるのは十分条件であって必要条件ではないという例として出ているだけです。

小室さんの「十分条件」と「必要条件」の使い方は、独自だと思いますが、理解できません。
数学の教科書の定義と違っています。
説明もありませんし。

>「修行が不要」な人間もいると書いてあるので、「修行も学問も不要」という教えが説かれているわけではありません。

これも繰り返しになりますが、

前の私のコメント ↓

>確かに、小室さんは維摩居士が「修行も学問も不要」という教えを説いた・・・とは書いていません。
>けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2157

>維摩居士が言ってなくても、維摩居士は見本だという意味です。
>だから・・・小室さんの説では、維摩居士は修行せずに悟った。
>『日本人のための宗教原論』では明快には書かれていませんが、「何故か維摩居士は悟ることができたのか?」、ということが問題になっているはずです。

だから、どうして「悟りを開くのに「修行が不要」な人間もいる」のかが、重大な問題なのです。

>独覚というものをきちんと理解してさえすれば、それが見本になりえないことがわかるはずです。

小室さんは独覚をきちんと説明しているのですか?
私が批判しているのは、古賀説ではなく、小室説です!!!!!

>何度でも言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。
>また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。

古賀さんの、その主張には、前のコメントで何度も、同意を表明しています。

>だから親鸞&法然と比較すること自体おかしいのです。

そうは思いません。
理由は、上のコメントの私の主張を理解していただければ、わかります。


>あなたが「矛盾だ、矛盾だ」と言い続けるのは、単に自説に固執しすぎる性癖に過ぎないと理解しています。

たしかに自説に固執しすぎてますが、矛盾だと思う箇所は具体的に明示しています。
また、間違いだと思えば訂正しています。

維摩居士についての議論は、堂々巡りになっていますので、一度、お互いに頭を冷やしてから、再開しましょう。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2206

一つ前の、「小室さんの最澄と延暦寺の記述」の返信コメントお願いします。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2208

>おおくぼさん

>次に最澄が「規範」を「全廃」したと
>主張します。

実質的「全廃」です。

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro4-2.htm
>最澄は比丘の守るべき戒は250も必要で
>ないとし,重い戒律10と軽い戒律48
>の合計58でよいとした。これは梵網経
>に根拠をおくものであり,菩薩戒という。
>勿論,菩薩戒自体は,日本以外の国でも
>行われていたが,菩薩としての心構えと
>いうべきものであり,具足戒に替わり
>うるものではない。それなのに最澄は,
>具足戒を菩薩戒の十重戒と四十八軽戒に
>替え,さらに受戒の儀式を徹底的に
>簡素化した。


もし「規範」を全廃するのが目的なら、留学する必要はないでしょう。

意味がわかりません。


この主張だと、最澄や法然、親鸞、日蓮は、日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた人になるのでは?

「僧侶と政治権力が関係ない」という点だけをとって、「日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた」と主張するのは乱暴な議論です。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2210

>おおくぼさん


200ページの「そもそも、」からを読んで下さい。
小室流「維摩居士」は、小室流「本来の仏教」の一つです。

「維摩居士」が「本来の仏教」というのは、日本語として不正確すぎます。
あえて要約するなら「本来の仏教」は「修行は手段」(キリスト教やイスラム教と比較して)です。「修行は手段」だからこそ、修行しなくても結果を手にいれる維摩居士のような人間がいても別におかしくはないという話です。「修行は不要」とはまるで違います。


だから、どうして「悟りを開くのに「修行が不要」な人間もいる」のかが、重大な問題なのです。


小室さんは独覚をきちんと説明しているのですか?
私が批判しているのは、古賀説ではなく、小室説です!!!!!

独覚というのが自分独自で悟りをひらく存在であるのは小室説でも通説でも同じです。で、「独覚というのが自分独自で悟りをひらく存在」であることがおおくぼさんの批判がおかしい理由なのです。だから独覚というのをきちんと理解された方がいいと言っているのです。

勉強がいらない天才がいることと、教育機関が「勉強が不要」というのはまるで意味が違います。


古賀さんの、その主張には、前のコメントで何度も、同意を表明しています。

そうでありながらなぜおおくぼさんが自分の批判がおかしいと気がつかないのかその点が良くわかりません。

同意しているのであれば「維摩居士は仏教の異端」という批判は成り立ちません。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2240

廃止というのは、以前あったものを無くすことです。
最澄は、延暦寺に新しい「戒」を作ろうとしたのです。
それは東大寺などの奈良の寺に伝わる「戒」と比較すれば、廃止した形に見えるということです。
延暦寺が「戒」を作ったからと言って、奈良の寺の「戒」が廃止にはなりません。

前の私のコメント ↓

>もし「規範」を全廃するのが目的なら、留学する必要はないでしょう。

古賀さんの返信コメント ↓

>意味がわかりません。

最澄や弟子の円珍や円仁は、「規範」を求めて、中国に留学したと言いたいのです。

>「僧侶と政治権力が関係ない」という点だけをとって、「日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた」と主張するのは乱暴な議論です。

その通り、乱暴な主張です。
でも、小室さんは明言しないけど、論理的に考えると、小室説では、そうなると言いたいのです。

古賀さんへ

「小室さんの最澄と延暦寺の記述」の、他の私の指摘についても、返信コメントをお願いします。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2255

>「維摩居士」が「本来の仏教」というのは、日本語として不正確すぎます。

「維摩居士」→「維摩居士の思想」に訂正します。

同意しているのであれば「維摩居士は仏教の異端」という批判は成り立ちません。

これは自分の中では訂正したつもりだったのですが、明言しませんでした。
すいません。

私の前のコメント ↓

>『日本人のための宗教原論』の文脈で、維摩居士を異端と見なすか?という意味です。

>なぜなら、『日本人のための宗教原論』では、法然と親鸞を異端と見なしています。
>維摩居士は異端ではなく、法然と親鸞は異端であるとすれば、その違いの基準が、『日本人のための宗教原論』では曖昧な気がします。


だから、小室説では法然&親鸞が異端とされているのに、「維摩居士は異端ではない」と主張しているのが、おかしいと言うのが、私の主張です。

>勉強がいらない天才がいることと、教育機関が「勉強が不要」というのはまるで意味が違います。

では、どうして小室さんは、維摩居士の話を出すのでしょうか?

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2303

私は古賀説を批判しているわけではありません。
私が古賀さんを批判する時は、古賀さんの小室理解が、私から見れば、間違いだと思った時です。

だから、例えば・・

>勉強がいらない天才がいることと、教育機関が「勉強が不要」というのはまるで意味が違います。

という主張には、同意しますが、小室さんが、そんな主張をしているようには思えないのです。
部分的に読めば、そういう解釈もできます。
でも、そうすると、『日本人のための宗教原論』の中で、論理は一貫するのでしょうか?

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2309

>おおくぼさん


「小室さんの最澄と延暦寺の記述」の、他の私の指摘についても、返信コメントをお願いします。

そのへんはもう少し詳しく調べてからコメントします。


「維摩居士」→「維摩居士の思想」に訂正します。

「維摩居士の思想」だとするとおかしなことになります。維摩居士自身は別に「修行が不要」と言っているわけではないので。
「修行が不要」な人間それ自体は異端ではありません。「修行が不要」という説を説けばそれが(小室説では)異端ということなので。


では、どうして小室さんは、維摩居士の話を出すのでしょうか?

仏教において「釈迦の教えを聞いて修行する」のは悟りをひらく十分条件であって必要条件ではないことを説明するためです。


という主張には、同意しますが、小室さんが、そんな主張をしているようには思えないのです。

小室先生の主張というより
勉強がいらない天才=維摩居士
教育機関が「勉強が不要」=法然&親鸞の思想
で、小室先生の主張が別に変ではないことの説明です。

私から見ればおおくぼさんは、「勉強が不要と説く教育機関が間違っているなら、勉強がいらない天才も間違っている」と主張しているように見えます。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2338

>おおくぼさん

若干修正

私から見ればおおくぼさんは、「小室先生は勉強が不要と説く教育機関が本来の教育機関から見て間違っていると言っている。でも小室先生は勉強がいらない天才の話をしているけれどその天才のことを間違っているとは言わない。それは変だ」と主張しているように見えます。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2342

>「維摩居士の思想」だとするとおかしなことになります。

いい表現が思いつかないのですが、「小室直樹が維摩居士の生き方から読み取った思想」という意味です。
だから、「維摩居士の主張した思想」ではありません。

>教育機関が「勉強が不要」=法然&親鸞の思想で、小室先生の主張が別に変ではないことの説明です。

小室さんの文章を引用します。
維摩居士のエピソードのすぐ前の文章です。

>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
200ページ

仏教の特色として、維摩居士の話をしているのです。
だから・・・

>勉強がいらない天才=維摩居士
教育機関が「勉強が不要」=法然&親鸞の思想

・・・だと、「どうして仏教だけ、そうなの?」という疑問が出てくるのです。

ここでも、古賀さんは認識してませんが、古賀説と小室説の違いがあるのです。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2354

前から言っているように、私の読み方は、他人から見れば、「重箱の隅をつつく」ような読み方です。
私自身は、「重箱の隅」と思える記述にこそ、その人の本質が書かれていると思っています。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2359

私から見ると、古賀さんは、小室直樹さんの弁護士というか、政治家の失言を弁護する代理人のように思えます。

小室直樹という講談師が、博覧強記で見につけた知識を使って、思いついたことを、連想的に面白おかしく、誇張して、大衆に語って、人気を博しているところに・・。
私のような、理屈っぽく、重箱の隅をつつくように見える人物が訴えた時に・・

いい加減な小室直樹さんに代わって、「あれはこう言う意味で言ったので、そう意味ではない」という風に、小室さん自身が考えてもいなかった主張にすりかえて、勝訴を勝ち取る弁護士みたいです。

だから頓智使いと言う感じです。
歴史上の一休宗純ではなく、伝説の方の「一休さん」ですね。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 0022

>仏教において「釈迦の教えを聞いて修行する」のは悟りをひらく十分条件であって必要条件ではないことを説明するためです。

小室さんは、「十分条件」と「必要条件」という意味を、数学の教科書的な意味をひっくり返して使っているのです。
だから、後に出てくる「超論理学」とつながるのです。
そして、私は小室さんの主張する「超論理学」が理解できません。
連想するのは、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」です。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 0039

>おおくぼさん

「pならばq」という関係にあるとき、
「pはqであるための十分条件」,
「qはpであるための必要条件」
というふうに理解しています。

例をあげれば
「犬であるならば動物」という関係にあるとき
・犬であることは動物であるための十分条件
・動物であることは犬であるための必要条件
です。

これをP200の16行の記述にあてはめると

「仏教では釈迦がこういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」

→「釈迦の教えに従って修行をするならば確実に悟りをひらける」
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件

わかりやすく整理するとこんな感じになります。
仏教においては「悟りをひらいた人」と「釈迦の教えに従って修行を完成した人」は同値ではないということです。

あくまで小室説によればですが、集合的にいえば
「悟りをひらいた人」の集合は「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の集合より大きくて、「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の集合を全て含むということです。


そして、私は小室さんの主張する「超論理学」が理解できません。
連想するのは、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」です。

小室先生の文章だとわかりにくいですが、超論理学にはなっていません。

投稿: 古賀 | 20101 3 () 1029

>おおくぼさん


いい加減な小室直樹さんに代わって、「あれはこう言う意味で言ったので、そう意味ではない」という風に、小室さん自身が考えてもいなかった主張にすりかえて、勝訴を勝ち取る弁護士みたいです。

宮台真司さんは『14歳からの社会学』という本で、「小室直樹のスゴさに感染した私は小室直樹がどのように世界を見るのかを徹底的にシミュレートした」と書いてありますが、私もそうしているつもりです。

特に『啓典宗教』や『維摩居士』について私が反論するのは、それが「記述が不完全あるいはわかりにくい」ですむ問題だと判断しているからです。理論的に考えて補完できる場合や説明が他の箇所にきちんと書いてある場合は、私自身は大きな間違いだとは思っていません。

逆に維摩居士のことを独覚と書いてあるような記載は、どう考えても間違いであるので私自身が指摘しました。そういう箇所は他にも多くあると思います。

私から見ればおおくぼさんは本質的でないところに拘泥しすぎているように思えます。

投稿: 古賀 | 20101 3 () 1050

古賀さんの説明は腑に落ちますが、残念ながら、教科書的な定義とは違います。

参考

http://www.kwansei.ac.jp/hs/z90010/sugakua/hitujyu/hitujyu.htm

古賀さんは、三段論法と勘違いしているんだと思います。
良心的に読むと、理学部数学科出身の小室さんも「必要条件」と「十分条件」という用語を、勝手に三段論法の用語にしてしまっていると解釈することもできます。

参考
『入門!論理学』野矢茂樹:著(中公新書)

また小室さんは、270ページの「公理」という用語を「定義」いう用語と分けて使っているけど、どうしてこんな説明をするのか悩みます。
公理と定義を分けて使う必要はないのです。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 1508

>特に『啓典宗教』や『維摩居士』について私が反論するのは、それが「記述が不完全あるいはわかりにくい」ですむ問題だと判断しているからです。
>理論的に考えて補完できる場合や説明が他の箇所にきちんと書いてある場合は、私自身は大きな間違いだとは思っていません。

柄谷行人が「真のマルクス」ではなく「可能性のマルクス」と言っているのと同じ評価方法ですね。

それだと、この議論は平行状態のままでしょう。
価値の判断基準が違うのですから。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 1513

補足

「小室さんの最澄と延暦寺の理解について」

小室さんは、犯人探しのように歴史を後ろから見るから、歪んだ歴史解釈になるのだと思います。

小室さんの評価は別として、法然&親鸞&日蓮に注目するのは鋭いです。
そして、彼らの現れた原因を延暦寺に求めるのも正しいと思います。
そして、当時の延暦寺は、日本仏教界の総本山の中の総本山でした。
そして、小室さんは、延暦寺を作った最澄を真犯人してしまいます。

延暦寺が悪の大学で、その学校を作った人が、悪の張本人に違いないという決め付けです。
小室さんは「悪」という表現を使っていませんが・・・・。

しかし、最澄の時代と法然&親鸞&日蓮の時代はかなり違います。
また、最澄と法然の間に多くの複雑な変化があったことを小室さんは無視して、単調な変化だったと決めつけてしまいます。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 1556

>おおくぼさん

上記のサイトのとおり書き直しても結局は同じことです。なぜなら私も必要条件と十分条件について説明しているサイトを参考に書いているからです。


次に,2つの条件 p,q を用いて,

ワンポイント
p
q という形も命題
となります。真偽が明確
になりさえすればよいの
です。


p
ならば q   すなわち  p q

という形の命題を考えます。また,p を 仮定,q を 結論,といいます。

 そして,「p q が真」であるとき,


p
q であるための 十分条件

q p であるための 必要条件

といいます。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

この場合p q
「釈迦の教えに従って修行を完成した人」⇒「悟りをひらいた人」が真。ということです。

「釈迦の教えに従って修行を完成した人」⇒「悟りをひらいた人」が真であるとき
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件
になります。

良く読んでいただけばわかりますが三段論法にはなっていません。

投稿: 古賀 | 20101 3 () 1557

>おおくぼさん


柄谷行人が「真のマルクス」ではなく「可能性のマルクス」と言っているのと同じ評価方法ですね。

全く違うと思いますよ。
おおくぼさんは変なところに細かいのに、大局的判断はおおざっぱすぎます。

私は細かいところがきちんとつまらない限りは大局的判断を下すには早すぎるという考えです。

だから

小室さんは、犯人探しのように歴史を後ろから見るから、歪んだ歴史解釈になるのだと思います。

「歪んだ歴史解釈」のような明確な価値判断は1つ1つの議論にきっちり決着をつけた上でなければただの情緒的判断にすぎません。


それだと、この議論は平行状態のままでしょう。
価値の判断基準が違うのですから。

実のところ『啓典宗教』の場合は小室先生の書き方が明らかにおかしいとは思いますが、『維摩居士』はおおくぼさんの勘違いであり、しかもここで誤読する方がおかしいと思っています。

投稿: 古賀 | 20101 3 () 1607

>良く読んでいただけばわかりますが三段論法にはなっていません。

すいません。
これは私の勘違いでした。
古賀さんの説明も、小室さんの記述も正しいです。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 1928

>『維摩居士』はおおくぼさんの勘違いであり、しかもここで誤読する方がおかしいと思っています。

この部分は、平行状態のままになりそうなので、別の角度から、小室流「維摩居士」について議論したいと思います。

私の前のコメントその1↓

どうして小室さんは維摩居士の例を出したのかという理由について私は悩みます。
ただ第四章は「空」の説明がメインであり、小室さんは、維摩居士の説明で・・

>この人の行いは「空」そのものである。

・・・と書いてあるので、「空」を説明するために、重要な例として出したとも推測できますけど。


第四章を全体の大雑把な骨子を考えてみます。

「空」という思想について

維摩居士のエピソード

『般若心経』

仏教は魂を否定する(生まれ変わりは認めても、魂だけの存在は認めない)

三島由紀夫の『豊饒の海』

魂が無ければ、何が輪廻転生するのか?

唯識について

阿頼耶識について
原意識が転生する(天才誕生の秘密)
ここで、維摩居士という名や独覚という言葉が出てきてもいいのですが、出てきません。

仏教の救済の仕組み。
1 キリスト教のような救済を判断する神はいない。
2 仏教は時間がものすごくかかる。

煩悩を無くすと、輪廻転生が終わる

>煩悩を去り、悟りをひらき、涅槃に赴くことが、仏教の究極目標である。
>そして、空を悟ことが本当の悟りであり、仏教理解の極意皆伝である。
235ページ

空観という超論理学

小室さんは、『維摩経』や『般若心経』を、空観を理解するための例として出しているのです。

229ページに独覚の説明がありますが、維摩居士の名は出てきません。
小室さんが、独覚をどのように評価しているかは曖昧です。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 2119

かなり前のコメントを訂正します。

>特に親鸞の場合は、『日本人のための宗教原論』で、聖徳太子の夢のお告げに言及しているからです。

小室直樹さんの文章 ↓

>日本における聖徳太子信仰は大したものではあったけれど、聖徳太子といえば、仏教に理解は持っていたとはいえ、単なる政治権力者であり、悟りをひらいたわけでもなければ、ましてや僧侶でもない。
>そういう人に許すといわれて、それで許されると考えるがおかしくないか。
>これがお釈迦様が現れて許すといわれたのなら話はまだわかるのだが、親鸞聖人にしてからがこのような矛盾を抱えている。
373ページ〜374ページ

>親鸞は、聖徳太子が悟りを開いていないと思っていたのでしょうか?
>もし親鸞が、聖徳太子が悟りを開いた人物だと思っていたら、維摩居士が夢の中で「許す」と言ったと同じ意味になるのではないでしょうか?

最後の・・・「維摩居士が夢の中で「許す」と言ったと同じ意味になるのではないでしょうか?」
・・・は独覚の夢告という意味ではなく、在家の夢告でも、悟りを開いている人物の夢告と考えて下さい。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 2212

小室さんを批判するだけでは、建設的な議論にはならないので、別の説を提示します。

私が影響を受けているのは井沢元彦さんの説です。
今回の小室直樹批判も井沢さんとの対談を読んだことから発しています。

井沢さんの主張は、小室さんの主張と共通する点が多いです。
けれど、具体的な歴史分析では、違いがあるのです。

例えば、井沢さんは日本教の原因を聖徳太子の「和」という考えとしています。

参考
『仏教・神道・儒教集中講座』(徳間文庫)

投稿: おおくぼ | 20101 4 () 1209

「維摩居士と親鸞と聖徳太子について」の、前に私のコメントは、私の議論の立て方は悪かったので、忘れて下さい。

整理したので、書き直します。

まず、親鸞の女犯戒についてです。

小室さんは、第四章で維摩居士についてこう説明しています。

>悪魔が維摩居士を誘惑しようと企み、絶世の美女を、いわゆる魔女なのだが、送り込んだところ、維摩居士は全部妾にしてしまったなどと書いてある。
>悟りをひらいた以上はそんなことは平気の平左であり、むしろ、そういう行動などに左右されるようでは悟りとは呼べないのである。
>この人の行いは「空」そのものである。

維摩居士は、親鸞とは違い、出家僧でもなければ、僧侶でもありません。
だから、女犯戒を守る必要はありません。

でも親鸞は、小室説だと聖徳太子の夢告によって、女犯戒を破ることを許されます。

そこで、聖徳太子を維摩居士と同格と考えることはできないか?
あるいは、親鸞は同格と考えたのではないか、します。
小室さんは聖徳太子は悟りを開いていないとしていますが、親鸞は聖徳太子が悟りを開いた人だと考えていたと思うのです。

投稿: おおくぼ | 20101 4 () 1520

必要条件と十分条件について、再訂正します。

まず、私が勘違いしていたのが、第一の原因ですが、やはり小室さんの記述は変だと思います。

必要条件と十分条件は、包含関係にある場合に成立します。

だから・・・・

修行が悟るための必要条件であっても、修行が悟るための十分条件ではないというのが正しい使い方です。

だから悟るためには修行をしなければいけない。
でも修行したからと言って、悟るとは限らないと言うことです。

それから、私がリンクしたサイトの説明も悪かったです。

サイトではリンゴと果物で説明しています。

リンゴはあるためには果物でなければなりません。
でも果物であるためにはリンゴである必要はありません。

小室さんの「独覚と修行と悟り」の例は、包含の関係になっていないのです。

投稿: おおくぼ | 20101 4 () 1633

>おおくぼさん


必要条件と十分条件は、包含関係にある場合に成立します。

だから「修行」と「悟り」だと包含関係にならないからおかしくなります。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」
にしたのはそのためです。

それとこちらが次にコメントする間に5つも6つもコメントされるのは困ります。

投稿: 古賀 | 20101 4 () 2012

>おおくぼさん

小室先生は独覚というのは、「何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく」と書いていますが、これは厳密には正しくありません。

長い間修行して悟りをひらいてもそれが釈迦の教えに従って修行を完成したのでなければ(例えば自分独自の修行なら)独覚です。だから「何の修行もしない」「あっという間に煩悩を払う」というのは違います。

投稿: 古賀 | 20101 5 () 2217

わかりました、コメントは一つづつにします。

まず、必要条件と十分条件についてコメントします。

議論を整理するために、小室直樹さんの文章をもう一度引用します。

>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
200〜201ページ

ここで、「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」という記述に注目します。

釈迦が本当にそんな教えを垂れているかどうかは、この場合は問いません。

1 釈迦が決めた修行をする→悟りがひらける

2 釈迦が決めた修行をしていない→でも、悟りがひらけた

この場合は、「悟った人という全体集合の中に」、「釈迦の決めた修行をしたので悟った人」と、「釈迦の決めた修行をしてないのに悟った人」がいることになります。

1の人にとって、釈迦の決めた修行をすることは、悟るための十分条件なのです。

2の人にとって、釈迦の決めた修行は、悟るための十分条件でもなく、必要条件ですらないのです。

次に小室さんは書いていませんが、別の人を考えましょう。

修行をしたのに、悟れなかった人です。
これを3の人とします。

論理的に考えられるのは、3の人がした修行が、「釈迦の決めた修行」ではなかったということです。

そして3を、悟るためには、修行が必要条件だけど、釈迦の決めた修行が十分条件になると・・・言うことができます。

3の人が悟れなかった理由は、他にも考えれますが、こういう解釈もできるということです。

以上で、小室さんの「必要条件」と「十分条件」という使い方が、おかしいことがわかると思います。
ただ、この小室さんのミスはただのケアレスミスで、超論理という解釈は私の勘違いです。

投稿: おおくぼ | 20101 5 () 2246

おおくぼさん


修行をしたのに、悟れなかった人です。
これを3の人とします。

十分条件と必要条件の例として書いているので、この場合は考えないんですよ。
だからわざわざ「釈迦が、こういう修行をすれば確実に教えがひらけるという教えを垂れている」という書き方をしているわけです。

書いてあることを無視してそういう風な仮定をして

以上で、小室さんの「必要条件」と「十分条件」という使い方が、おかしいことがわかると思います。

などと言うことを言われても困ります。

追記

「「釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」と書いているが、実際には釈迦の教えのとおりに修行しても悟りがひらけない人もいるはずだから変だ」というのならまだわかります。

必要条件と十分条件の使い方が間違っていることにしようとして論を展開するのでおかしくなるんですよ。

追記その2

p=「釈迦の教えに従って修行した人」
q=「悟りをひらいた人」

だと釈迦の教えに従って修行してまだ悟りをひらいていない人もいるはずだから必要条件も十分条件も成立しないのではという話だと思いますが、小室先生は「釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」と書いているので

p=「釈迦の教えに従って修行した人」ではなく
p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」

と考えるのが正しいわけです。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

だと何度も書いているように
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件
で十分条件も必要条件も成立します。

投稿: 古賀 | 20101 6 () 0711

>だと何度も書いているように
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件
で十分条件も必要条件も成立します。

小室さんが、そんな主張をしているとは思えないのですが・・・・。
古賀さんの小室解釈は、数学の定義に合わせて、強引な解釈をしたとしか思えません。

ここで、小室さんの主張を確認するために、前に引用した小室さんの記述を、わざと真ん中の文だけ削除して、再引用します。


>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
          略

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。


小室さんの一番言いたいことは・・

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

・・・です。
だから、次に小室説の「維摩居士の話」が出てくるのです。


また、議論が平行線になっているので、整理します。

まず・・・

p q であるための 十分条件
q p であるための 必要条件

・・・の公式は忘れて、日常的な意味で考えて下さい。

次に古賀さんのコメントを引用します。

>私から見ればおおくぼさんは、「小室先生は勉強が不要と説く教育機関が本来の教育機関から見て間違っていると言っている。
>でも小室先生は勉強がいらない天才の話をしているけれどその天才のことを間違っているとは言わない。それは変だ」と主張しているように見えます。


古賀さんのこのコメントは、私から見れば正しく小室さんの記述を理解しているように思えます(ただ小室さんは、仏教限定にしているのが、事実として問題です)。

ここで、「天才」と「東大受験合格」で考えてみます。

1 「天才ではない人」が、東大受験に合格するには、受験勉強が必要である。

2 天才は、受験勉強をしなくても、東大受験に合格する。

「天才ではない人」にとっては、受験勉強は必要条件だけど、十分条件ではありません。

天才にとっては、受験勉強は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。

次に、受験界に釈迦のような教師Aがいたとします。
A
の教える受験勉強をすれば、必ず「天才でない人」でも東大受験に合格すると仮定します。

「天才ではない人」にとって、「Aの受験勉強」をすることは、東大受験に合格するための十分条件であり、必要条件でもあります。

でも天才にとって「Aの受験勉強」は、東大受験合格するための必要条件でもなければ、十分条件でもありません。

数学用語に引っ張られて、強引な読解をするよりも、小室さんの記述ミスだと考えて、日常語に置き換えて、読めばいいだけのことなのです。

投稿: おおくぼ | 20101 6 () 0944

上のコメントの補足

小室さんの記述

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には「十分条件であって、必要条件ではない」。

これを、以下に変えれば、明快だと思います。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には「誰にでも当てはまるわけではない」。

この記述の方が、小室さんの主張・・・

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

・・・と整合するからです。

投稿: おおくぼ | 20101 6 () 0957

>おおくぼさん

(1)
まず小室先生の本文
「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れてはいるが、それは正確には(悟りをひらくための)十分条件であって、必要条件ではない。」
(悟りをひらくための)を追完しないと、文章が意味がとおらなくなるので追完しました。

(2)
それを命題の形になおしたもの。今度はなるべく本文の原型を残して作ってみました。
p=「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
q=「悟りをひらいた人」

・「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
の必要条件

(2)の十分条件と必要条件が間違っていない以上は、(1)を(2)の命題形式になおすところに何かおかしなところがあるはずですが、私にはおかしいとは思えません。指摘するならそこをきちんと指摘してください。


小室さんが、そんな主張をしているとは思えないのですが・・・・。
古賀さんの小室解釈は、数学の定義に合わせて、強引な解釈をしたとしか思えません。

小室先生は『超常識の方法』でも、ちゃんと必要条件と十分条件の違いを集合を使ってわかり易く説明をされています。私にはおおくぼさんが文章から適切な文を抜き出して命題にすればきちんと必要条件と十分条件になるにもかかわらず、わざとそうならないようにして「変だ」と言っているとしか思えません。

投稿: 古賀 | 20101 6 () 2301

私は、古賀さんの主張を理解したつもりだったのですが、どうもそうでないことが判明しました。
今も理解できていません。

元の小室直樹さんの文章は・・・
>それは正確には「十分条件であって、必要条件ではない
・・・の一文を訂正すれば理解できました。

まず、数学で考えるよりも、日常的な意味で理解できる文章である方が重要です。

まず、修行と悟りの関係ですが、ここには時間のズレがあることが大事なポイントなのです。
修行することによって、悟るということは、修行した時間の経過があるということが、暗に秘められているわけです。

だから、「p q であるための十分条件、q p であるための必要条件」と書くと、時間の経過が無視されてしまうので、注意が必要です。
例えば、「リンゴと果物」や「人間と動物」なら、時間の経過を無視してもいいです。

古賀さんも、そこに気づいて、時間の経過を無視していい「必要条件と十分条件」を構築したのだと思います。
でも、それは日常的な意味で、おかしいというか、小室直樹さんの文章に対する誤読だと思います。


「古賀さんの理解する小室説」と「私の理解する小室説」を、ベン図で書いてみて比較して見てください。

投稿: おおくぼ | 20101 7 () 0023

補足

>(2)の十分条件と必要条件が間違っていない以上は、(1)を(2)の命題形式になおすところに何かおかしなところがあるはずですが、私にはおかしいとは思えません。指摘するならそこをきちんと指摘してください。

私には古賀さんの提示した命題が理解できないのです。
けれど不毛な気もしますが、どうも、それ以外に議論の打開にならないようなので、挑戦してみます。

まず、古賀さんはpqに該当する人を過去形で扱っています。
小室さんの文章では過去形では書いていません。
でも、この点を、古賀さんの誤読だといいたいわけではありません。
理解するためには、その程度の深読みは必須の場合が多いですので。

まず、私は古賀さんの提示した命題・・・


「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
の必要条件

・・・が、日本語として理解できません。
だから、分解して、別の文章に作り替えます。
古賀さんの解釈した「小室説」は・・・

「悟りをひらいた人」には2種類の人間がいる。

no.1 (こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人

no.2 釈迦が垂れた教えに従ってないのに、悟りをひらけた人

だから、「悟りをひらいた人」という全体集合の中に、no.1という部分集合とno.2という部分集合が独立してあるということです。

もし私の解釈が理解できなければ、ベン図に書いて見てください。

でも、「悟りをひらいた人」から見て、「no.1」や「no.2」は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。
逆からの視点でも同じです。

必要条件や十分条件という条件が発生するのは、「no.1」や「no.2」にとって、「悟るための条件」との関係においてです。

もしこのコメントで同意が得られないならば、必要条件と十分条件の議論は止めて、別の議論に移りましょう。

投稿: おおくぼ | 20101 7 () 0227

>おおくぼさん


まず、古賀さんはpqに該当する人を過去形で扱っています。
小室さんの文章では過去形では書いていません。

そこを統一しなければきちんとした命題になりません。小室先生が命題形式で書いていない以上、
読む側でその点に補正を加えるのは当然だと思います。


でも、「悟りをひらいた人」から見て、「no.1」や「no.2」は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。
逆からの視点でも同じです。

もう1度わかりやすくなおしてみましょう。

・Aが「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」であることは「Aが悟りをひらいた人」であるための十分条件
・「Aが悟りをひらいた人」であることは「Aが(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
であるための必要条件

「リンゴ」と「果物」の関係と同じです。

失礼ながらこの点について混乱が生じているのはおおくぼさんであって、私や小室先生ではありません。

投稿: 古賀 | 20101 7 () 0633

「修行」と「悟り」の関係が、「リンゴ」と「果物」の関係と同じではないのです。

なぜなら、「修行」するには、時間がかかるからです。

修行する→悟れる
でも逆の・・
悟れる→修行する
・・・にはならないのです。

だから古賀さんは強引に

「釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」と「悟りをひらいた人」

のような「・・・の人」という二つの関係にしたと思います。

でも命題うんぬん前に、日本語として小室さんの主張を考えましょう。

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

小室さんは、仏教における「悟りをひらくための条件」について語っていると読むのが普通ですし、古賀さんのような解釈では意味不明になります。

古賀さんの解釈は・・・

p q であるための 十分条件
q p であるための 必要条件

pqに、強引に日本語を入れているだけで、日常的な意味では理解不能です。
「・・の人」に変更して、時間の経過を無視できる関係にしたにもかかわらず、意味不明な文章になっているのです。
コンピュータなら理解できるかもしれませんが、普通の日本語としては理解できません。

投稿: おおくぼ | 20101 7 () 1016

>おおくぼさん


「修行」と「悟り」の関係が、「リンゴ」と「果物」の関係と同じではないのです。

相違点がわかってきました。

おおくぼさんの理解「釈迦が修行すれば悟りをひらけると言っているが、現実には修行をしなくても悟りをひらく人もいる」

私の理解「釈迦が自分の教えに従って修行すれば悟りをひらけるといっているが、現実には釈迦の教えにしたがって修行をしなくても悟りをひらく人がいる」

上記の比較が正しいかどうか確認したいので、その点についてまずコメントをお願いします。

投稿: 古賀 | 20101 7 () 1927

>おおくぼさん


「・・の人」に変更して、時間の経過を無視できる関係にしたにもかかわらず、意味不明な文章になっているのです。
コンピュータなら理解できるかもしれませんが、普通の日本語としては理解できません。

最初、私が出したのは
p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」
です。

おおくぼさんが「小室先生の本文と違う」と言ってくることを考慮して、なるべく本文の形を残して
p=「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
q=「悟りをひらいた人」
に1度直しました。当然日本語としては理解しにくくはなってます。

いくらでもわかりやすい日本語にはなおせるので、そこは全く本質的な批判にはなりえないと思います。

投稿: 古賀 | 20101 7 () 1938

古賀さんへ

正月明けから、本屋に行って、数学の教科書を読みました。
そのおかけで、問題点がすこしばかり見えてきました。

私の主張をする前に古賀さんの質問にお答えします。

古賀さんのコメント↓

>相違点がわかってきました。

おおくぼさんの理解「釈迦が修行すれば悟りをひらけると言っているが、現実には修行をしなくても悟りをひらく人もいる」

私の理解「釈迦が自分の教えに従って修行すれば悟りをひらけるといっているが、現実には釈迦の教えにしたがって修行をしなくても悟りをひらく人がいる」

上記の比較が正しいかどうか確認したいので、その点についてまずコメントをお願いします。

古賀さんは、私の主張を誤解しています。
だから、再度説明します。

前の私のコメント(一部変更) ↓


ここで、「天才」と「東大受験合格」で考えてみます。

1 「天才ではない人」が、東大受験に合格するには、受験勉強が必要である。

2 天才は、受験勉強をしなくても、東大受験に合格する。

「天才ではない人」にとっては、受験勉強は必要条件です。

天才にとっては、受験勉強は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。

次に、受験界に釈迦のような教師Aがいたとします。
A
の教える受験勉強をすれば、必ず「天才でない人」でも東大受験に合格すると仮定します。

「天才ではない人」にとって、「Aの受験勉強」をすることは、東大受験に合格するための十分条件です。

でも天才にとって「Aの受験勉強」は、東大受験合格するための必要条件でもなければ、十分条件でもありません。


解説

天才=独覚 
東大受験合格=悟ること
A
の教える受験勉強=釈迦の教えに従った修行
と考えて下さい。

別の表現に直すと・・・

1 釈迦の教えに従って修行すれば悟れる。

2 釈迦の教えに従って修行してないにもかかわらず、悟った人がいる(もちろん悟れなかった人もいる)。

大事なのは、2種類のタイプの人間がいることです。

そして修行したのに、悟れなかった人がいた場合の理由として・・・
「釈迦の教えと違う修行だったから」となるのです。

現実がどうか、ということは、この小室さんの記述に関しての私の解釈では関係ないのです。
あくまで論理上の関係です。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2021

教科書を読んで、復習しましたので、数学的な議論をします。

p→q

古賀さんは、pとqに・・・

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

を代入しました。

だから・・

「釈迦の教えに従って修行を完成した人」→「悟りをひらいた人」

・・・になるわけです。

ここで、小室さんの文章を再引用します。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。

独覚とは・・・

pの否定形 → q

・・・という式で表すことができます。

ここで、必要条件と十分条件の定理を思い出しましょう。


p q が真」であるとき,
p
q であるための 十分条件
q
p であるための 必要条件

p q が真」であるときなのです。
だから独覚の場合の必要条件と十分条件は別なのです。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2036

>おおくぼさん


別の表現に直すと・・・

1 釈迦の教えに従って修行すれば悟れる。

2 釈迦の教えに従って修行してないにもかかわらず、悟った人がいる(もちろん悟れなかった人もいる)。

大事なのは、2種類のタイプの人間がいることです。

それはわかっています。それならそこでは見解の違いは生じていません。


ここで、小室さんの文章を再引用します。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。

独覚のような人間がいるから
「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」であるための十分条件になるのです。

悟りをひらくのに必ず釈迦の教えに従って修行することが必要なら
「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」であるための必要十分条件になります。

だから私は「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れてはいるが、それは正確には十分条件であって、必要十分条件ではない」と書く方がより正しいのではないかと思っています。

投稿: 古賀 | 20101 8 () 2218

>おおくぼさん

>維摩居士は釈迦の教えどおり修行すれば悟りをひらけるのは十分条件であって必要条件ではないという例として出ているだけです。

小室さんの「十分条件」と「必要条件」の使い方は、独自だと思いますが、理解できません。
数学の教科書の定義と違っています。
説明もありませんし。

現在の議論の出発点はここからだったと思うのでもう1度あげておきます。

投稿: 古賀 | 20101 8 () 2234

1 釈迦の教えに従って修行して悟った人。

2 独覚

1の場合の必要条件と十分条件と、

2の場合の必要条件と十分条件は違うのです。

なぜなら、1の場合は、p→qで、2の場合は「pの否定形」→qだからです。

だから、小室さんは必要条件や十分条件という用語を使わなければいいだけの話なのです。

小室さんの文章 ↓

>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。


真ん中の「それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。」を削除して、後の文をドッキングすればいいのです。

変更後の文章 ↓

仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいる。


変更後の文章は、普通の日本語として理解できるし、主張も変わっていません。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2244

追記

私のコメント ↓

>小室さんの「十分条件」と「必要条件」の使い方は、独自だと思いますが、理解できません。
数学の教科書の定義と違っています。
説明もありませんし。

独自だと思ったのは、私の勘違いです。
でも、小室さんは教科書の定義で使っていますが、使い方が間違っているのは事実です。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2248

>おおくぼさん


だから、小室さんは必要条件や十分条件という用語を使わなければいいだけの話なのです。

小室先生は必要条件や十分条件を使うのが好きなんですよ(笑)。

ただ「使わない方がわかりやすいし意味が良くとおる」というのと「必要条件や十分条件の使い方が間違っている」ではまるで違います。


でも、小室さんは教科書の定義で使っていますが、使い方が間違っているのは事実です。

おおくぼさんはちゃんと十分条件が成立しているにもかかわらず、強引に成立しないと言い張っているにすぎません。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

pであることはqであることの十分条件。

で正しいのであれば、小室先生の十分条件の使い方は間違っていないと思います。

独覚はあくまで悟りをひらいたが釈迦の教えに従って修行をしたのではない人の例として出されているのです。おおくぼさんはそこにひっかかりすぎです。

投稿: 古賀 | 20101 8 () 2309


p
qは真であり、

pの否定形」→qも真なのです。

だから、qという集合の中に、pと「pの否定形」がそれぞれ独立してあるのです。

そうすると、必要条件も十分条件も、それぞれ別のものになります。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2348

>おおくぼさん

いくらそんなことをくり返しても
あなたのおっしゃることは

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

pであることはqであることの十分条件。

の否定になっていないんですよ。きちんと理解してください。

「数学的におかしい」と言いつつ、あなたの批判はちっとも数学的じゃありません。

投稿: 古賀 | 20101 9 () 0617

>おおくぼさん

もう1度いいますが


p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

pであることはqであることの十分条件。

が数式として正しいのであれば、小室先生の主張を命題になおす段階で間違っているのです。
つまり私が小室先生の言っていないことを勝手に命題になおしているということです。
それならばそう主張してください。

数式として間違っているのであれば、それを論理的にきちんと指摘してください。


だから、qという集合の中に、pと「pの否定形」がそれぞれ独立してあるのです。

そうすると、必要条件も十分条件も、それぞれ別のものになります。

qという集合の中に、pと「pの否定形」があるのだから、
pであることはqであることの十分条件であると同時に、「pの否定形」であることもqであることの十分条件です。

「釈迦の教えに従わなくて悟りをひらいた人」であることは「悟りをひらいた人」であることの十分条件
も成立します。
 

投稿: 古賀 | 20101 9 () 0626

>おおくぼさん

これ以降は『『日本人のための宗教原論』他議論用2』の方にコメントお願いします。

投稿: 古賀 | 20101 9 () 0750



(古賀)

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コメント

古賀さんへ

議論が噛み合わないみたいなので、まず整理します。

まず、小室さんの主張・・・
>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

・・・は、私も古賀さんの理解も同じだと思います。
違うのは・・・私が小室さんの必要条件と十分条件という使い方が間違っていると思っているのに対し、古賀さんは小室さんが正しいと思っているということです。

>つまり私が小室先生の言っていないことを勝手に命題になおしているということです。
>それならばそう主張してください。

その点に関しては、現時点では私は問題にしていません。


>数式として間違っているのであれば、それを論理的にきちんと指摘してください。

古賀さんの数式が間違っているのではなく、厳密に言うと、別々に考えるべき二つの式を一つとして考えていのが、おかしいと指摘しているのです。
だから、一つの数式だけ見れば、式は正しいので、ゆえに古賀さんの解釈は正しいと見えるのです。

二つの式を、独立して考えるべきなのです。
なぜなら、二つの式の必要条件と十分条件の内容は違うのですから。

「pの否定形」→qも真なのです

例えば独覚をpの変形ではなく、pとは別のrと考えれば・・・

r→q

そうすると、

p→q

「r→q」と「p→q」と必要条件と十分条件が別なのは明快です。

なぜなら


「r → q が真」であるとき,
r は q であるための 十分条件
q は r であるための 必要条件

まず、必要条件と十分条件が成り立つための、定義から考えれば、二つの式の必要条件と十分条件は似ていても、別なのです。

今回の議論が厄介なのは、小室さんの用語の使い方なのです。
私の主張は、小室さんは蛇足をしているということなのです。
使う必要の無い用語を間違って使っているために、小室さんの主張を文字通りに理解しようとすると、意味不明になるということです。
でも、その部分を削除して読めば、理解は簡単です。

そして私から見れば、古賀さんも、私とは違う形で、小室さんの主張を正しく理解しているのです。

今回の議論については、たまたま小室さんの本を読んで、たまたま気になっただけで、小室さんの本の大きな欠陥だとは思っていません。
なぜなら問題の箇所を変更しても、小室さんの主張には、何ら支障がありませんので。

私が大きな欠陥だと思うのは、小室さんの仏教説なのです。
小室さんは本当に博覧強記の人であり、私の何百倍の専門書を読んでいるにもかかわらず、小室さんの主張は間違いとは言えなくても、歪んでいると私には思えるのです。

どこが歪んでいるかは、自分のブログで、少しづつ検証しています。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 9日 (土) 11時10分

>おおくぼさん


古賀さんの数式が間違っているのではなく、厳密に言うと、別々に考えるべき二つの式を一つとして考えていのが、おかしいと指摘しているのです。
だから、一つの数式だけ見れば、式は正しいので、ゆえに古賀さんの解釈は正しいと見えるのです。

pとqは「pならばq」という命題の条件です。
条件だから別々に考えるべきじゃないんですよ。
そこはおおくぼさんの勘違いだと思います。


今回の議論が厄介なのは、小室さんの用語の使い方なのです。
私の主張は、小室さんは蛇足をしているということなのです。
使う必要の無い用語を間違って使っているために、小室さんの主張を文字通りに理解しようとすると、意味不明になるということです。

それはおおくぼさんの主張であって、全く説得力がないと感じています。そもそも小室先生の必要条件、十分条件の使い方がおかしいという話を「蛇足である」という主張に変えるのなら、最初の主張を引っ込めたも同然です。
いつから蛇足が数学的な間違いを意味するようになったのですか?

この件についての私の主張は一貫していますがおおくぼさんはどこがおかしいのかの主張をころころと変えます。これは小室先生の主張及び必要条件十分条件についてのおおくぼさんの理解が十分
でないからだと思います。

おおくぼさんの問題点は理解が十分でないにもかかわらず、最初に「おかしい」という指摘を先走ってしてしまうことです。その指摘を引っ込めたくないために主張が二転三転したり急に新しい論拠を持ち出したりするのです。そこを大ざっぱと言っているのです。

私は小室先生の主張におかしな所があるのはわかっていますが、論拠をきちっと固めてから指摘しようと考えています。そこが違います。

直感的におかしいと感じるのはおおくぼさんの自由ですが、ちゃんと根拠を明確に説明できるようにしてから指摘するべきです。


投稿: 古賀 | 2010年1月 9日 (土) 11時59分

>おおくぼさんの問題点は理解が十分でないにもかかわらず、最初に「おかしい」という指摘を先走ってしてしまうことです。
>その指摘を引っ込めたくないために主張が二転三転したり急に新しい論拠を持ち出したりするのです。
>そこを大ざっぱと言っているのです。

主張が変わる時は、「訂正」や「勘違い」と言っています。
新しい論拠を出す時は、「別の角度から」と言っています。

新しい論拠を出す理由は、前の論拠がダメになったからではなく、議論の平行状態を打開するためです。

>そもそも小室先生の必要条件、十分条件の使い方がおかしいという話を「蛇足である」という主張に変えるのなら、最初の主張を引っ込めたも同然です。
>いつから蛇足が数学的な間違いを意味するようになったのですか?

蛇足であるのは、小室さん全体の主張です。
この場合は・・・
>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

・・・です。
小室さんの主張が「必要条件と十分条件」という用語を間違って使ったために、意味不明になったということが、私が蛇足だと言っている意味です。
だから、蛇足=数学的な間違いではありません。

この議論は平行状態なので、別の議論に移りましょう。

最後にもう一度、私の主張を言うと・・・

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

だとすれば、

独覚=pの否定形

になり、p→qが真という条件とは、別の条件になり、ゆえに、p→qの必要条件と十分条件と違ってしまうということです。

前のコメントでも、直感ではなく、根拠を明確に説明してきたつもりです。
どんなに私が根拠を明確にして説明したつもりなっても、「直感的な説明でしかない」と決め付けられては、議論にすらなりません。

「必要条件と十分条件」の議論は、これ以上続けても、噛み合うことはないと思います。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 9日 (土) 17時35分

>おおくぼさん


どんなに私が根拠を明確にして説明したつもりなっても、「直感的な説明でしかない」と決め付けられては、議論にすらなりません。

直感的な指摘が先走っていて、論拠が後付けという意味ですよ。「直感的な説明」とは言っていません。そこはちゃんと理解してください。


「必要条件と十分条件」の議論は、これ以上続けても、噛み合うことはないと思います。

議論を中止するのは別にかまいません。
私としては、おおくぼさんの小室先生が間違っているという指摘と根拠が不十分だと考えているだけで、私の方から「小室先生は絶対に正しい」と積極的に主張しようと思っているわけではないので。


投稿: 古賀 | 2010年1月 9日 (土) 20時58分

>直感的な指摘が先走っていて、論拠が後付けという意味ですよ。「直感的な説明」とは言っていません。そこはちゃんと理解してください。

わかりました。

>この件についての私の主張は一貫していますがおおくぼさんはどこがおかしいのかの主張をころころと変えます。

泣く子と地頭には勝てぬという諺がありますが、そんな風に感じます。
私は、いろんな角度やいろんな表現を使って、説明しているつもりなのに、議論以前の平行状態が続いているように思えます。

>私としては、おおくぼさんの小室先生が間違っているという指摘と根拠が不十分だと考えているだけで、私の方から「小室先生は絶対に正しい」と積極的に主張しようと思っているわけではないので。

この件に関しては、古賀さんを説得するのは無理みたいなので、私の小室さんに対する指摘が根拠が不十分だと考えていただいてもかまいません。
また前のコメントで宣言したのですが、小室さんの大きな欠陥だと思うのは、小室さんの仏教説なので。

だから、「必要条件と十分条件」の話題は中止にして、別の話題にしましょう。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 9日 (土) 22時24分

前に私が、コメントしました最澄や延暦寺については、どうでしょう?

投稿: おおくぼ | 2010年1月10日 (日) 00時39分

>おおくぼさん

小室先生の「最澄が戒律を実質的に全廃した」という主張に対する批判だったと思いますがもう1度わかりやすく提示してください。

それとおおくぼさんは「最澄が戒律を実質的に全廃した」という主張に対して「そうではない」という意見なのですか?
それとも「最澄が戒律を実質的に全廃した」のを日本の特殊性と考えるのに反対なのですか?

投稿: 古賀 | 2010年1月10日 (日) 10時47分

批判は一つではなく、複数あります。
複数提示しますが、検証は一つずつしましょう。

提示の前に、古賀さんの質問に答えます。

1 「最澄が戒律を実質的に全廃した」という主張に対して「そうではない」という意見なのですか?

「そうではない」と思っています。
小室さんの主張も間違いとは言えないのですが、強引かつ単純化されすぎています。

2「最澄が戒律を実質的に全廃した」のを日本の特殊性と考えるのに反対なのですか?

反対です。
最澄が小室さん言うような日本的な人物には思えません。
簡略した戒律を作った=日本的な人物・・という主張には同意できません。
この小室さんの主張は論理的です。

まず最澄の時代についての説明です。
小室直樹さんは、私よりも何倍も詳しいはずです。
だから、小室さんの無知を指摘するような批判は本来はおかしいのです。

最澄は、奈良の僧侶達と仲が悪く、比叡山に自分の寺を作りました。
桓武天皇も奈良の僧侶達と仲が悪かったのです。
そして二人は意気投合しました。
けれど、桓武天皇が亡くなり、嵯峨天皇になり、空海が帰国して、最澄の立場は悪くなっていきます。
空海は、奈良の僧侶と仲が良く、京都でも力を持ちます。
最澄は、空海と奈良の僧侶に対して、不利な立場にありました。
当時、延暦寺では、正式な僧侶になることができませんでした(小室さんの表現をするなら国家公務員)。
最澄の弟子は、正式な僧侶になるために、東大寺に行かなければいけませんでした。
だから、延暦寺でも、正式な僧侶になれるよう天皇に頼みますが、この願いは最澄の生前は受け入れることはありませんでした。
当時の延暦寺は、弱小の私塾みたいなもんです。
厳密には、延暦寺は国の許可を得た正式な寺ですけど、東大寺とは比べ物にはなりません。

次に、小室さんの「戒」という言葉の使い方です。
ルールという意味で使っていると思いますが、修行にもルールがあります。
親鸞や日蓮が、最澄の方針を徹底したという場合の「戒」は、修行の意味も含んでいるのではないでしょうか?
そうすると、修行に関しては、親鸞と日蓮は、最澄の方針を徹底してないことになります。
むしろ最澄に反逆していることになります。

親鸞と日蓮は、天台宗の寺で修行しましたが、別れて、自分の宗派を作り(厳密には親鸞は作っていませんけど)、天台宗から非難されます。
そうすると、日本仏教の総本山の中の総本山に敵対したことになります。

小室さんは日本人の特徴として、戒を無くすことを挙げています。
でも最澄は唐に戒を求めて、留学したのだと思います。
また最澄の弟子の円珍と円仁も唐に、戒を求めて留学しています。
現在、天台宗が密教として有名なのは、円珍と円仁のおかげです。


投稿: おおくぼ | 2010年1月11日 (月) 21時19分

>おおくぼさん


だから、独覚にとっての必要条件と十分条件は、独覚以外の人とは違うのです。

だから独覚にとっての必要条件と十分条件じゃないんですよ!何度説明してもわからないんですか!

きちんと理解しないでものを言うのはやめてください!


投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 22時12分

>おおくぼさん

それと1度に大量にコメントをつけないでくださいと言ったはずです。
今回の場合1番目のコメントだけで十分なはずです。

投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 22時14分

>おおくぼさん

とりあえず1番目のコメント以外削除しました。

投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 22時24分

>だから独覚にとっての必要条件と十分条件じゃないんですよ!何度説明してもわからないんですか!

>きちんと理解しないでものを言うのはやめてください!

「このコメントには返信は必要ありません」と書いたのですが・・

もし、こちらの議論も続けるなら、別のコメント欄でしましょう。
小室さんの文章を丁寧に読めば、独覚にとっての必要条件と十分条件も含んで、主張していることはわかるはずです。

古賀さんの小室解釈と私の小室解釈が違うからと言って、どちらが間違いということではありません。
古賀さんの解釈もできるし、私の解釈もできるのです。

最澄と延暦寺について

私の前のコメント

>批判は一つではなく、複数あります。
複数提示しますが、検証は一つずつしましょう。


投稿: おおくぼ | 2010年1月11日 (月) 22時26分

>おおくぼさん


「そうではない」と思っています。
小室さんの主張も間違いとは言えないのですが、強引かつ単純化されすぎています。

おおくぼさんは「全廃」にこだわっているようですが、小室先生はちゃんと「実質的」と言っているはずです。

投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 22時28分

「全廃」でも「実質」でも、私の歴史的解釈と小室さんの歴史的解釈は違うと思います。

上の私のコメントと小室さんの記述を比較して下さい。

どちらの歴史的解釈を選ぶかは、古賀さんの自由です。

小室さんを選ぶなら、最澄と延暦寺に関しての議論は終りなので、次の議論に移りましょう。

投稿: おおくぼ | 2010年1月11日 (月) 22時34分

>おおくぼさん


古賀さんの小室解釈と私の小室解釈が違うからと言って、どちらが間違いということではありません。
古賀さんの解釈もできるし、私の解釈もできるのです。

私の解釈が成立するのであれば、「小室先生の主張が数学的におかしい」というあなたの主張は成立しなくなります。

それとこれは日本語の文章読解の問題ですが、小室先生の主張している「必要条件」と「十分条件」は独覚のことではありません。だからあなたの解釈は単に間違いです。

投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 22時36分

>おおくぼさん

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro4-2.htm
>最澄は比丘の守るべき戒は250も必要で
>ないとし,重い戒律10と軽い戒律48
>の合計58でよいとした。これは梵網経
>に根拠をおくものであり,菩薩戒という。
>勿論,菩薩戒自体は,日本以外の国でも
>行われていたが,菩薩としての心構えと
>いうべきものであり,具足戒に替わり
>うるものではない。それなのに最澄は,
>具足戒を菩薩戒の十重戒と四十八軽戒に
>替え,さらに受戒の儀式を徹底的に
>簡素化した。

要するにこれが実質的に戒律全廃にあたるのかあたらないのかというのが問題です。


「全廃」でも「実質」でも、私の歴史的解釈と小室さんの歴史的解釈は違うと思います。

これに返答できないということであればそもそも議論するということ自体がナンセンスです。

投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 22時45分

>要するにこれが実質的に戒律全廃にあたるのかあたらないのかというのが問題です。

あたりません。

小室さんの主張は、最澄が日本の仏教全体の戒をなくしたということです。

最澄がしたことは、延暦寺に簡略した戒を作っただけです。
最澄が延暦寺に簡略した戒を作ったからと言って、日本仏教全体が急に変わったりしていません。
しかも、これは小室さんが日本的特徴と批判する公務員試験なのです。

古賀さんの解釈では、「戒律」に修行は含まれるのでしょうか?

投稿: おおくぼ | 2010年1月11日 (月) 22時57分

必要条件と十分条件の議論は、別のコメント欄でしたいのですが・・・。
別のコメント欄を作っていただけませんか?

小室さんの文章 ↓

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
200〜201ページ

主張 1 ↓

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

主張 2 ↓

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。

証明 ↓

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。

だから、小室さんの主張は、独覚の必要条件と十分条件を前提にしているのです。

でも、これは小室さんの文章の解釈の一例です。
この解釈しか許されないということはありません。
ある解釈から見れば、別の解釈は間違いかもしれませんが、唯一絶対の解釈というわけではないのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月11日 (月) 23時07分

>おおくぼさん


小室さんの主張は、最澄が日本の仏教全体の戒をなくしたということです。

それはどこで主張されてますか?


古賀さんの解釈では、「戒律」に修行は含まれるのでしょうか?

文字通りの意味でしたら「違います」と答えるしかありません。「戒律」と「修行」はそもそも違うからです。

そうでないなら、つまり何らかの文脈があって言っているのなら、それをきちんと説明してから質問してください。

投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 23時09分

質問が複数になっていますので、一つずつ検証していきます。


小室さんの主張は、最澄が日本の仏教全体の戒をなくしたということです。

それはどこで主張されてますか?

小室さんの文章 ↓

仏教というのは、釈迦が定めた「戒」を守る。
それが、仏教の根本ともいえる。
唐招提寺を建立した鑑真和上が千辛万苦をものともせず日本に渡来したのも、正しい戒を教えるためであった。
それくらい規範は仏教にとって大切である。
ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。
その、とんでもない犯人は誰か。
それは誰あろう、伝教大師最澄である。
360ページ

投稿: おおくぼ | 2010年1月11日 (月) 23時18分

>おおくぼさん


だから、「必要条件と十分条件」の話題は中止にして、別の話題にしましょう。

と言い出したのはあなたですよ。


必要条件と十分条件の議論は、別のコメント欄でしたいのですが・・・。
別のコメント欄を作っていただけませんか?

作りません。
私は1つ1つ着実に論点を積み上げたいので、まず「実質的戒律全廃」についての議論を一段落させたいと思います。


投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 23時21分

>おおくぼさん


ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。

毎度のことながら小室先生の文章はわかりにくいんですが、少なくとも「日本の全ての仏教の規範を全廃」という意味ではないですよね。

投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 23時27分

それでは古賀さんは、どう解釈するのでしょうか?

延暦寺限定の話とも思えません。

投稿: おおくぼ | 2010年1月11日 (月) 23時32分

参考までに・・・

最初に紹介した井沢元彦さんとの対談です。

井沢元彦
早速ですが、僕は『言霊』の中で、日本には霊威に支配される原始宗教的な要素が非常に強いのではないか、と書いたんですが、小室さんは、そのあたりはどう考えですか。

小室直樹
そのとおりですよ。仏教にしてもキリスト教、儒教にしても、日本に入ってくるとぜんぶが本来の教義とはかけ離れたものになってしまいます。
世界のどこの国を見ても、新しい宗教が入ってきて広まり始めると、原始仏教は消えてなくなるんです。
ところが、日本では消えるどころか、日本の固有思想によって換骨奪胎される。
その特異な思想というのが、怨霊を鎮めるための神道ですよ。

井沢
僕は、そういう固定思想がいつまでも駆逐されずにストレートに残っている日本を民俗学・宗教学上のガラパゴス諸島といっているんです。

小室
日本に入ってきた宗教で影響力が大きいのは仏教です。
その仏教も、ぜんぜん違う異質のものになっています。
仏教の生命は戒律にあります。
玄奘三蔵がインドに命懸けで行ったのも、中国仏教の欠落を補うために梵律を探り、つぶさに研究し、梵本657部をもたらし戒律を輸入するためです。
玄奘がもたらした梵本を翻訳する仕事に列した学匠のなかから律宗の大成者逍宣が出ています。
日本にも、何人もの人が戒律を伝えるために命懸けでやってきています。

井沢
鑑真などもそうですね。

小室
鑑真もそうです。
栄西も戒律をもとめて中国に行きました。
ところが日本人は誰も、鑑真が命懸けで日本にやってきたことは知っていても何のためにきたかは知らない。
栄西にいたっては、お茶を持ってきたことのほうがよく知られています。

井沢
栄西は戒律を必死で伝えようとしていたのに、ついでに持ってきたお茶のほうが重要視されていると(笑)。

小室 
日本の仏教の特徴は、ゼロ戒律です。

井沢 
どのように戒律が消えていったのでしょうか。

小室 
そうしたのは伝教大師・最澄です。
彼が叡山で戒律を実質的に全廃したんです。
天台宗の戒律は煩瑣な決まりを除外した円頓戒(円戒)ですが、そんなものは戒律でもなんでもないのです。
仏教で僧侶になるには厳しい受戒のルールがあります。
天台宗のそれはまったく厳しくありません。
インドは言うに及ばず、中国、東南アジアでも、天台の円戒をうけた「僧侶」は、僧侶とは認められないでしょう。
仏様を証人にして、本人が内面で僧侶になったと意識すればいい、というキリスト教のできそこないのような戒律ですから、仏教では認められません。
このように伝教大師以来、実質的に日本の仏教の戒律はないのです。

井沢 
親鸞あたりから戒律がなくなっていったものと思っていましたが、最澄なんですか。

小室 
最澄の方針を徹底したのが親鸞であり、日蓮です。
それにしても比叡山延暦寺は日本仏教の総本山ともいうべきところです。
そこに戒律がなくていいというんだから、あとは右にならえです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月12日 (火) 09時24分

>おおくぼさん

私は最澄の行った
1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化
は、「戒律の実質的撤廃」といえるんじゃないかと思います。


このように伝教大師以来、実質的に日本の仏教の戒律はないのです。

ただ小室先生のいうようにこの時点で「日本の仏教から戒律はなくなった」とまでは言えないのではないかと。あくまでこの時点では一流派に生じた動きに過ぎないと考えられます。

投稿: 古賀 | 2010年1月12日 (火) 21時26分

とりあえず、この件に関しては古賀さんの同意を得たと考えて良いのでしょうか?

私の前のコメント ↓

1 「最澄が戒律を実質的に全廃した」という主張に対して「そうではない」という意見なのですか?

「そうではない」と思っています。
小室さんの主張も間違いとは言えないのですが、強引かつ単純化されすぎています。

最澄の影響は、最澄の生前ではなく、死後に大きく現れるのです。

よく空海と比較して、最澄が空海より偉大な部分として言われるのは、日本仏教史に残る有名な僧を多く輩出したことです。

比喩で言えば、最澄というウイルスが、日本仏教界に生まれ、チャイナに行き、パワーアップして戻ってきたのですが、旧仏教陣の抵抗に合い、ウイルスは鎮静したように見えたのですが、その後、最澄の影響を受けた、より強力なウイルスが誕生して、日本仏教界に猛威を振ったということです。

あまりいい比喩ではありませんが・・・。

最澄の影響が強く出るのは、鎌倉時代です。
支配階級が変わったことと、宗教家が大衆を救おうという大乗仏教の考え方を強く意識したことが大きいでしょう。

投稿: おおくぼ | 2010年1月12日 (火) 22時36分

次の検証に移ります。

古賀さんのコメント ↓

>文字通りの意味でしたら「違います」と答えるしかありません。「戒律」と「修行」はそもそも違うからです。

>そうでないなら、つまり何らかの文脈があって言っているのなら、それをきちんと説明してから質問してください。

まず、小室さん文章の引用から始めます。
小室さんの文章の解釈(検証)は、引用の後のコメントに書きます。

注意して読んで欲しいのは、小室さんの「規範」、「修行」という言葉の使い方です。

投稿: おおくぼ | 2010年1月12日 (火) 22時48分

小室直樹さんの文章 ↓

最澄が始めた規範全廃の思想を完成させたのが、実は、法然、親鸞、また別なところで日蓮といった仏教革命者たちであった。

この点は、法然上人、親鸞聖人のほうが徹底している。
「南無阿弥陀」と唱える唱名だけでいい、修行も学問も一切必要ないといっている。
これこそ仏教的な考え方からいったら、大変な異端なのだ。

かくして、日本の仏教は戒律を全部取り払った。
このことは本来の仏教では絶対に考えられないことであるが、その点をとらえると、キリスト教の布教の形式と大変によく似ていることに気づくであろう。

361ページ〜362ページ

投稿: おおくぼ | 2010年1月12日 (火) 23時00分

井沢さんとの対談では、「戒律」という言葉は、『日本人のための宗教原論』では「規範」になっています。
そして小室説だと、「規範」の一種として「修行」がある、というふうに解釈することができます。

投稿: おおくぼ | 2010年1月12日 (火) 23時03分

>おおくぼさん


とりあえず、この件に関しては古賀さんの同意を得たと考えて良いのでしょうか?

私は最澄の
1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化
は戒律の実質的撤廃だけど、日本の仏教全体に対する影響はこの時点ではまだ限定的だろうという意見なのですが。

おおくぼさんも「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律の実質的撤廃と考えているということでよろしいのですか?


投稿: 古賀 | 2010年1月13日 (水) 21時48分

>おおくぼさんも「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律の実質的撤廃と考えているということでよろしいのですか?

考え中です。

『日本人のための宗教原論』を通読したのですが、小室さんの使う「戒」の意味が、ますますわからなくなりました。

投稿: おおくぼ | 2010年1月14日 (木) 22時07分

小室さんの文章 ↓


仏教というのは、釈迦が定めた「戒」を守る。
それが、仏教の根本ともいえる。
唐招提寺を建立した鑑真和上が千辛万苦をものともせず日本に渡来したのも、正しい戒を教えるためであった。
それくらい規範は仏教にとって大切である。
ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。
その、とんでもない犯人は誰か。
それは誰あろう、伝教大師最澄である。
>360ページ

この文章を分解して、考えます。


1 仏教というのは、釈迦が定めた「戒」を守る。

2 唐招提寺を建立した鑑真和上が千辛万苦をものともせず日本に渡来したのも、正しい戒を教えるためであった。

まず、鑑真の「戒」は、釈迦の「戒」と同じなのか?という疑問があります。

鑑真は受戒するために、日本に来ました。
そして、受戒の制度を日本に伝えました。
この鑑真の受戒とは、正式な僧侶と認める儀式です。
同時に、国家公務員試験でもあるわけです。

だから親鸞や日蓮が、「実質的撤廃」したというなら理解できるんですが、最澄が「実質的撤廃」というのは同意できません。

1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化

・・・は歴史的事実です。

ただ小室さんの「実質的撤廃」の意味は、「1と2」を含んでいますが、それだけではありません。

小室さん文章 ↓


これでは何のための戒律か分からないというものだろう。
いくら破っても許されるのであれば、規範としての意味もなくなってしまうではないか。
何度も言うように、仏教において戒律とは単なるルールではない。
悟りを開く修行の一環として戒律は存在する。
その戒律を無視して悟りを得ることは望めない。
しかも、戒を定めたのは釈迦に他ならない。
ところが、その戒律を最澄は、改定するどころか、実質的に廃止してしまったのだ。
これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。
>『日本人のためのイスラム原論』94ページ

投稿: おおくぼ | 2010年1月14日 (木) 22時50分

>おおくぼさん


だから親鸞や日蓮が、「実質的撤廃」したというなら理解できるんですが、最澄が「実質的撤廃」というのは同意できません。

1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化

それでは「実質的撤廃」といえるためには、これ以外に何が必要なのですか?

投稿: 古賀 | 2010年1月15日 (金) 21時50分

小室さんの意味する「実質的撤廃」には賛成できないのです。

小室さんの主張 ↓

>ところが、その戒律を最澄は、改定するどころか、実質的に廃止してしまったのだ。
これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。

古賀さんは、小室さんの主張に賛成なのですか?

投稿: おおくぼ | 2010年1月15日 (金) 23時20分

>おおくぼさん

「実質的撤廃」だとは思っていますが、小室先生の意見とは違います。


これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。

在家中心主義の大乗仏教の教えからは必ずしもそうは言えないんじゃないかと。

私は戒律を骨抜きにする要因は個人の悟りよりも菩薩行を重視する大乗仏教そのものにあるんじゃないかと思っていますので。もちろん大乗仏教だからといって実際に「実質的撤廃」にまで至った例は少ないでしょうが

投稿: 古賀 | 2010年1月15日 (金) 23時52分

小室直樹さんの本は独特の言葉使いが多いので、読む時は、注意が必要です。

また、小室さんが自説の正しさを証明するために、自説に都合のいい解釈をしたり、都合の悪い事実を無視しているように、私には思えるのです。

最澄は、(東大寺と比べて)簡略化した公務員試験を延暦寺に作っただけです。

それが、小室さんには・・・

>これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。

と断定してしまいます。

その数行前では・・・

>悟りを開く修行の一環として戒律は存在する。

最澄は、「悟りを開く修行の一環として戒律」を否定するどころか、逆に厳しくした人です。
親鸞とは、逆なのです。
小室さんは、事実を知っていて、わざと無視しているのです。

>在家中心主義の大乗仏教の教えからは必ずしもそうは言えないんじゃないかと。

小室さんの「本来の仏教」の意味は、小室さん独特の意味が込められていると思うのです。
龍樹や『維摩経』は、小室さんの考えでは、「本来の仏教」なのですから。
だから、小室さんにとって、「本来の仏教」とは、「小乗仏教」でもなく、「原始仏教」でもなく、「出家主義」でもないのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月16日 (土) 02時57分

小室さんの主張は・・・

イスラム教 外面的なルールを重視

キリスト教 内面的なルールを重視

イスラム教とキリスト教は、同じ啓典宗教なのに、正反対な性格を持つのです。

そして、小室説によれば、この2種類の違いが、日本にはキリスト教が広まったのに、イスラム教が広まらない理由なのです。

鑑真の仏教 外面的なルールを重視

最澄の仏教 内面的なルールを重視

法然と親鸞と日蓮 最澄よりも内面的なルールを重視

だから、小室さんから見た場合、最澄は「鑑真の仏教」を否定したことになるのです。

そして、最澄は小室さんから見た場合、日本的な人物なのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月16日 (土) 03時08分

>おおくぼさん


在家中心主義の大乗仏教の教えからは必ずしもそうは言えないんじゃないかと。

私は戒律を骨抜きにする要因は個人の悟りよりも菩薩行を重視する大乗仏教そのものにあるんじゃないかと思っていますので。もちろん大乗仏教だからといって実際に「実質的撤廃」にまで至った例は少ないでしょうが


龍樹や『維摩経』は、小室さんの考えでは、「本来の仏教」なのですから。

どうもおおくぼさんは私の言ったことをきちんと理解されていないのと同時に、龍樹や『維摩経』についてもずっと同じところで誤解しつづけながら一方的に同じ主張だけくり返しているように思えます。
龍樹や『維摩経』は修行を否定する例として出しているのではなく釈迦の教えに従って修行をしなくても悟りがひらける例として小室先生は出しているのだといちいち説明するのも面倒になってきました。

とりあえず私が
最澄の
1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化
が「実質的撤廃」であるのかないのかに論点を絞ったのだから、その線で返答をいただければと思います。
私の見る限り「実質的撤廃」でないことの説得力ある論拠はまだ提示されていないようです。

投稿: 古賀 | 2010年1月16日 (土) 08時38分

古賀さんへ

>私の見る限り「実質的撤廃」でないことの説得力ある論拠はまだ提示されていないようです。

まず、小室直樹さんが「実質的撤廃」を、どういう意味でつかっているかが大事です。

私は、古賀さんと小室さんの「実質的撤廃」の意味が違うことを指摘した上で、小室さんの意味では同意できないとしました。

その論拠は、古賀さんが説得力を感じるかどうか別として、提示しました。

もう一度書くと・・・

最澄は、最澄は、(東大寺と比べて)簡略化した公務員試験を延暦寺に作っただけ。

そして小室さんの「実質的撤廃」=「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」

・・なので。

ゆえに最澄は、「仏教を否定」していないし、「釈迦の教えを否定」していない。

今回も、私と古賀さんの小室直樹の解釈の違いが原因で、議論が平行状態なのです。

議論が平行状態を意識し、その理由を分析しなければ、何度議論を繰り返しても、堂々巡りです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月16日 (土) 11時37分

>どうもおおくぼさんは私の言ったことをきちんと理解されていないのと同時に、龍樹や『維摩経』についてもずっと同じところで誤解しつづけながら一方的に同じ主張だけくり返しているように思えます。
龍樹や『維摩経』は修行を否定する例として出しているのではなく釈迦の教えに従って修行をしなくても悟りがひらける例として小室先生は出しているのだといちいち説明するのも面倒になってきました。

これも、私と古賀さんの小室さん記述に対する解釈の違いです。

私は、『日本人のための宗教原論』全体を論理一貫した整合した文章として読んでいます。

そして小室さんは、龍樹や『維摩経』を「本来の仏教」と書いています。

古賀さんのコメント↓

>龍樹や『維摩経』は修行を否定する例として出しているのではなく釈迦の教えに従って修行をしなくても悟りがひらける例として小室先生は出している

・・・のは、その通りです。

でも、同時に小室さんの「本来の仏教」が意味することは、「出家中心主義」ではないこと、「原始仏教」ではないこと、「小乗仏教」ではないことが、読み取れるのです。

論理的にも、(小室さんの意味で)「本来の仏教」を説明するのに、(小室さんの意味で)「本来の仏教」でない例をもってきたら、おかしいです。

だから、小室説では、龍樹と「維摩経」は、「本来の仏教」なのです。

古賀さんが、「可能性としての小室直樹」解釈ではなく、
小室さんが書いている文章全部を、論理整合的に解読する解釈を採用すれば、私と同じ解釈になるのではないでしょうか?

投稿: おおくぼ | 2010年1月16日 (土) 11時49分

前にもいいましたが、議論を中止したい場合は、いつでも言ってください。

平行状態の議論を何度繰り返しても、時間と労力の無駄です。
得るものは何もないし、徒労感しか残りません。

解釈の違い論争は、妄信的なキリスト教徒とイスラム教徒が、「キリスト教の神とイスラム教の神がどっちが偉いか?」と議論しても、決着がつかないのと同じです。

もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。

投稿: おおくぼ | 2010年1月16日 (土) 12時01分

補足

私の解釈では、小室さんは詭弁家です。
自説を立証するための都合のいい解釈が多すぎます。
そして都合の悪い事実を無視します。


鑑真が、日本に受戒の制度を持って来た理由の解釈もそうです。

引用↓
>僧侶と政治権力が関係ないというのが、インドで、中国に入って、僧侶は政治権力と関係ができた。
そして日本に入ってきてどうなったか。
日本の僧侶というのは初めは国家公務員だった。
僧侶であるかどうかという免許証は、政府が出し、官位、僧侶の位もみな政府が決める。
だから平安時代を通してずっと、僧侶といえば、すなわち公務員。

『日本人のための宗教原論』369ページ〜370ページ

小室さんは、中国の方が日本よりもずっと前から僧侶の国家公務員だったことを知っていて、書いています。

日本は中国を真似したのです。
そして仏教の本場中国から先生を招いて、公務員試験制度を採用したのであり、鑑真が日本で歓迎された理由でもあります。

小室さんは、「最澄が仏教を否定した」、「最澄が仏教を名前だけで、まったく別のものに作り変えた」という主張をしたいために、小室説に都合の悪い鑑真の訪日理由を無視しているのです。

そして、日本の仏教が「全く政治的」になり、それが日本の特殊性だと主張したいために、日本に仏教が入ってきた時点で、公務員化したと読める書き方をします。
もちろん、小室さんは歴史的事実を知っているので、丁寧に読めば、どっちともとれる曖昧な記述になっています。

また「日本の僧侶の公務員化」と「鑑真の訪日」とは深い関係にあるにもかかわらず、そのことについては言及しません。

小室さんは詭弁家にしか見えないのですが、大筋では間違っていません。
私が小室さんの本を読んで苛立つ理由は、歴史的事実をよく知っているのに、わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視するからです。

もちろん私の主張と小室直樹さんの主張は違います。
けれど、これは「キリスト教とイスラム教とどちらが正しいか?」いう論争と同じです。
例えば、「何を本来の仏教」と定義するかは、個人の自由です。

投稿: おおくぼ | 2010年1月16日 (土) 15時08分

>おおくぼさん


平行状態の議論を何度繰り返しても、時間と労力の無駄です。
得るものは何もないし、徒労感しか残りません。

平行状態なのは、おおくぼさんが

もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。

こういう態度だからですね。


私が小室さんの本を読んで苛立つ理由は、歴史的事実をよく知っているのに、わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視するからです。

自分の解釈が正しいと盲信していて、議論を何度続けても変わることはないと明言し、何を本来の仏教定義するかは個人の自由だなどと発言する人がそんなことを言っても何の説得力もありません。

「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまると思います。


投稿: 古賀 | 2010年1月16日 (土) 21時07分

「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまると思います。

その通りです。


投稿: おおくぼ | 2010年1月17日 (日) 22時40分

私にできることは、自分の解釈が正しくて、古賀さんの解釈が間違っているかを説明することです。
しかも、間違っているか正しいかを判断する基準は、古賀さんの気持ち次第なのです。

例えば・・・

>どうもおおくぼさんは私の言ったことをきちんと理解されていないのと同時に、龍樹や『維摩経』についてもずっと同じところで誤解しつづけながら一方的に同じ主張だけくり返しているように思えます。
龍樹や『維摩経』は修行を否定する例として出しているのではなく釈迦の教えに従って修行をしなくても悟りがひらける例として小室先生は出しているのだといちいち説明するのも面倒になってきました。

という古賀さんのコメントを読むと、古賀さんの解釈方法と私の解釈方法は全く違っていて、相いれることは不可能だと思いました。

例えば、『第四章 仏教は近代科学の先駆けだった」で、小室直樹さんが、龍樹の空論を「本来の仏教」として、説明をしているのを読んで・・「小室さんにとって、本来の仏教とは原始仏教でもなく、小乗仏教でもなく、出家中心主義でもないんだな」と思うわけです。

そして
>「空の解説書として評価が高いもう一つ「唯摩経」である。
238ページ

・・という記述を読んで、小室さんは「維摩経」を「空の解説書」として、紹介していると思うのです。

だから、「私が小室さんを誤解している」という決め付けは、古賀さん小室直樹解釈と私の小室直樹解釈が相容れない証拠なのです。

また

>とりあえず私が
最澄の
1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化
が「実質的撤廃」であるのかないのかに論点を絞ったのだから、その線で返答をいただければと思います。
私の見る限り「実質的撤廃」でないことの説得力ある論拠はまだ提示されていないようです。

・・・という古賀さんのコメントも、何故、私が小室さんの使う「実質的撤廃」という言葉を重視するかを全く理解していない証拠です。

小室さんにとって、最澄とは「仏教を否定し、釈迦の教えを否定」した人物なのです。
どうして小室さんのこの主張を、古賀さんが読み取ることができないのか不思議です。

投稿: おおくぼ | 2010年1月17日 (日) 23時02分

私はどんな酷い性格の持ち主であろうと、小室直樹さんが、「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」こととは関係ありません。
私の主張は説得力がないと思うなら、自分で調べて確認すればいいだけのことです。

例えば・・・・

鑑真が、日本に受戒の制度を持って来た理由の解釈もそうです。

引用↓
>僧侶と政治権力が関係ないというのが、インドで、中国に入って、僧侶は政治権力と関係ができた。
そして日本に入ってきてどうなったか。
日本の僧侶というのは初めは国家公務員だった。
僧侶であるかどうかという免許証は、政府が出し、官位、僧侶の位もみな政府が決める。
だから平安時代を通してずっと、僧侶といえば、すなわち公務員。

『日本人のための宗教原論』369ページ〜370ページ

小室さんは、中国の方が日本よりもずっと前から僧侶の国家公務員だったことを知っていて、書いています。
日本は中国を真似したのです。
そして仏教の本場中国から先生を招いて、公務員試験制度を採用したのであり、鑑真が日本で歓迎された理由でもあります。


これでは何のための戒律か分からないというものだろう。
いくら破っても許されるのであれば、規範としての意味もなくなってしまうではないか。
何度も言うように、仏教において戒律とは単なるルールではない。
悟りを開く修行の一環として戒律は存在する。
その戒律を無視して悟りを得ることは望めない。
しかも、戒を定めたのは釈迦に他ならない。
ところが、その戒律を最澄は、改定するどころか、実質的に廃止してしまったのだ。
これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。
>『日本人のためのイスラム原論』94ページ

小室さんは、「悟りを開く修行の一環として戒律は存在する」と言っているにもかかわらず、最澄の作った厳しい修行を無視しています。

>だから中国の仏教に対する弾圧というのは、キリスト教における弾圧と違って、全面的な禁止というのは、案外少ない。
一定の規模までは許すが、それ以上の増加は、国が危なくなるのという理由から許さない。
廃仏を盛んに訴えた韓退之の仏教批判は、仏教の教義が悪いとはいわず、社会に対しての影響に関してだけ攻撃の矢を向けている。
その点、キリスト教と全然違う。
『日本人のための宗教原論』367ページ

参考

会昌の廃仏
http://ja.wikipedia.org/wiki/会昌の廃仏

三武一宗の法難
http://ja.wikipedia.org/wiki/三武一宗の廃仏

韓退之
http://ja.wikipedia.org/wiki/韓愈

中国の廃仏は道教の影響であり、弾圧は酷いものだった。

投稿: おおくぼ | 2010年1月17日 (日) 23時31分

>おおくぼさん

自分の解釈が正しいと盲信していて、議論を何度続けても変わることはないと明言し、何を本来の仏教と定義するかは個人の自由だなどと発言し、「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまるというと「その通りです。」と主張するような人間は、議論における最も基本的なルールをふみはずしているのですよ。


・・・という古賀さんのコメントも、何故、私が小室さんの使う「実質的撤廃」という言葉を重視するかを全く理解していない証拠です。

全く見当違いな主張です。

おおくぼさんは自分の主張にばかりこり固まり、私がなぜ順を追って1つ1つ確実に検証しようとしているのかを全く理解していません。

まず「実質的撤廃」であったかどうか論拠をあげてはっきりさせることがこの場合必要だと考えます。細かいところはきちんきちんとルールに従って確実に根拠を積み重ねていけば自ずと是正されます。

私は私が小室先生や相手の主張を理解していなかったり誤解しているかも知れないことを計算に入れています。それゆえにルールに従って一歩一歩確実に論拠を固める議論を重視するのです。


私はどんな酷い性格の持ち主であろうと、小室直樹さんが、「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」こととは関係ありません。

酷い性格かどうかは関係ありませんが、酷い議論のやり方をする人かどうかは関係ありますよ。
「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」人が「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」人の著作を検証するなど不毛の極みです。


私の主張は説得力がないと思うなら、自分で調べて確認すればいいだけのことです。

私はおおくぼさんと違って確実に小室先生の間違いやおかしな所を指摘してます。

自分の解釈が正しいと盲信してはいませんし、議論を続けて「ここがおかしい」と思えば意見を変えます。何を本来の仏教と定義するかは自分の独断ではなく資料に沿ってきちんと検討します。わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視するようなことができるだけないよう、意見の一致を重視します。

投稿: 古賀 | 2010年1月18日 (月) 08時04分

>それゆえにルールに従って一歩一歩確実に論拠を固める議論を重視するのです。

そうは思えません。
古賀さんは、すぐ感情論に逃げて、私を倫理的に非難して、議論をうやむやにしているとしか思えません。

譬えで言うと、古賀さんは好きでもない酒に無理矢理つきあわされ、イヤイヤ飲まされて、適当に終わらせようとしているとしか思えないのです。

また古賀さんにとっての正しい議論のルールが、古賀さんだけにか理解できないルールだと思います。
具体的に古賀さんの正しい議論のルールはなんなのですか?

私の議論のルールは、この場合は・・・・

1 小室直樹さんの「文章全体」を論理的整合的に読むこと。

2 小室直樹さんの文章に間違いや矛盾があると思えば、該当箇所を明示すること。

3 自分の主張を裏付ける証拠を明示すること

・・・です。

投稿: おおくぼ | 2010年1月18日 (月) 10時12分

>おおくぼさん


古賀さんは、すぐ感情論に逃げて、私を倫理的に非難して、議論をうやむやにしているとしか思えません。

私は少なくとも悪いところやおかしな所があったら変えようという態度でいます。おおくぼさんのようにいいかげんな主張をやたらまきちらさず確実に議論をしたいだけです。


もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。


「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまると思います。

その通りです。

などと明言してひらきなおる人間とは違います。


私の議論のルールは、この場合は・・・・

1 小室直樹さんの「文章全体」を論理的整合的に読むこと。

2 小室直樹さんの文章に間違いや矛盾があると思えば、該当箇所を明示すること。

3 自分の主張を裏付ける証拠を明示すること

「私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはない」とか「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」と言っている人間が何の冗談でしょうか?いろはができない人間がゲーデルの不完全性定理について語るようなものです。


投稿: 古賀 | 2010年1月19日 (火) 07時07分

追記

囲碁で「自分が勝つまでやる。負けても負けは決して認めない。自分が不利なら石を並べ替えるのも当然」などと明言している人間が、囲碁の打ち方についてあれこれ語っても無意味だということです。

投稿: 古賀 | 2010年1月20日 (水) 07時18分

私から見れば、古賀さんは嘘つきか、自分が嘘つきであることを自覚していない人です。

私に対する倫理的な非難は、古賀さん自身もあてはまります。
自分の過去のコメントを読み直して見てください。
言っていることとやっていることが矛盾だらけです。
あなたに私を倫理的に非難できる資格はありません。

投稿: おおくぼ | 2010年1月20日 (水) 21時26分

>おおくぼさん


私から見れば、古賀さんは嘘つきか、自分が嘘つきであることを自覚していない人です。

私に対する倫理的な非難は、古賀さん自身もあてはまります。

そうですね。少なくとも私は


もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。


「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまると思います。

その通りです。

などと明言したことはありませんし、これからもしないでしょうね。

囲碁で「自分が勝つまでやる。負けても負けは決して認めない。自分が不利なら石を並べ替えるのも当然」などと明言しており、しかもそれを指摘されると「お前だって卑怯な手を使っているはずだ」と何の具体例も挙げずに述べるような人間が
囲碁についてあれこれ偉そうに語るのは無意味だということです。

私はおかしなところや間違ったところがわかれば少しずつでも直していくつもりでいます。「私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」などと言う人間と同レベルで語ってほしくはありません。

とりあえず「私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」という議論における最低の常識もわきまえない発言をあなたが撤回しなければまともな議論はできないということはわかるでしょう。撤回してください。

「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」のはそのたびごとに指摘して修正することもまあ一応は可能でしょう。大変に根気が必要ですが。

投稿: 古賀 | 2010年1月20日 (水) 22時19分

>撤回してください。

撤回する気はまったくありません。
また「最低の常識もわきまえない」というのは古賀さんの勝手な価値判断です。
古賀さんの価値体系の中では真かもしれませんが、私の価値体系の中では真ではありません。

>自分が勝つまでやる。負けても負けは決して認めない

私は、議論を勝ち負けでやっていません。
勝ち負けには、勝敗を決める審判が必要です。
あるいは、どうすれば勝ち負けになるかの明確な基準が必要です。
だから、負けも存在しないので、負けを認めることもありません。
私が「負けを認めない」ように見えるのは、古賀さんの勝手な判断です。

>「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」

このことは、誰にでもあてはまることで、そのことを自覚しない方が偽善でしょう。

例えば、と学会の山本会長のダブル・スタンダードです。

>私はおかしなところや間違ったところがわかれば少しずつでも直していくつもりでいます。

ゼロではないにしても、ほとんど直しているようには見えません。
実例は、今までの古賀さん自身のコメントを読み返して見てください。

>私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。

例えば、小室直樹さんにとって、龍樹の空論が「本来の仏教」であるのは、盲信です。

そして、同じように私は、龍樹の空論を「本来の仏教ではない」と盲信しています。
だから、私と小室直樹さんとの意見は同意することはありません。
同じように、小室直樹さんは「最澄が仏教を否定した」と盲信しています。
私は「最澄は仏教を否定していない」と盲信しています。

>「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」のはそのたびごとに指摘して修正することもまあ一応は可能でしょう。大変に根気が必要ですが。

ネットの議論の多くは、そうなっています。

発言の自由を認めることと、同意することとは違います。
発言の自由を尊重しているから、「批判してはいけない」ということにはなりません。
私は小室直樹さんの発言を尊重しながらも、同意はしないし、批判もするのです。

そして、私の主張に同意するか、小室直樹さんの主張に同意するかは、第三者の自由なのです。
これが、私の考える「議論の最低限の常識」です。

小室直樹さんの主張が「何故おかしいのか」を自分のブログに連載を始めました。
コメントはいりません。
ただ、こちらのコメント欄に書いても、私の主張が誤解されるだけだと思ったので、自分のブログに理解しやすく書きました。
もし私の記事の内容に疑問を感じたら、自分で調べて確認して下さい。

投稿: おおくぼ | 2010年1月21日 (木) 01時00分

>おおくぼさん


撤回する気はまったくありません。
また「最低の常識もわきまえない」というのは古賀さんの勝手な価値判断です。
古賀さんの価値体系の中では真かもしれませんが、私の価値体系の中では真ではありません。

「私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」と主張する人間が、「あなたの価値体系の中では真かもしれませんが、私の価値体系の中では真ではありません。」などという論法をくり広げていては議論に決着を見ることはありません。
そのような議論をしても無意味だからそう述べているのです。

それを全く理解されないということに私は驚いています。


>「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」

このことは、誰にでもあてはまることで、そのことを自覚しない方が偽善でしょう。

自覚してできるだけそうしないようにするのと、そこに居直るのとでは天と地ほどにも違います。


あなたに私を倫理的に非難できる資格はありません。

「1+1=3」という人間に「1+1=2だよ」と根気強く教えてあげることが倫理的非難にあたるとは初耳でした。勉強になります。

投稿: 古賀 | 2010年1月21日 (木) 07時22分

>おおくぼさん


>私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。

例えば、小室直樹さんにとって、龍樹の空論が「本来の仏教」であるのは、盲信です。

そして、同じように私は、龍樹の空論を「本来の仏教ではない」と盲信しています。
だから、私と小室直樹さんとの意見は同意することはありません。

小室先生は「私は絶対意見を変えない」とか「私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません」といった主張をしているわけではないのでものすごい詭弁です。

投稿: 古賀 | 2010年1月21日 (木) 07時45分

古賀さんへ

まず、自分が今まで書いたコメントを読みなおしましょう。
そして、自分の言っていることに矛盾がないかを検証しましょう。

また小室直樹さんの『日本人のための宗教原論』本全体を論理的に読むべきです。
古賀さんは、『日本人のための宗教原論』を部分に分解してバラバラに読んでいるので、解釈に一貫性がありません。
私を倫理的に非難する前にすることがあると思います。

>「1+1=3」という人間に「1+1=2だよ」と根気強く教えてあげることが倫理的非難にあたるとは初耳でした。勉強になります。

勉強になったのなら、幸いです。

小室直樹さんが盲信しているというのは、私の勝手な独断です。
でも、そうとしか思えないのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月21日 (木) 11時08分

古賀さんのコメントは、自分勝手ですね。

前のコメントを時系列順に引用します。


私が小室さんの本を読んで苛立つ理由は、歴史的事実をよく知っているのに、わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視するからです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月16日 (土) 15時08分



「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまると思います。

投稿: 古賀 | 2010年1月16日 (土) 21時07分



その通りです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月17日 (日) 22時40分



自分の解釈が正しいと盲信していて、議論を何度続けても変わることはないと明言し、何を本来の仏教と定義するかは個人の自由だなどと発言し、「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまるというと「その通りです。」と主張するような人間は、議論における最も基本的なルールをふみはずしているのですよ。

投稿: 古賀 | 2010年1月18日 (月) 08時04分



「私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはない」とか「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」と言っている人間が何の冗談でしょうか?いろはができない人間がゲーデルの不完全性定理について語るようなものです。

投稿: 古賀 | 2010年1月19日 (火) 07時07分



私から見れば、古賀さんは嘘つきか、自分が嘘つきであることを自覚していない人です。

投稿: おおくぼ | 2010年1月20日 (水) 21時26分



>私から見れば、古賀さんは嘘つきか、自分が嘘つきであることを自覚していない人です。

>私に対する倫理的な非難は、古賀さん自身もあてはまります。


そうですね。

投稿: 古賀 | 2010年1月20日 (水) 22時19分



「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」のはそのたびごとに指摘して修正することもまあ一応は可能でしょう。大変に根気が必要ですが。

投稿: 古賀 | 2010年1月20日 (水) 22時19分



「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」

このことは、誰にでもあてはまることで、そのことを自覚しない方が偽善でしょう。

例えば、と学会の山本会長のダブル・スタンダードです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月21日 (木) 01時00分


10
>「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」

このことは、誰にでもあてはまることで、そのことを自覚しない方が偽善でしょう。

自覚してできるだけそうしないようにするのと、そこに居直るのとでは天と地ほどにも違います。

投稿: 古賀 | 2010年1月21日 (木) 07時22分


私が古賀さんの好きな小室直樹さんを「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視するから」を批判したら、同じ批判は、私に当てはまると古賀さんが批判したのです。
それに対し、私は正直に「その通り」だと答えただけです。
「違う」と答えるべきだったのでしょうか?

投稿: おおくぼ | 2010年1月21日 (木) 11時24分

>おおくぼさん


古賀さんは、『日本人のための宗教原論』を部分に分解してバラバラに読んでいるので、解釈に一貫性がありません。

私は小室先生の著作を結構読んでいるので、著作において大体一貫している思想傾向、用語の使い方、文章の癖などを知っています。
おおくぼさんは『日本人のための宗教原論』の一部ぐらいしか読んでいないので、私から見れば勘違いのような解釈が多いため親切のつもりで良くそれを指摘しているのです。それが部分に分解してバラバラに読んでいるので解釈に一貫性がないように見えるとは、いやはや言葉もありません。



>私から見れば、古賀さんは嘘つきか、自分が嘘つきであることを自覚していない人です。

>私に対する倫理的な非難は、古賀さん自身もあてはまります。


そうですね。

そこで切るのはおかしいですよ。
私は


そうですね。少なくとも私は


もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。


「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまると思います。

その通りです。

などと明言したことはありませんし、これからもしないでしょうね。

と言っており、ここまでで一体なのですから。


私が古賀さんの好きな小室直樹さんを「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視するから」を批判したら、同じ批判は、私に当てはまると古賀さんが批判したのです。
それに対し、私は正直に「その通り」だと答えただけです。
「違う」と答えるべきだったのでしょうか?

小室先生がわざと自説の都合のいいように解釈し都合の悪い事実を無視し、あなたもわざと自説の都合のいいように解釈し都合の悪い事実を無視するというのなら、あなたは何を根拠に小室先生を批判するのですか?嘘つき日本一を決める勝負でもしているのですか?

批判対象が「自説の都合のいいように解釈し都合の悪い事実を無視している」というのなら、批判する側は当然そうではないというところを示すべきでしょう。

それと議論の時に私はできるだけ論点を絞りますが、あなたはいつもただただ自分が言いたいこと思いついたこと有利だと思うことを垂れ流すだけです。「『日本人のための宗教原論』を部分に分解してバラバラに読んでいるので、解釈に一貫性がない」など、今はどうでもいい。議論が枝葉に分かれて混乱するだけです。そのレベルのことであれば私もいくらでも言いたい言えることはあります。いたずらに議論を混乱させるから今は言わないだけです。あなたにはそういう議論の流れに対する配慮が決定的に欠けているのです。

現在、私があなたのおかしい点として主張しているのは
1 「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」とあなたが言ったこと

2 「「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまると思います。」と私が言ったのに対し「そのとおりです」と答えたこと

の2点です。なぜこれをあげたかというと、あなたがこれを本気で言っているのならこのまま議論を続けてもただただ不毛なだけだからです。倫理的非難などとんちんかんも甚だしい。

その線にそって主張なり反論なりをしてください。今は議論ルールの、しかも最も基本的な点についてだけ話をしているのです。

投稿: 古賀 | 2010年1月22日 (金) 06時57分

>の2点です。なぜこれをあげたかというと、あなたがこれを本気で言っているのならこのまま議論を続けてもただただ不毛なだけだからです。倫理的非難などとんちんかんも甚だしい。

もちろん本気に決まっています!!!!

>その線にそって主張なり反論なりをしてください。

その線とは、どの線ですか?

私から見れば、古賀さんは自分しか理解できない判断基準で、私を批判しているとしか思えません。

だから、古賀さんの私への批判は自分勝手な独断にすぎません。

理解不可能です。 ↓

>私から見れば勘違いのような解釈が多いため親切のつもりで良くそれを指摘しているのです。それが部分に分解してバラバラに読んでいるので解釈に一貫性がないように見えるとは、いやはや言葉もありません。

>なたは何を根拠に小室先生を批判するのですか?嘘つき日本一を決める勝負でもしているのですか?

批判対象が「自説の都合のいいように解釈し都合の悪い事実を無視している」というのなら、批判する側は当然そうではないというところを示すべきでしょう。

それと議論の時に私はできるだけ論点を絞りますが、あなたはいつもただただ自分が言いたいこと思いついたこと有利だと思うことを垂れ流すだけです。「『日本人のための宗教原論』を部分に分解してバラバラに読んでいるので、解釈に一貫性がない」など、今はどうでもいい。議論が枝葉に分かれて混乱するだけです。そのレベルのことであれば私もいくらでも言いたい言えることはあります。いたずらに議論を混乱させるから今は言わないだけです。あなたにはそういう議論の流れに対する配慮が決定的に欠けているのです。

例えば、私が小室直樹さんが「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」ことを、具体的かつ論理的に明示しています。

もし私の主張に反論するなら、古賀さんも具体的かつ論理的に反論すればいいだけのことです。

下らないご高説は、ただの誤魔化しです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月24日 (日) 00時29分

実例で説明しましょう。

小室直樹さんの文章 ↓


これでは何のための戒律か分からないというものだろう。
いくら破っても許されるのであれば、規範としての意味もなくなってしまうではないか。
何度も言うように、仏教において戒律とは単なるルールではない。
悟りを開く修行の一環として戒律は存在する。
その戒律を無視して悟りを得ることは望めない。
しかも、戒を定めたのは釈迦に他ならない。
ところが、その戒律を最澄は、改定するどころか、実質的に廃止してしまったのだ。
これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。
>『日本人のためのイスラム原論』94ページ

>私は小室先生の著作を結構読んでいるので、著作において大体一貫している思想傾向、用語の使い方、文章の癖などを知っています。

本当でしょうか?

自分勝手に読んできて、自分の解釈が唯一正しいと信じているだけにしか思えません。

一貫していると言うなら、小室直樹さんの該当箇所をきっちり引用して、論理的に展開して下さい。

投稿: おおくぼ | 2010年1月24日 (日) 00時46分

補足

古賀さんの前のコメント ↓

>おおくぼさん


小室さんの主張は、最澄が日本の仏教全体の戒をなくしたということです。

それはどこで主張されてますか?


古賀さんの解釈では、「戒律」に修行は含まれるのでしょうか?

文字通りの意味でしたら「違います」と答えるしかありません。「戒律」と「修行」はそもそも違うからです。

そうでないなら、つまり何らかの文脈があって言っているのなら、それをきちんと説明してから質問してください。

投稿: 古賀 | 2010年1月11日 (月) 23時09分

>おおくぼさん

私は最澄の行った
1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化
は、「戒律の実質的撤廃」といえるんじゃないかと思います。


このように伝教大師以来、実質的に日本の仏教の戒律はないのです。

ただ小室先生のいうようにこの時点で「日本の仏教から戒律はなくなった」とまでは言えないのではないかと。あくまでこの時点では一流派に生じた動きに過ぎないと考えられます。

投稿: 古賀 | 2010年1月12日 (火) 21時26分

比較 小室直樹さんの記述 ↓


これでは何のための戒律か分からないというものだろう。
いくら破っても許されるのであれば、規範としての意味もなくなってしまうではないか。
何度も言うように、仏教において戒律とは単なるルールではない。
悟りを開く修行の一環として戒律は存在する。
その戒律を無視して悟りを得ることは望めない。
しかも、戒を定めたのは釈迦に他ならない。
ところが、その戒律を最澄は、改定するどころか、実質的に廃止してしまったのだ。
これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。

>『日本人のためのイスラム原論』94ページ

投稿: おおくぼ | 2010年1月24日 (日) 00時58分

>おおくぼさん


いたずらに議論を混乱させるから今は言わないだけです。あなたにはそういう議論の流れに対する配慮が決定的に欠けているのです。

と私が言ったそばからただただ言いたい放題ですね。あなたには人の言うことを理解する力がまるでないんですか?


もし私の主張に反論するなら、古賀さんも具体的かつ論理的に反論すればいいだけのことです。

で、あなたのおっしゃるとおりならいくら具体的に反論しても「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」と言っておしまいになるわけなんですよ。自分がとてもナンセンスなことを言っているのに気がつきませんか?

「いくら王手をかけても私の王将は盤の外に逃げますから何ともありません。それが私の将棋のルールです」とか言っている奴と何で将棋をしなきゃならないんですか?


その線とは、どの線ですか?

私から見れば、古賀さんは自分しか理解できない判断基準で、私を批判しているとしか思えません。

だから、古賀さんの私への批判は自分勝手な独断にすぎません。

何で「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」と言ってる人間が他人に対して「勝手な独断」とかいう批判がなぜできるのかわかりません。

あなたがそう言うなら私にも「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」と言う権利があるわけでしょう。自分は良くて他人は駄目なのですか?とことんダブルスタンダードなのですか?

私はもちろん具体的かつ論理的に書くつもりでいます。ただあなたに対して具体的かつ論理的に反論するのは無意味ではないかと思っているだけです。なにしろ「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」と言って恥じない人間なのですから。

それと継続するかどうかは別として本論自体は


私は、古賀さんと小室さんの「実質的撤廃」の意味が違うことを指摘した上で、小室さんの意味では同意できないとしました。

その論拠は、古賀さんが説得力を感じるかどうか別として、提示しました。

もう一度書くと・・・

最澄は、最澄は、(東大寺と比べて)簡略化した公務員試験を延暦寺に作っただけ。

そして小室さんの「実質的撤廃」=「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」

・・なので。

ゆえに最澄は、「仏教を否定」していないし、「釈迦の教えを否定」していない。

ここでとりあえず止まっているはずです。現時点では私は小室先生の主張もおおくぼさんの主張も全面否定していません。「実質的撤廃」といえるかどうかについて意見が一致するかどうか確認しているだけです。

おおくぼさんはこちらの言うことをまるで理解されないので私が小室先生を擁護していると思ってぎゃんぎゃん順繰りを考えずにわめきちらしていますが、私の現在の方向性としては小室先生批判に傾く可能性の方が高いのですよ。おおくぼさんのようにせっかちに書いていることをきちんと理解しないうちに不確実な論拠で結論を出すのが嫌なだけです。


下らないご高説は、ただの誤魔化しです。

「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」などと言ってそれのどこがおかしいか気がつかない人間にそう言われるのはむしろ名誉でしょうね。


自分勝手に読んできて、自分の解釈が唯一正しいと信じているだけにしか思えません。

ほう「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」とおっしゃる人がなぜ他人に対しては「自分勝手に読んできて、自分の解釈が唯一正しいと信じている」ことを非難するのですか?

もちろん私が自分のことを「自分勝手に読んできて、自分の解釈が唯一正しいと信じている」と考えているわけではありませんよ。

投稿: 古賀 | 2010年1月24日 (日) 09時43分

>おおくぼさん

もう1度きっちり確認しておきますが


私は、古賀さんと小室さんの「実質的撤廃」の意味が違うことを指摘した上で、小室さんの意味では同意できないとしました。

その論拠は、古賀さんが説得力を感じるかどうか別として、提示しました。

もう一度書くと・・・

最澄は、最澄は、(東大寺と比べて)簡略化した公務員試験を延暦寺に作っただけ。

そして小室さんの「実質的撤廃」=「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」

・・なので。

ゆえに最澄は、「仏教を否定」していないし、「釈迦の教えを否定」していない。

本論の方はここで止まっているので、それにあわせて論を展開するつもりでいるのですが、議論の基本的な合意について疑問が出たので主張を差し控えているだけのことです。議論自体をストップするなら私の方で単独で論を展開することになるのでやり方が変わってきます。

何度でも言いますが議論の時に私はできるだけ論点を絞りますが、あなたはいつもただただ自分が言いたいこと思いついたこと有利だと思うことを垂れ流すだけです。それで議論が混乱するのは当然です。

投稿: 古賀 | 2010年1月24日 (日) 09時57分

>おおくぼさん

本論についても議論のルールについても私はゆっくり着実にやるつもりでいます。あなたは余分で無駄で不必要なことを言いすぎです。

投稿: 古賀 | 2010年1月24日 (日) 10時04分

>おおくぼさん

それと私に対する批判なり何なりは議論ルールについて決着がついたらいくらでも聞きますよ。今は議論が混乱するから深入りを避けているだけです。そのへんはちゃんと理解するように。

そもそも「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」とあなたが考えているのなら、私の方がおおくぼさんの意見に同意するのでない限り意見の一致というのはありえないように思えるのですが、それだと議論の決着というのはどのようにつくのですか。お互いに言いたいことを言って平行状態で終わりですか?それとも私がおおくぼさんの意見に同意するのは想定するがそれ以外はまるで想定しないという何やら虫のいい考えですか?

投稿: 古賀 | 2010年1月24日 (日) 10時25分

私から見れば、あなたは嘘つきで、偽善者です。

そして、自分を善人と信じて、私を悪人と断定して、悪人と議論してもしかたないとしているだけです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月24日 (日) 14時09分


私が小室さんの本を読んで苛立つ理由は、歴史的事実をよく知っているのに、わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視するからです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月16日 (土) 15時08分



「わざと自説の都合のいいように解釈し、都合の悪い事実を無視する」は、おおくぼさんにもあてはまると思います。

投稿: 古賀 | 2010年1月16日 (土) 21時07分


その通りです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月17日 (日) 22時40分

私が正直に古賀さんの指摘に答えたら、その後は、鬼の首をとったように、私に対する倫理的な批判だらけです。

小室直樹検証には、まったく必要はありません。

「こんなことを言う人と議論してもしかたない」という古賀さんの逃げにしか思えません。

議論を続けるのが嫌なら、嫌だと正直に言って下さい。

投稿: おおくぼ | 2010年1月24日 (日) 14時31分

>おおくぼさん

議論においては「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」ととんでもないことを主張し、気に入らない本はトンデモ本、気に入らない人間は嘘つき、偽善者ですか。なるほど。


そして、自分を善人と信じて、私を悪人と断定して、悪人と議論してもしかたないとしているだけです。

言ってもいないことを勝手に読み取るのはおおくぼさんの悪いところです。私がいつあなたを悪人と言いました?「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」などと言う人とは、少なくとも通常の議論は無理だと言っているのですよ。
むしろ私に対してきちんと具体的指摘をせず不当な倫理的非難をくわえ続けているのはあなたです。

とりあえず

そもそも「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」とあなたが考えているのなら、私の方がおおくぼさんの意見に同意するのでない限り意見の一致というのはありえないように思えるのですが、それだと議論の決着というのはどのようにつくのですか。お互いに言いたいことを言って平行状態で終わりですか?それとも私がおおくぼさんの意見に同意するのは想定するがそれ以外はまるで想定しないという何やら虫のいい考えですか?

にまず答えてもらうのが早道だと思いますよ。


「こんなことを言う人と議論してもしかたない」という古賀さんの逃げにしか思えません。

いや、「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」などと平然と口走る輩とでも、やり方次第では『議論』が可能かもしれません。それをこれから考えようというのです。まあそれが通常の意味で議論といえるかどうかですが。何しろいくら議論しても決して自分の解釈は変えないと明言しているのですから。

投稿: 古賀 | 2010年1月25日 (月) 07時19分

>気に入らない本はトンデモ本、気に入らない人間は嘘つき、偽善者ですか。なるほど。

その通りですが、根拠は明示します。
同意するかは別です。

>ってもいないことを勝手に読み取るのはおおくぼさんの悪いところです。私がいつあなたを悪人と言いました?

これは私の勝手な推測ですが、推測が何故いけないのでしょうか?
古賀さんも同じように推測で、私を非難しています。
古賀さんは自分のしていることに対する自覚がなさすぎです。

>むしろ私に対してきちんと具体的指摘をせず不当な倫理的非難をくわえ続けているのはあなたです。

同意するかは別ですが、具体的に指摘しています。

投稿: おおくぼ | 2010年1月25日 (月) 11時13分

>おおくぼさん

【議論のやり方についての意見】

まず私は意見の完全な一致は求めていません。
解釈は、料理の味がうまい不味いという判断と同じで、主観が入ります。
私は自分の解釈が正しいと信じています。

もちろん私も完全な一致は求めていません。

しかし議論がすすむにつれて自分が最初確信していたことが間違っていたことに気がついたり解釈が不完全だと気がつくことがありえます。それによって議論している双方の意見が変わりより発展的な解釈が生じることもあるでしょう。
おおくぼさんが「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」と言っているのは、どう考えてもそれを放棄しているとしか思えません。だからそれはおかしいと言っているのです。

現在のところ私は、おおくぼさんと私の間で意見がどこまで一致しているのかを徹底的に確認し、それによってどこで意見の違いが生じているかを浮き彫りにしていく方法を考えています。遠回りのようでそれが一番確実でしょう。特に確実な資料を用いた歴史的事実においては多くの点で一致を見るでしょう。

【おおくぼさんのコメントについての意見】
苦言を呈すればおおくぼさんは言っていることに無駄が多すぎます。今回も1つだけコメントを書けば十分でしょう。なぜそんなに無駄かつ不必要なコメントをするのですか。議論の混乱を招くだけです。
自分の言いたいことをだらだらと垂れ流すのはやめなさい!議論の流れを考えなさい!

はっきり言っておおくぼさんのきちんとまとまっていないだらだらとした意見が何を言っているのか把握するのも結構大変なんです。もうちょっと気をつかって手短にきちんと要約してくれればいいと思います。自覚してますか?

何度言ってもわからないようなのでコメントを1つだけ残して削除します。その時その時必要最低限のコメントをしてください。

追記 今回削除した意見を次回にまたあげていただいても結構ですが1つずつにしてください。意見も簡潔明瞭にお願いします。

投稿: 古賀 | 2010年1月25日 (月) 22時38分

>おおくぼさん

『日本人のための宗教原論』第7章についての議論の経過を要約しました。

http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron001.htm

この要約に問題がなければこれに基づいて反論を行います。追完すべき点や変更すべき点があればご指摘ください。私が議論のこの段階では特に必要ないと思った箇所や無駄だと思った箇所は省いていますので。


投稿: 古賀 | 2010年1月26日 (火) 21時52分

>追完すべき点や変更すべき点があればご指摘ください。

了解しました。

要約の引用 ↓


① 小室と古賀では「実質的撤廃」の意味が違う。小室は「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」

の意味で使っている。

補足 ↓

「小室と古賀では「実質的撤廃」の意味が違う」ということは、完全に違うということではなく、小室さんの方が広い意味で使っていることであり、古賀さんの「実質的撤廃」の意味も含んでいます。
古賀さんは、「実質的撤廃」に「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意味を含めていないと思います。
また小室さんの主張で大事な点は、「最澄が仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」だと私は解釈しています。


>おおくぼさんが「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」と言っているのは、どう考えてもそれを放棄しているとしか思えません。だからそれはおかしいと言っているのです。

私の全部の解釈を盲信であり、変わることがないと言っているわけではありません。
これは、以前の私のコメントを丁寧に読んでもらえばわかります。

盲信に自覚的であり、変えることができる部分と変えることができない部分を意識することがあるというです。
私にとって、盲信とは「公理なのに、公理を絶対的事実と勘違いすること」です。
これは誰にもあることだからこそ、自覚が大事なのです。

議論は、定義や公理が必要なのですが、議論のための約束ということを忘れ、絶対的事実と勘違いすれば、議論の平行状態が起こりやすくなり、その原因に気づかないのです。

例で言えば、小室さんの「本来の仏教」は定義がされていません。

投稿: おおくぼ | 2010年1月27日 (水) 11時16分

追完すべき点は他にもありますが、一度に書くのはやめて、順を追って、ゆっくりと追完コメントを書きます。

投稿: おおくぼ | 2010年1月27日 (水) 12時27分

議論とは関係ないのですが、要約の文中に古賀さんのケアレスミスを発見しましたので、指摘します。

>③ その犯人といえるのは伝教大師最澄である。彼は彼の作った日本仏教の総本山、比叡山の戒律を実質的に全廃してしまった。

「彼の作った日本仏教の総本山、比叡山の戒律」・・・だと意味がおかしくなります。

「東大寺の戒律(受戒制度)」あるいは「鑑真が伝えた戒律(受戒制度)」の方がいいと思います。

投稿: おおくぼ | 2010年1月27日 (水) 15時30分

>おおくぼさん


補足 ↓

「小室と古賀では「実質的撤廃」の意味が違う」ということは、完全に違うということではなく、小室さんの方が広い意味で使っていることであり、古賀さんの「実質的撤廃」の意味も含んでいます。
古賀さんは、「実質的撤廃」に「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意味を含めていないと思います。
また小室さんの主張で大事な点は、「最澄が仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」だと私は解釈しています。

わかりました。そこは変更しておきます。


私の全部の解釈を盲信であり、変わることがないと言っているわけではありません。
これは、以前の私のコメントを丁寧に読んでもらえばわかります。

盲信に自覚的であり、変えることができる部分と変えることができない部分を意識することがあるというです。
私にとって、盲信とは「公理なのに、公理を絶対的事実と勘違いすること」です。
これは誰にもあることだからこそ、自覚が大事なのです。

少なくとも「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」という表現からはその趣旨は読みとれません。「これは、以前の私のコメントを丁寧に読んでもらえばわかります。」というのも無理な相談だと思います。

だからこそ私は「撤回しないのか?」「本気なのか?」と何度も確認したのです。それに対する返答からおおくぼさんのそのような意向を汲み取るのは無理だと思います。

現在においてはそういう考えなのだと受け取っておきます。


「彼の作った日本仏教の総本山、比叡山の戒律」・・・だと意味がおかしくなります。

わかりました。「彼の作った日本仏教の総本山、比叡山は今までの戒律を実質的に全廃してしまった。」ではどうでしょう。


投稿: 古賀 | 2010年1月27日 (水) 21時23分

>「彼の作った日本仏教の総本山、比叡山は今までの戒律を実質的に全廃してしまった。」ではどうでしょう。

それでいいと思います。


追完

『日本人のための宗教原論』の中で、「最澄の戒律廃止」は、どういう位置づけにあるかが重要だと思います。

ただ、『日本人のための宗教原論』と、その後に書かれた『日本人のためのイスラム原論』を比較すると、『イスラム原論』の方が論理が整理されて、かつ丁寧な記述になっていると思います。

小室直樹さんは、日本人にとってのイスラム教とキリスト教の違いを比較して、「最澄と親鸞」にキリスト教と同じパターンが見いだせるとしていることが、小室理論の展開としては、重要だと思えます。
そして、この点を無視して、議論しても意味がないと思います。

引用 ↓


ありがたいアッラーの教えをムスリムたちがどんなに熱心に説いて聞かせても、世界中で日本人だけは最初からそれを受け付けようともしなかった。
だからこそ、日本にはイスラム教徒が少ないのである。
では、いったいイスラムの教えのどこが、日本人にとって駄目だったのか。
その答えを知るには、キリスト教とイスラム教を比較してみるのが一番である。
ご承知のとおり、キリスト教もイスラム教も、ともに唯一にして絶対の神を信仰する一神教である。
   略
このように共通点が多い二つの宗教だが、決定的に違うところが一つある。
その答えは、規範(ノルム)の存在である。
規範とは、分かりやすく言ってしまえば、「これをしろ」「あれをするな」という命令(禁止)である。
キリスト教には、この規範がまったく存在しない。
これに対してイスラム教ではない。
この大きな違いにこそ、我々は注目しなくてはならない。

『日本人のためのイスラム原論』
39ページ〜40ページ


行いによって人は救われるのではない。
心のうちにある信仰だけが重要なのである。
この教えゆえにキリスト教は、まことに特異な宗教になった。
異常とも言ってもいい。
ところが、たいていの日本人はこの異常さに気が付かない。
その理由は、本書をここまで読んできた読者にはもうお分かりのはずである。
答えは「日本の仏教も戒律を廃止してしまっているから」である。
最澄による円戒の採用と、天台本覚論によって日本の仏教からは戒律が完全に消え去った。
この結果、日本では「形より心」、つまり「戒律よりも信仰」という観念が常識になってしまった。

『日本人のためのイスラム原論』
141ページ

投稿: おおくぼ | 2010年1月28日 (木) 00時23分

>おおくぼさん


小室直樹さんは、日本人にとってのイスラム教とキリスト教の違いを比較して、「最澄と親鸞」にキリスト教と同じパターンが見いだせるとしていることが、小室理論の展開としては、重要だと思えます。
そして、この点を無視して、議論しても意味がないと思います。

そもそも小室先生が「日本人にとってのイスラム教とキリスト教の違いを比較して、「最澄と親鸞」にキリスト教と同じパターンが見いだせるとしている」かどうかについて私たちの間で明示的に意見が一致していません。また「議論をしても意味がない」かどうかについても意見が一致していません。議論の流れを考えれば、現時点でそのことについて意見を一致させる作業をすることに特にメリットは感じません。

私の意見では、議論の流れからすれば現時点でそれを前提とすることはむしろ議論を混乱させる元になると思います。

【本論についての反論】

小室先生は「戒律を撤廃する行為」が「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意見を持っているのであって、「実質的撤廃」を「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意味で使っているのではありません。
この2つは大きく違います。

あくまで「実質的撤廃」は「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っています。

くり返しますが「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」はイコールでありません。私はそれを分けて考えていますし、分けて論じるべきです。

だからおおくぼさんの意見は最澄のやったことが「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」についての反論であって、「実質的撤廃」であることについての反論ではありません。「実質的撤廃」でありながら「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」ではないこともありえます。

もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。私もそう考えます。おおくぼさんは「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと思いますか?

投稿: 古賀 | 2010年1月28日 (木) 07時58分

本をある部分に注目して、独立して考えれば、複数の解釈が生じて、どの解釈が正しいを判断するのが困難になると思います。
だから、本全体の論理の展開に注目することが重要だと思います。


古賀さんの質問に答える以前に、私には古賀さんの質問の意味がよくわかりません。

>この2つは大きく違います。
あくまで「実質的撤廃」は「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っています。

違いが、よくわかりません。

>くり返しますが「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」はイコールでありません。私はそれを分けて考えていますし、分けて論じるべきです。

私の解釈では、小室さんはイコールで使っていると思います。
これは三段論法です。
A=B
B=C
ゆえにA=C

>もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。

では、何故、「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」なのでしょうか?

ここを明快にする必要があります。
従来のルールを変更したからと言って、そのことを「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言するには根拠が必要です。

例えば、最澄は東大寺の戒律は小乗戒で、自分の大乗戒だと主張しています。
これは、日本には大乗の受戒制度がないから、延暦寺に作る必要があるという主張です。

そして延暦寺の受戒制度は、中国では認めてもらえませんでした。
だから、当時の中国に留学する僧は、東大寺で受戒したということにして、留学したのです。
だから延暦寺の受戒制度と東大寺の受戒制度は、併存したのです。

また天台宗の密教僧は、三井寺(園城寺)で修行しましたが、受戒は延暦寺ではなく、東大寺でするのが慣例でした。

投稿: おおくぼ | 2010年1月28日 (木) 10時26分

補足

私は小室さんの本を「日本教についての原因分析書」だと思って読みました。
だから、小室さんの「最澄が戒律を廃止した」という主張も、「日本教の原因分析」として、理解しています。

投稿: おおくぼ | 2010年1月28日 (木) 10時39分

>おおくぼさん

(おまけ1)

本をある部分に注目して、独立して考えれば、複数の解釈が生じて、どの解釈が正しいを判断するのが困難になると思います。
だから、本全体の論理の展開に注目することが重要だと思います。

本全体の論理の展開に注目しても,複数の解釈は生じます。独立して考えれば、複数の解釈が生じ,本全体の論理の展開に注目すれば生じないなどということはありません。
むしろお互いに言いっぱなしの平行線になる可能性が高いでしょう。

(1)

>この2つは大きく違います。
あくまで「実質的撤廃」は「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っています。

違いが、よくわかりません。

「違いが,よくわかりません」というのが,何と何の違いがわからないのかわかりません。きちんと説明をお願いします。

(2)

>くり返しますが「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」はイコールでありません。私はそれを分けて考えていますし、分けて論じるべきです。

私の解釈では、小室さんはイコールで使っていると思います。
これは三段論法です。
A=B
B=C
ゆえにA=C

そうですか。それでは三段論法で説明してください。
あたり前ですがいくら三段論法になってもAやBの定義が正しいのかという問題が残ります。
三段論法の形にしてから,AやBの定義が正しいことをきちんと説明してください。

(3)

>もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。

では、何故、「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」なのでしょうか?

ここを明快にする必要があります。
従来のルールを変更したからと言って、そのことを「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言するには根拠が必要です。

おおくぼさんの答をお聞きしているのです。
こちらの質問と「では、何故、「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」なのでしょうか?」という質問との関係がわかりません。こちらが根拠を提示しなければおおくぼさんは答えられないという趣旨ですか?

私は現時点でのお互いの意見の一致点を明らかにするために確認しているのです。「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言しているわけではありません。一致しているのならとりあえずそれを前提に議論をすすめられるからです。

答えられないのなら答えられないでかまいませんから,なぜ答えられないかについてきちんと説明をお願いします。

(4)


例えば、最澄は東大寺の戒律は小乗戒で、自分の大乗戒だと主張しています。
これは、日本には大乗の受戒制度がないから、延暦寺に作る必要があるという主張です。

そして延暦寺の受戒制度は、中国では認めてもらえませんでした。
だから、当時の中国に留学する僧は、東大寺で受戒したということにして、留学したのです。
だから延暦寺の受戒制度と東大寺の受戒制度は、併存したのです。

また天台宗の密教僧は、三井寺(園城寺)で修行しましたが、受戒は延暦寺ではなく、東大寺でするのが慣例でした。

「例えば」というからには、これは単に断言するのには根拠が必要な例として書かれているのですか?何かの主張に対する根拠なのか違うのか良くわかりません。きちんと説明をお願いします。


(おまけ2)

私は小室さんの本を「日本教についての原因分析書」だと思って読みました。
だから、小室さんの「最澄が戒律を廃止した」という主張も、「日本教の原因分析」として、理解しています。

現時点での私の意見では小室先生にとって「最澄が戒律を廃止した」のは日本教の「原因」ではなく「結果」です。

(おまけ1)(おまけ2)については本論の流れとあまり関係ないと判断し現在特に深入りするつもりはありません。ご理解ください。

投稿: 古賀 | 2010年1月29日 (金) 06時54分

>もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。私もそう考えます。おおくぼさんは「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと思いますか?

私は、そうは思いません。
また私の解釈では、小室さんにとって、「最澄が新しい受戒制度を作ったこと」は、「最澄が戒律を廃止したこと」の一例として明示していると思います。
だから、小室さんは受戒制度に限定はしてはいないと思います。

私が何故、そう思わないかを説明します。
最澄は、新しい戒律を作っただけです。

最澄は、戒律を10にしています。
これは五戒よりも多いです。

受戒の立会人は、10人から1人に減らしています。
これは小室さんから見れば、簡素化です。
でも、私には簡素化とは思えません。
有名無実な10人の僧侶よりも、実のある僧侶一人の方がいいという考えです。

具足戒の250の戒律ですが、これは円戒では無視されています。
その代わり最澄は、受戒が終わった後に比叡山で12年間の修行を命じています。
最澄は、修行のための細かいルールをたくさん作っています。

親鸞は戒律を廃止しましたが、最澄は新しい戒律を作ったのです。
だから戒律に関しては、親鸞と最澄は逆なのです。

ちなみに禅宗も戒律を変更して、清規と呼んでいます。
最澄は、中国の禅宗を真似したと考えることもできます。

>(おまけ1)(おまけ2)については本論の流れとあまり関係ないと判断し現在特に深入りするつもりはありません。ご理解ください。

(おまけ)について返信した方がよろしいでしょうか?
議論が混乱するなら、自分のブログの方に返信記事を書きますが・・・。

投稿: おおくぼ | 2010年1月29日 (金) 22時03分

>おおくぼさん

今回のおおくぼさんの意見でかなり相違点が明確になりました。

http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron001.htm

↑の「☆小室直樹の意見」を読んでいただければわかるとおり小室先生は「釈迦が定めたもうた」という点を強調しています。小室先生の意見ではたとえ戒律があっても修行の規則が厳しくても「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえば「実質的撤廃」と考えるのだと思われます。
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?


(おまけ)について返信した方がよろしいでしょうか?

(おまけ1)(おまけ2)のどれについての返信か明確にしていただければ結構です。

投稿: 古賀 | 2010年1月30日 (土) 09時55分

>(おまけ1)(おまけ2)のどれについての返信か明確にしていただければ結構です。

了解しました。
ただ、返信すると長文になり、別の議論に突入してしまうことを危惧しています。


>だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?

この点は小室さんの矛盾だと思っています。
小室さんは「本来の仏教」の定義をしていません。
なのに、この場合は、法顕が出てくるので、「釈迦が定めたもうた戒律」とは「原始仏教」だと思うのです。
法顕は、原始仏教の復興を目指しました。

『日本人のための宗教原論』の第七章、「日本人と宗教」は・・・


日本で仏教がなぜ栄えたかのかというと、日本教に変化して戒律をみんな取り払ってしまったからであろう。
儒教も、日本に入ってきたら戒律をみんな取り払われてしまった。
351ページ

・・・と書いてあります。
そして儒教の例が説明してあります。


「私のお袋は私の足を洗っているときに最大の幸福を感じているのです。
だから足を洗わせるのが親孝行でございます。」
これと同じ主旨の話が落語になって残っている。
お前は親のいうことを聴かないで心配ばかりかけているのは親不孝じゃないかといったら、そうじゃありません。
適当に心配かけないと、親は安心して死んでしまいます。
こんな屁理屈が通るのも、規範、基準がなければこその話なのである。
352ページ

第三章の「神の命令のみに生きる【キリスト教】」に、どうしてキリスト教に規範(戒律、倫理道徳)ないかの説明があります。


ここでいう規範とは、守ったか破ったかが一目でわかる規範のことである。
内面的行動は守ったか破ったが全く明らかではない。
外面的行動についての正確なルールがはっきりしており、守ったのか破ったのかが一義的に決まらないと、規範としては困るのだ。
114ページ


だから、小室直樹さんの定義では、「戒律の廃止」は、「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」なのです。

そうすると、最澄と親鸞は、この定義には入りません。
東大寺で、10人の有資格僧の前で、250の戒律を守ると誓った出家僧が、戒律を建て前でしか守らないことに、最澄は不満だったので、新しい未来の日本を担う僧のために、新しい戒律を作ったのです。

そして親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言したのです。

最澄の行為は、「日本教」に対する反発なのあり、親鸞の行為は、親鸞が「日本教」の信者でない証拠なのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月31日 (日) 13時59分

>おおくぼさん

とりあえず前半部分だけ


この点は小室さんの矛盾だと思っています。
小室さんは「本来の仏教」の定義をしていません。
なのに、この場合は、法顕が出てくるので、「釈迦が定めたもうた戒律」とは「原始仏教」だと思うのです。

小室先生が仏教を論じるとき、小乗仏教(原始仏教含む)と大乗仏教をごっちゃにして論じているため混乱が生じているのはわかっています。

大乗仏教は必ずしも「釈迦が定めたもうた戒律」を重視しないと私は考えています。ただこれは段階をおって慎重に論じていくつもりです。

コメントの続きは後ほど。


投稿: 古賀 | 2010年1月31日 (日) 15時05分

>おおくぼさん

コメントの続きは後ほどと思っていましたが。


だから、小室直樹さんの定義では、「戒律の廃止」は、「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」なのです。

ここまでは賛同するかどうかはともかくとして理解できますが。


そうすると、最澄と親鸞は、この定義には入りません。
東大寺で、10人の有資格僧の前で、250の戒律を守ると誓った出家僧が、戒律を建て前でしか守らないことに、最澄は不満だったので、新しい未来の日本を担う僧のために、新しい戒律を作ったのです。

そして親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言したのです。

おおくぼさんの論理はいつも自分だけが理解できる前提によっておしすすめられています。なぜそういう結論になるのか私にはさっぱりわかりません。もっときちんと説明をお願いします。

おおくぼさんからの補足説明を待ってコメントしたいと思います。


最澄の行為は、「日本教」に対する反発なのあり、親鸞の行為は、親鸞が「日本教」の信者でない証拠なのです。

「日本教」について、まだ我々は前提を共有していません。おおくぼさんにここで「日本教」を持ち出されてもそれがどんなものかこちらにはわからないので賛成も反対もできません。もちろん私は「日本教」についての考えはもっていますが、それがおおくぼさんと一致しているとは限りません。

現時点ではこの主張は無意味な断定だと思われます。

投稿: 古賀 | 2010年1月31日 (日) 15時28分

>おおくぼさん


>だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?

この点は小室さんの矛盾だと思っています。
小室さんは「本来の仏教」の定義をしていません。
なのに、この場合は、法顕が出てくるので、「釈迦が定めたもうた戒律」とは「原始仏教」だと思うのです。

この部分を小室先生が小乗仏教(原始仏教含む)と大乗仏教をごっちゃにして論じていることを指摘しているのかと思いましたが、おおくぼさんが言われているのはどうもそういう意味ではないようです。

はっきり言ってこの文章も意味不明です。

(1)
矛盾というからには『日本人のための宗教原論』の中での小室先生のAという主張とBという主張が一致しないからおかしいという趣旨なのではないかと思われます。Aが何でBが何なのかきちんと説明をお願いします。

(2)
またそれが「だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?」という私の質問にどうかかわってくるのかきちんと説明をお願いします。

前のコメント欄での質問ももっとわかりやすくこちらにまとめておきます。

(3)
なぜ「戒律の廃止」が「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」になるのかきちんと説明をお願いします。

(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。

(5)
「親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言した」という論理が良くわかりません。説明をお願いします。

以上5点について説明よろしくお願いします。


投稿: 古賀 | 2010年2月 1日 (月) 21時12分

>以上5点について説明よろしくお願いします。

了解しました。

まず、前の自分のコメントの補足しながら、古賀さんの質問にお答えします。

小室さんの文章 ↓

日本で仏教がなぜ栄えたかのかというと、日本教に変化して戒律をみんな取り払ってしまったからであろう。
儒教も、日本に入ってきたら戒律をみんな取り払われてしまった。
351ページ

第七章を理解するには、「日本教」と「戒律」を小室直樹さんがどのように定義しているか理解する必要があります。

どうでしょうか?

古賀さんのコメント ↓

「日本教」について、まだ我々は前提を共有していません。おおくぼさんにここで「日本教」を持ち出されてもそれがどんなものかこちらにはわからないので賛成も反対もできません。もちろん私は「日本教」についての考えはもっていますが、それがおおくぼさんと一致しているとは限りません。

現時点ではこの主張は無意味な断定だと思われます。


私としては、「小室直樹の定義する日本教」と「小室直樹の定義する戒律」の意味を共有すべきだと思うのです。


「戒律を取り払うこと」の定義・・・ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること

そうすると・・親鸞は妻帯を宣言した。

これは、「僧侶が妻帯を禁止されているというルール」を破ったことが明らかです。

「戒律を守ったか破ったかを明らかじゃない状態にすること」が、「戒律を取り払うこと」なら、戒律を破ったことを明言することは定義上、「戒律を取り払うこと」にはなりません。

>(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。

これが、親鸞が「この定義」に入らない理由です。
最澄については、別の説明が必要です。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 1日 (月) 22時26分


5)
「親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言した」という論理が良くわかりません。説明をお願いします。

親鸞は、どうしても妻帯をしたかった。
でも、妻帯は僧侶の戒律では禁止されている。

ここで、戒律を重視しない僧で、妻帯したい僧侶は、建て前では、戒律を守っていることにします。
実質は妻帯しているのに、建て前では妻帯をしてないことにしてしまうのです。

親鸞は、建て前と実質の分離が許せなかったのです。

私の理解では、「建て前と実質の分離」が、小室さんの定義する「日本教」であり、「戒律を取り払うこと」です。

小室さんの文章 ↓

ところで、その天台宗の元祖たる最澄は、比叡山を開くにあたって従来の戒を廃止し、形式的な「円戒」なるものを創設した。
ここで円戒の中身について詳しくは触れるゆとりはないが、最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。
事実、その後の比叡山では、僧侶が妾を持ち、子どもをなすことが当たり前になってしまった。
後年、信長が比叡山を焼き討ちしたとき(1571年)には、全山に多数の女子が住み着いていたという話は、ご承知のことと思う。
これもまた円戒がもたらした結果と言っていい。
『日本人のためのイスラム原論』92ページ〜93ページ


天台宗では、信長の比叡山焼き討ちの時代では、妻帯は禁止でした。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 1日 (月) 22時51分

1番目と2番目の質問に対する説明は、後日コメントします。



(3)
なぜ「戒律の廃止」が「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」になるのかきちんと説明をお願いします。

3番目の質問に関しては、「小室直樹の定義する日本教」と「小室直樹の定義する戒律」の意味を共有しないと、すれ違いになると思うのです。

>(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。

・・・の「最澄が定義に入らない理由の説明」は、3番目と同じく、「小室直樹の定義する日本教」と「小室直樹の定義する戒律」の意味を共有しないと、すれ違いになると思います。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 1日 (月) 23時03分

参考

全て小室直樹さんの文章です。
小室さんが、「戒律」に関して、どう考えているかに注目して、引用しました。



「私のお袋は私の足を洗っているときに最大の幸福を感じているのです。
だから足を洗わせるのが親孝行でございます。」
これと同じ主旨の話が落語になって残っている。
お前は親のいうことを聴かないで心配ばかりかけているのは親不孝じゃないかといったら、そうじゃありません。
適当に心配かけないと、親は安心して死んでしまいます。
こんな屁理屈が通るのも、規範、基準がなければこその話なのである。
『日本人のための宗教原論』352ページ



ここで円戒の中身について詳しくは触れるゆとりはないが、最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。
事実、その後の比叡山では、僧侶が妾を持ち、子どもをなすことが当たり前になってしまった。
後年、信長が比叡山を焼き討ちしたとき(1571年)には、全山に多数の女子が住み着いていたという話は、ご承知のことと思う。
これもまた円戒がもたらした結果と言っていい。
『日本人のためのイスラム原論』92ページ〜93ページ


ありがたいアッラーの教えをムスリムたちがどんなに熱心に説いて聞かせても、世界中で日本人だけは最初からそれを受け付けようともしなかった。
だからこそ、日本にはイスラム教徒が少ないのである。
では、いったいイスラムの教えのどこが、日本人にとって駄目だったのか。
その答えを知るには、キリスト教とイスラム教を比較してみるのが一番である。
ご承知のとおり、キリスト教もイスラム教も、ともに唯一にして絶対の神を信仰する一神教である。
   略
このように共通点が多い二つの宗教だが、決定的に違うところが一つある。
その答えは、規範(ノルム)の存在である。
規範とは、分かりやすく言ってしまえば、「これをしろ」「あれをするな」という命令(禁止)である。
キリスト教には、この規範がまったく存在しない。
これに対してイスラム教ではない。
この大きな違いにこそ、我々は注目しなくてはならない。

『日本人のためのイスラム原論』
39ページ〜40ページ


行いによって人は救われるのではない。
心のうちにある信仰だけが重要なのである。
この教えゆえにキリスト教は、まことに特異な宗教になった。
異常とも言ってもいい。
ところが、たいていの日本人はこの異常さに気が付かない。
その理由は、本書をここまで読んできた読者にはもうお分かりのはずである。
答えは「日本の仏教も戒律を廃止してしまっているから」である。
最澄による円戒の採用と、天台本覚論によって日本の仏教からは戒律が完全に消え去った。
この結果、日本では「形より心」、つまり「戒律よりも信仰」という観念が常識になってしまった。

『日本人のためのイスラム原論』
141ページ


すでに述べたように、天台仏教は戒律を全廃し、鎌倉期に現れた親鸞や日蓮は自力救済の可能性を否定した。
その結果、日本仏教はキリスト教にきわめて相似したものになった。
だとすれば、キリスト教ほど日本人にとってありがたい教えはない。
『日本人のためのイスラム原論』
125ページ


無規範である点では、キリスト教ほど日本教と共通した宗教はまずあるまい。
それなのに、どうしても普及が進まないのは、この問題が大きく関係しているというわけである。
さて、ここまで来れば、イスラム教が日本に入ってこなかった理由は、明々白々というものであろう。
『日本人のためのイスラム原論』
134ページ

投稿: おおくぼ | 2010年2月 1日 (月) 23時34分

参考 その2

こちらの小室さんの記述は明快だと思います。
二つの記述を比較して見てください。


規範とは前に記したように、外面的行動を対象にする。
なぜ、外面的行動が問われるのかといえば、それは規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるからである。
言うなれば、あるのは白と黒だけであって、グレーゾーンは存在しない。
ここが肝心なのところである。

『日本人のためのイスラム原論』
46ページ



最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。

『日本人のためのイスラム原論』
92ページ〜93ページ

これが、小室直樹さんが「最澄が戒律を全廃した」と考えている理由です。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 2日 (火) 00時01分

1と2の質問に対する簡単な説明

説明の前に訂正します。
『日本人のための宗教原論』を読み直したら、小室さんが、「本来の仏教」の定義をしていることを確認できました。

矛盾とは、小室さんの「本来の仏教」の定義が原始仏教ではないのに、最澄の作った戒律を否定するために原始仏教を持ってきているからです。
後で詳述しますので、「1と2の質問に対する説明コメント」への返信は、その後にお願いします。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 2日 (火) 10時31分

>おおくぼさん

質問(1)(2)についての説明をお待ちする間に一言だけ。

私はまず(1)小室先生の見解を批判するおおくぼさんの主張をできるだけわかりやすく明確にすること(2)おおくぼさんの主張に対する私の意見をできるだけわかりやすく明確にすること(3)私とおおくぼさん双方の意見の一致する部分をできるだけわかりやすく明確にすることが先決だと考えています。そのために(1)(2)(3)についてどこまで明確にできたか議論の進行状況をすぐ確認できるように↓に表にして残しています。

http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron001.htm

現時点で「日本教」の定義について論議することは,むしろ意見の平行状態を生み混乱をまねくだけなので後回しにしたいと考えています。

投稿: 古賀 | 2010年2月 2日 (火) 17時31分

私の理解する「小室直樹の仏教説」をまとめてみました。

http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9160943.html#more

重要なポイントは、仏教とは「科学に近い」です。


(1)
矛盾というからには『日本人のための宗教原論』の中での小室先生のAという主張とBという主張が一致しないからおかしいという趣旨なのではないかと思われます。Aが何でBが何なのかきちんと説明をお願いします。


主張Aが「仏教は科学に近い」で、主張Bが「原始仏教が絶対」です。
詳しい説明は、(2)の回答を読んで下さい。


(2)
またそれが「だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?」という私の質問にどうかかわってくるのかきちんと説明をお願いします。

私の理解する小室説は・・・
1 仏教は科学に近い。
2 戒律は、悟りを開くための手段である。

だから、古賀さんの言う<「釈迦が定めた戒律」から大きく変化していること>の意味が重要です。

戒律が「悟りを開くための手段」でなくなれば、「私の理解する小室説の戒律」ではなくなります。

「私の理解する小室説の戒律」では、戒律は絶対ではなく、変更可能です。
重要な点は、「悟りを開くための手段」なのです。
仏教は、「悟りを開くための手段」を、科学のように研究して、発明しているのです。
「釈迦の決めた戒律」よりも、効率よく「悟りを開ける手段」を発明できることは、仏教にとってはいいことなのです。
だから、釈迦の決めた戒律と違ってもいいのです。

注:(2)の回答の主張は、あくまで、「私の理解する小室説」です。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 3日 (水) 02時57分

>私はまず(1)小室先生の見解を批判するおおくぼさんの主張をできるだけわかりやすく明確にすること
(2)おおくぼさんの主張に対する私の意見をできるだけわかりやすく明確にすること
(3)私とおおくぼさん双方の意見の一致する部分をできるだけわかりやすく明確にすることが先決だと考えています。

(1)に関しては、「私の理解する小室説」と「古賀さんの理解する小室説」の共通する部分と、違う部分を明確にしなければ、困難だと思います。
そうしなければ、「私の小室説批判」を、古賀さんが誤解してしまうでしょう。

例えば、「規範のなくす」に対する、私と古賀さんの理解の違いです。

1 建て前と実質の分離させること。

2 ルールを変更すること。

またルールを変更には、2種類あります。

1 外面的に判断できるルールの変更すること。
(例えば、野球で、三振でワンアウトを四振に変更する)。

外面的に判断しにくいルールの変更すること。
(例えば、狐が食べれなかった葡萄を酸っぱいに違いないと決めつけること。)

以上のように、理解が違っていれば、誤解が生じます。
小室さんの文章は、理解の違いを生みやすい文章だと思います。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 3日 (水) 03時12分

補足

親鸞は戒律は廃止したのですが、「私の理解する小室説の戒律をなくすこと」という意味には該当しないのです。

「私の理解する小室説の戒律をなくすこと」は、「規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるない状態」にルールを変更することです。


最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。

『日本人のためのイスラム原論』
92ページ〜93ページ

最澄の場合は、「私の理解する小室説」だと、新しい戒律が、「規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるない状態」だから、「戒律の実質的な廃止」なのです。

私の主張が、古賀さんを混乱させている原因は・・・。

1 小室説の理解が違うから。
2 小室説に私は同意していないから。

だと推測できます。 

2に関しては・・・

私独自の主張(私独自というのは、小室さんと違う主張という意味です)

1 最澄は戒律を廃止したのではなく、新しい戒律を作っただけ(最澄個人の中では、東大寺の戒律は小乗戒として否定されています)。

2 親鸞は戒律を廃止した。

そうすると、「私の理解する小室さんの戒律の廃止」と「私の主張する戒律の廃止」では、「戒律の廃止」の意味が違ってしまうのです。

結論としては、私は、「小室さんの戒律の定義」を理解した上で、「小室さんの戒律の定義」を最澄と親鸞に当てはめて、批判することに反対なのです。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 3日 (水) 13時02分

補足 その2

親鸞の場合は、「私の理解する小室説の戒律の廃止」でも該当しません。

それに対し、最澄の場合は、「私の理解する小室説の戒律の廃止」には該当します。

その理由は・・

親鸞の場合は、「規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるない状態にルールを変更」していないからです。

それに対し、最澄の場合は、「規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるない状態にルールを変更している」からです。

私が、「小室さんの戒律の廃止の定義」に同意できない理由は・・・・


最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。

『日本人のためのイスラム原論』
92ページ〜93ページ

・・・という記述にあるのです。

前半部分の「最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである」というのは、全面的に賛成とは言えないですが、最澄の作った戒律は内面重視だと私も思います。
だから、この記述を誇張だと考えれば、同意できます。

でも後半部分の「ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。」というのは、論理の飛躍だと思うのです。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 3日 (水) 13時18分


(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。

親鸞は、この定義には入らないのですが、最澄は入ります。
訂正します。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 3日 (水) 15時05分

>おおくぼさん



(1)
矛盾というからには『日本人のための宗教原論』の中での小室先生のAという主張とBという主張が一致しないからおかしいという趣旨なのではないかと思われます。Aが何でBが何なのかきちんと説明をお願いします。

主張Aが「仏教は科学に近い」で、主張Bが「原始仏教が絶対」です。

これは小室先生の主張のどことどこが矛盾しているかという意味ですので、AとBにあたるのが具体的に著作のどこの部分なのかをあげていただけますでしょうか。

投稿: 古賀 | 2010年2月 4日 (木) 06時51分

小室直樹さんは「原始仏教が絶対」という表現はしていません。
けれど、そのように解釈できる部分があります。


何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。

『日本人のためのイスラム原論』
91ページ

「仏教は科学に近い」は・・・

>読者の大多数は、仏教のことを「釈迦の教え」であると考えているだろう。
しかし、これは大きな誤解である。
たしかに仏教は釈迦をもって創始者とする。
しかし、仏教の教えは釈迦が考案したものではない。
ここが理解のポイントである。
では、仏教とはいったい誰の教えなのか。
【答え】誰の教えでもない。
仏教は思想ではない。
それはむしろ科学に近い。

『日本人のためのイスラム原論』
77ページ

投稿: おおくぼ | 2010年2月 4日 (木) 19時57分

>おおくぼさん

まず1つ 『日本人のための宗教原論』について議論しているのだから、基本的には『日本人のためのイスラム原論』ではなくそちらの方を典拠にすべきでしょう。『日本人のためのイスラム原論』には記述があるが、『日本人のための宗教原論』の方には記述がない場合を除いては。
混乱をまねきます。

そしてもう1つ

(a)仏教は思想ではない。
それはむしろ科学に近い。

(A)「仏教は科学に近い」
の根拠にするのは理解できますが

(b)何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。

(B)「原始仏教が絶対」
の根拠にするのは無理がありすぎるでしょう。

小室先生のもともとの主張
(a)しかし、仏教の教えは釈迦が考案したものではない。仏教は思想ではない。それはむしろ科学に近い。

(b)何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。
の(a)と(b)自体は特に矛盾していないと思われます。

(b)と(B)をつなぐロジックが不十分すぎます。

投稿: 古賀 | 2010年2月 4日 (木) 22時08分

>(b)と(B)をつなぐロジックが不十分すぎます。

そうですね。

具足戒は、釈迦が示したものです。
けれど、悟りを開く正しい方法は、それだけには限定されていません。

比較 1

何度も言うように、仏教において戒律とは単なるルールではない。
悟りを開く修行の一環として戒律は存在する。
その戒律を無視して悟りを得ることは望めない。
しかも、戒を定めたのは釈迦に他ならない。
ところが、その戒律を最澄は、改定するどころか、実質的に廃止してしまったのだ。
これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。
『日本人のためのイスラム原論』94ページ


釈迦の定めた戒律を「小室さんの意味で)廃止」すると、「仏教を否定し」、「釈迦の教えを否定する」に等しい行為になるといことは・・・
小室さんは、釈迦の定めた戒律を、悟りのための絶対条件にしていると思います。

けれど、前に議論した維摩居士の箇所は・・


比較 2

日本では、南無阿弥陀と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならないように、イスラム教徒が経典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
『日本人のための宗教原論』200ページ

・・・と書いてあります。

「小室さんの最澄の戒律廃止」の意味には、二つの意味があると思います。

1 最澄が、釈迦の定めた戒律を変更したこと

2 最澄が、外面的行動に関する規範を無くしたこと

投稿: おおくぼ | 2010年2月 5日 (金) 00時09分


まず1つ 『日本人のための宗教原論』について議論しているのだから、基本的には『日本人のためのイスラム原論』ではなくそちらの方を典拠にすべきでしょう。『日本人のためのイスラム原論』には記述があるが、『日本人のための宗教原論』の方には記述がない場合を除いては。
混乱をまねきます。

たしかに混乱の元です。
ただ、『日本人のための宗教原論』の記述は、少なすぎます。

例えば古賀さんの・・・

だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?

・・・という質問に関しても該当箇所が少なすぎます。
『日本人のための宗教原論』に関する最澄の記述は、2ページ未満です。
仏教の戒律に関する説明は、第四章の最初の4ページぐらいです。
それに対し、『日本人のためのイスラム原論』は、詳しく説明しています。
あともう一冊、『数学を使わない数学の講義』は、『日本人のための宗教原論』と同じ内容を、明快に説明しています。
特に仏教の戒律の説明は、『数学を使わない数学の講義』が一番、明快です。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 5日 (金) 00時26分

定義が必要な議論は後回しにして、定義のいらない歴史的事実の検証を先にしませんか?

例えば・・・

1 比叡山は、日本仏教の総本山にいつなったか?

「日本仏教の総本山」とは何かということを定義せず、比叡山の歴史を調べれば、すぐわかります。

2 中国の仏教に対する弾圧の理由は?

3 韓退之の仏教批判の内容は?

投稿: おおくぼ | 2010年2月 5日 (金) 00時52分

小室さんの本を読むと、250の戒律を最澄以前の僧侶は守っていたという前提で書いてあると思うんですが、実際は授戒式で、「守る」と誓うだけで、形式的だったと思うんです。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 5日 (金) 09時24分

>おおくぼさん

まず1つ
私は
(b)何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。

(B)「原始仏教が絶対」
の根拠にするのは無理がありすぎるように思えるので、補足説明をしてくださいと言っているのです。

不必要かつ無駄な饒舌はいりません。簡潔かつ明瞭にきちんと整理して説明してください。
私にはおおくぼさんの主張が混乱していてまとまりがないために、きちんと説明ができていないように思えます。

もう1度言います。
なぜ(b)「戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。」という小室先生の主張が、(B)「原始仏教が絶対」と主張したことになるのか。この2つは全く別のものです。

誤魔化しではなく(b)からこうすれば(B)という結論を導き出せるという説明をお願いします。

そしてもう1つ

たしかに混乱の元です。
ただ、『日本人のための宗教原論』の記述は、少なすぎます。

『日本人のための宗教原論』の記述の論理的整合性を問題にするなら、そもそも他の著作を持ち出す必要がありません。「Aという箇所とBという箇所が論理的に矛盾する」と指摘すれば事足ります。

『日本人のための宗教原論』の記述の学問的間違いを問題にするなら、「ここが学問的に間違っている」という指摘を元にきちんとした宗教的文献等を参考にして検証すればいいだけの話です。

『日本人のための宗教原論』と小室先生の他の著作との論理的整合性を問題にするのは、議論の元の趣旨からはかなりはずれてきます。原理的には小室先生の著作全般が対象になるからです。

投稿: 古賀 | 2010年2月 5日 (金) 23時02分

『日本人のための宗教原論』の第七章だけだと、理解が難しいです。
小室さんは、いろんな主張を詰め込みすぎです。
例えば・・・



しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。
360ページ 3行目〜4行目

ここで疑問は・・

疑問 いつ、比叡山は「日本仏教の総本山の中の総本山」のようになったのか?

疑問 「形式的な天台の円戒に置き換え」が、なぜ「実質的に規範を全廃」なのか?

「形式的な」と「実質的に」は対の表現です。
戒律が「形式的になること」が、「実質的な廃止」という意味なのか?
また「廃止」というのは、「元からあるもの」が「無くなること」です。
「置き換え」ると、「全廃」になるというのは、辞書的な意味で変です。
だから「実質的に全廃」とは、「外的な規範や基準が消えたこと」であって、「形式的になる」という意味と解釈できます。


それから後の人はどうしたのかというと、やっぱり大先生がそうだったら跡継ぎの中先生、小先生も、これに倣わなくてはしようがない。
それを裏付ける思想が、天台本覚論である。
360ページ 5行目〜7行目

疑問  「それを裏付ける」とは、どういう意味か?
たぶん、これは「規範全廃の思想を徹底した」という意味だと思います。
でも「徹底する」と「裏付ける」では、辞書的な意味で、かなり違います。


総本山のそのまた総本山である比叡山延暦寺でこの天台本覚論というのが発達したというのが、日本仏教の秘密を解く最大の鍵である。
360ページ 16行目〜17行目

疑問 日本仏教の秘密とは?


最澄が始めた規範全廃の思想を完成させたのが、実は、法然、親鸞、また別のところで日蓮といった仏教革命者たちであった。
361ページ 1行目〜2行目

疑問 何を基準に、「規範全廃の思想」の完成とみなすのか?

最澄→天台本覚論→法然&親鸞&日蓮で、セットになって、「規範全廃の思想が完成」したのなら、日本の一部しか、「規範全廃の思想が完成」してないことになるのでは?

完成したのは、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗だけになります。
この理屈だと、天台宗と禅宗は未完成状態です(禅宗は天台本覚論の流れです)。
また東大寺などの奈良の宗派や、真言宗は「規範全般の思想」とは、この理屈上では、関係ありません。


かくして、日本の仏教は戒律を全部取り払った。
このことは本来の仏教では絶対に考えられないことであるが、その点をとらえると、キリスト教の布教の形式と大変によく似ていることに気づくであろう。
362ページ 13行目〜15行目

疑問 どうして「キリスト教の布教の形式と大変よく似ている」と気づくのか?

投稿: おおくぼ | 2010年2月 5日 (金) 23時25分

上のコメントは、古賀さんの最新コメントを読む前に書いたものです。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 5日 (金) 23時30分

>『日本人のための宗教原論』と小室先生の他の著作との論理的整合性を問題にするのは、議論の元の趣旨からはかなりはずれてきます。原理的には小室先生の著作全般が対象になるからです。

私は、『日本人のための宗教原論』を中心にして、他の小室さんの著作を補足資料として使っているつもりです。
『日本人のための宗教原論』だけでは、小室さんの主張を理解するのは無理です。

比較1

>仏教というのは、釈迦が定めたもうた「戒」を守る。
それが、仏教の根本ともいえる。
『日本人のための宗教原論』359ページ

比較 2

日本では、南無阿弥陀と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならないように、イスラム教徒が経典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
『日本人のための宗教原論』200ページ

1の記述の方の「守る」を絶対と考えれば、矛盾です。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 5日 (金) 23時41分

>もう1度言います。
なぜ(b)「戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。」という小室先生の主張が、(B)「原始仏教が絶対」と主張したことになるのか。この2つは全く別のものです。
誤魔化しではなく(b)からこうすれば(B)という結論を導き出せるという説明をお願いします。

前のコメントでは、「原始仏教が絶対」という表現を小室さんが使っていないと断った上で、引用しています。
私の「原始仏教が絶対」を別の表現にすれば、「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」になります。
引用した「「戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。」の後の文章は・・・


戒律を守るというのは、釈迦の教えに従うことに他ならない。
したがって、この受戒の儀式を行って戒律を守ることを近っていなければ、それはインチキ坊主であり、正式の修行者とは認められないのである。

・・・と続きます。

この返信コメントの内容は、上のコメントと内容が重なりますし、引用部分も『日本人のためのイスラム原論』なので、無視してかまいません。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 6日 (土) 00時00分

>『日本人のための宗教原論』の記述の論理的整合性を問題にするなら、そもそも他の著作を持ち出す必要がありません。

小室さんの著作は、単独で100%の理解できるなら、他の著作を持ち出す必要はないと思います。
「100%の理解」というのは誇張ですが、『日本人のための宗教原論』は、私には飛躍が多く思えます。
比較すれば、『日本人のためのイスラム原論』や『数学を使わない数学の講義』方が、論理の飛躍は少ないです。
だから、論理的整合性を問うにも、『日本人のためのイスラム原論』や『数学を使わない数学の講義』は、補足資料して必要だと思います。

ただ、私は、小室直樹さんの論理的整合性を問うのは、優先順位では一番ではありません。
小室さんの歴史解釈の検証が、優先順位では一番です。
だから、論理的整合性はあくまで二義的で、深入りしたくはありません。

私は、議論になると熱くなる体質なので、深入りしていますが、できるだけ歴史解釈の検証の方を優先したいと思っています。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 6日 (土) 00時17分

古賀さんのコメント ↓

>小室先生の意見ではたとえ戒律があっても修行の規則が厳しくても「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえば「実質的撤廃」と考えるのだと思われます。
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?


第七章の天台本覚論についての記述に関しては、その解釈に同意します。

小室さん文章 ↓

>仏教の根本には、悟りをひらくためには迷いを絶たなければならない、という考えがある。
それが仏教的な考えであり、そのために仏教の坊主というのは苦心惨憺する。
ところで天台本覚論というのはどういう教えかというと、迷ったままで成仏できる、という、本来の仏教とはかけ離れたものだった。

(小室さんの考える)仏教の根本 → 「迷いを絶たなければならない」

(小室さんの考える)天台本覚論 → 「迷ったままで成仏できる」

ゆえに、「迷ったままで成仏できる」という思想の成立を「「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化した」と考えることができます。

この場合は、最澄の「円戒の置き換え」には、該当しないと思います。
最澄の「円戒の置き換え」は、天台本覚論を生み出す原因になったかもしれませんが、「迷ったまま成仏できる」という思想には該当しません。

また「法然、法然、日蓮」についても、該当するかどうか不明です。

だから、小室直樹さんが何を基準に「「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化した」と判断しているかが重要です。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 6日 (土) 12時57分

上のコメントを一部訂正します。

>この場合は、最澄の「円戒の置き換え」には、該当しないと思います。

   ↓

>この場合は、最澄の「円戒の置き換え」には、該当するかどうか不明です。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 6日 (土) 13時02分

自分のブログに、私の小室説解釈と疑問点を要約してみました。

http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9170132.html

投稿: おおくぼ | 2010年2月 6日 (土) 15時29分

>おおくぼさん

どんどんコメントをつけ加えたからと言って議論が早くすすむものでもありません。控えてください。

投稿: 古賀 | 2010年2月 6日 (土) 19時17分

>おおくぼさん

まず1つ


『日本人のための宗教原論』の第七章だけだと、理解が難しいです。

『日本人のための宗教原論』と他の著作とでは多少説明が異なっている可能性があります。まず『日本人のための宗教原論』を基本にしないと議論が混乱するおそれがあるでしょう。

もし必要ならどんな資料も使っていいという理屈なら私は『天皇の原理』を推奨します。「戒律不在」と「法の不在」が密接に関連していることを論じています。

そしてもう1つ


『日本人のための宗教原論』だけでは、小室さんの主張を理解するのは無理です。

おおくぼさんは『日本人のための宗教原論』に書いてある小室先生の主張がおかしいといわれているのだから、少なくともそのおかしい部分がどうしておかしいのかについては『日本人のための宗教原論』だけで説明できるはずです。

補足説明として他の著作も必要というなら理解できますが、「『日本人のための宗教原論』だけでは、小室さんの主張を理解するのは無理」というのなら、おおくぼさんの最初の主張は一体なんだろうということになります。

単に小室先生の著作を理解するのが目的ではなく、「『日本人のための宗教原論』における小室先生の主張がおかしい」とおおくぼさんが言われたのが議論の前提になっているのを忘れずに。

そしてもう1つ


私の「原始仏教が絶対」を別の表現にすれば、「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」になります。

それでは
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「原始仏教が絶対」
ではなく
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」
の2つが矛盾するということでよろしいのですか?

矛盾するということは(A)と(B)の2つが両立する場合があるのなら、おおくぼさんの主張はおかしいということですよ。

そしてもう1つ


1の記述の方の「守る」を絶対と考えれば、矛盾です。

比較1は(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と同じ主張と考えられますが、比較2は(A)「仏教は科学に近い」と異なるように思えます。

比較2は新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」で、それが(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と矛盾するということでよろしいですか?
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?

最後にもう1つ


古賀さんのコメント ↓
>小室先生の意見ではたとえ戒律があっても修行の規則が厳しくても「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえば「実質的撤廃」と考えるのだと思われます。
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?

第七章の天台本覚論についての記述に関しては、その解釈に同意します。

天台本覚論は「迷ったままで成仏できる」という「教え」であって「戒律」ではありません。

戒律が変化しても教えが変化しないこともありうるし、その逆もありえます。おおくぼさんは「戒律」と「教え」を明確に分けていないように感じますが、それは「戒律」と「教え」を明確に分ける必要はないという考えからでしょうか。それとも小室先生が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているからでしょうか。

投稿: 古賀 | 2010年2月 8日 (月) 07時12分

追記

もし『日本人のための宗教原論』以外で参考資料とするなら、必要十分条件は『数学嫌いな人のための数学』に、日本教は『論理の方法』にわりと詳しい。

投稿: 古賀 | 2010年2月 8日 (月) 22時38分

小室直樹さんの中国仏教についての検証記事を自分のブログにアップしました。

http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9177496.html

投稿: おおくぼ | 2010年2月 9日 (火) 01時55分

>どんどんコメントをつけ加えたからと言って議論が早くすすむものでもありません。控えてください。

わかりました。
コメントの頻度を減らします。


>おおくぼさんは『日本人のための宗教原論』に書いてある小室先生の主張がおかしいといわれているのだから、少なくともそのおかしい部分がどうしておかしいのかについては『日本人のための宗教原論』だけで説明できるはずです。

『日本人のための宗教原論』を読んで、私は小室直樹さんの主張がおかしいと思いました。
ただ、古賀さんに反論を出された時に、『日本人のための宗教原論』にのみを典拠すると、記述量が少ないため、私の解釈の説得力が弱いと感じたのです。
私は自分の解釈が正しいと思っていますが、「自分の解釈は正しい」と言い張っても、平行線のままです。

対策として、同じ作者の他の著作の詳しい記述を参考にすることを採用したのです。
だから、議論すべきメインの記述は、あくまで『日本人のための宗教原論』であって、他の著作は補足資料として扱うという方針でいます。

『論理の方法』は持っていませんが、買おうと思っています。
『天皇の原理』は、中古でしか販売していませんし、高価なので購入予定はありません。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 9日 (火) 02時11分


戒律が変化しても教えが変化しないこともありうるし、その逆もありえます。おおくぼさんは「戒律」と「教え」を明確に分けていないように感じますが、それは「戒律」と「教え」を明確に分ける必要はないという考えからでしょうか。それとも小室先生が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているからでしょうか。

この場合は、小室さんが「規範全廃の思想」として、セットで考えていると判断したからです。

小室さんの文章 ↓

>最澄が始めた規範全廃の思想を完成させたのが、実は、法然、親鸞、また別なところで日蓮といった仏教革命者たちであった。

だから・・

1 最澄が「形式的な天台の円戒に置き換え」

2 「比叡山延暦寺でこの天台本学論というものが発達した」

3 専修念仏だけで十分

・・・・の3つが1セットと解釈しました。

3に関しては・・・

>まず、異端だというのはどういうことかというと、本来の仏教では大変な修行を要求する。
そのうえ、善行、善果の積み上げをやりなさいともいう。
それから学問も重要ですよ、とこういうことをいっている。

ゆえに、3は、2とは別の理由で、「(小室説)の本来の仏教」ではありません。

そして1は、どういう理由で、「(小室説)の本来の仏教」ではないかが明確ではありません。

360ページの

>ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。
その、とんでもない犯人は誰か。
それは誰であろう、伝教大師最澄である。
しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。

最後の文章の「形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまった」は、複数の解釈ができると思うのです。

補足資料として『日本人のためのイスラム原論』に目を向ければ、「天台の円戒に置き換え」についての詳しい記述があります。
けれど、『日本人のためのイスラム原論』の記述は、複数の意味で説明をしています。
そうすると、「形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまった」についての正しい解釈は、複数あることになります。

投稿: おおくぼ | 2010年2月 9日 (火) 11時09分

>おおくぼさん


『日本人のための宗教原論』を読んで、私は小室直樹さんの主張がおかしいと思いました。
ただ、古賀さんに反論を出された時に、『日本人のための宗教原論』にのみを典拠すると、記述量が少ないため、私の解釈の説得力が弱いと感じたのです。
私は自分の解釈が正しいと思っていますが、「自分の解釈は正しい」と言い張っても、平行線のままです。

主張を明確にするのと解釈を争うのとは違います。少なくとも前者(小室先生の主張のどこがどう間違っているか)については、ほぼ『日本人のための宗教原論』だけで明確にできるのではないかと言っているのです。

解釈を争う段階で他の資料が補足説明として必要になるというのはわかります。ただそれでも基本は、『日本人のための宗教原論』であるべきだとは思います。


この場合は、小室さんが「規範全廃の思想」として、セットで考えていると判断したからです。

小室先生が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているということでよろしいですね。

あとは


それでは
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「原始仏教が絶対」
ではなく
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」
の2つが矛盾するということでよろしいのですか?


比較2は新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」で、それが(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と矛盾するということでよろしいですか?
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?

に回答お願いします。


投稿: 古賀 | 2010年2月10日 (水) 00時13分


それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?

に回答お願いします。

回答は長くなるので、自分のブログに書きます。

>主張を明確にするのと解釈を争うのとは違います。少なくとも前者(小室先生の主張のどこがどう間違っているか)については、ほぼ『日本人のための宗教原論』だけで明確にできるのではないかと言っているのです。

小室さんの主張が間違っているかを判定するためには、小室さんの主張の解釈の共有が必要です。
そうしなければ、判定は噛合いません。

例えば・・・

『日本人の宗教原論』の・・・

>ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。
その、とんでもない犯人は誰か。
それは誰であろう、伝教大師最澄である。
しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。

の解釈です。
これを「釈迦の決めた戒律を変えた」と解釈できます。
「釈迦の決めた戒律を変えた」という解釈も認めますが、それは二次的なことで、一番重要なことは、「外面的規範」から「内面的規範」に変えたということだと解釈しています。

そして、私の解釈に古賀さんが同意してもらわないと、小室さんの主張(最澄が・・・実質的に規範を全廃した)についての、真偽判定ができません。

また『日本人のための・・』における最澄の記述が少なすぎます。
私にとっては、『日本人のための・・・』の記述だけで十分だと思っていますが、今までの議論を思い出せばわかるように、私の解釈に古賀さんは説得力を感じていません。
だから小室さんの他の著作が、補足資料として必要になるのです。

投稿: おおくぼ | 2010年2月11日 (木) 14時00分

>おおくぼさん


回答は長くなるので、自分のブログに書きます。

そんな長い回答は主張を明確にするには必要ありません。


小室さんの主張が間違っているかを判定するためには、小室さんの主張の解釈の共有が必要です。
そうしなければ、判定は噛合いません。

例えば民事裁判における訴状や刑事裁判における起訴状と同じです。最初の段階では一方の主張が明確でありさえすればよいのです。解釈や争点についてはその後に議論していきます。

おおくぼさんは訴状提出の段階で訴状の内容に相手方の合意が必要と言っているようなものでナンセンスです。その段階では争いがあるのがあたりまえです。

「小室先生の主張にどこそこにこういう矛盾がある」というのは単なる議論の出発点です。しかしそこを明確にしない限りきちんとした議論はできません。


そして、私の解釈に古賀さんが同意してもらわないと、小室さんの主張(最澄が・・・実質的に規範を全廃した)についての、真偽判定ができません。

全くの勘違いです。「小室先生のここが間違っている」というおおくぼさんの最初の主張の段階で私の同意があればそもそも議論の必要がありません。争点を明確にし議論をして真偽判定をするのはその後のことです。

くりかえしますが私は議論の前提として「小室先生の主張のどこがこういう風に矛盾している」というおおくぼさんの主張をできるだけ簡潔に明確にしてほしいだけです。きちんと小室先生の主張のどことどこが矛盾しているのか、何が(A)と(B)にあたるのか説明してください。

私はまだおおくぼさんが『日本人のための宗教原論』の第7章において小室先生の主張のどことどこが矛盾していると考えているのかさえはっきりと了解していないのです。そんな状態でまともな議論ができるわけがありません。


私にとっては、『日本人のための・・・』の記述だけで十分だと思っていますが、今までの議論を思い出せばわかるように、私の解釈に古賀さんは説得力を感じていません。

繰り返しになりますがおおくぼさんは小室先生の主張のどことどこが矛盾しているのかさえまだ明確にしていません。説得力を感じる感じない以前の問題です。


投稿: 古賀 | 2010年2月11日 (木) 21時13分


例えば民事裁判における訴状や刑事裁判における起訴状と同じです。最初の段階では一方の主張が明確でありさえすればよいのです。解釈や争点についてはその後に議論していきます。

反論

反論 1 この議論は裁判ではありません。
裁判官はいません。
真偽を判定する法律もありません。
私と古賀さんの気持ち次第でどうにでも変わるのです。
私は、古賀さんが永井均さんや橋爪大三郎さん本を高評価している人と想定して議論しています。
言い換えれば、永井さんと橋爪さんの(倫理と法に関する)本の内容を基礎知識として持っていると信じて、議論しているということです。

例えば、同じ学歴で同じ世代の日本人同士て議論する場合と、そうでない場合人と議論するのでは、議論の仕方は変えないと議論は進みにくいです。

反論 2 最初の段階は過ぎていると思います。

ここで、もう一度最初の段階を振り返りましょう。

古賀さんの要約の最初の部分 ↓

第7章日本人と宗教

☆小室直樹の意見

「仏教というのは、釈迦が定めたもうた「戒」を守る。それが仏教の根本ともいえる。唐招提寺を建立した鑑真和上(678〜763)が、千辛万苦をものともせず日本に渡来したのも、正しい戒を教えるためであった。それぐらい規範は仏教にとって大切である。ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。それこそが日本である。そのとんでもない犯人は誰か。それは誰あろう。伝教大師最澄(767〜822)である。しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に、置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。」 P359〜P360

ポイント 

① 仏教において釈迦が定めた戒律を守るのは根本ともいえる。

② 日本はその大切な戒律を全廃してしまった国である。

③ その犯人といえるのは伝教大師最澄である。彼の作った日本仏教の総本山、比叡山は今までの戒律を実質的に全廃してしまった。

☆おおくぼの意見(1)

提示の前に、古賀さんの質問に答えます。

1 「最澄が戒律を実質的に全廃した」という主張に対して「そうではない」という意見なのですか?

「そうではない」と思っています。
小室さんの主張も間違いとは言えないのですが、強引かつ単純化されすぎています。

2「最澄が戒律を実質的に全廃した」のを日本の特殊性と考えるのに反対なのですか?

反対です。
最澄が小室さん言うような日本的な人物には思えません。
簡略した戒律を作った=日本的な人物・・という主張には同意できません。
この小室さんの主張は論理的です。

ポイント

① 最澄は戒律を実質的に全廃していない。

② 「最澄が戒律を実質的に全廃した」のを日本の特殊性と考えるのに反対である。

☆古賀の意見(1)

【おおくぼの意見(1)の①に対する反論】

私は最澄の
1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化
は戒律の実質的撤廃だけど、日本の仏教全体に対する影響はこの時点ではまだ限定的だろうという意見なのですが。

おおくぼさんも「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律の実質的撤廃と考えているということでよろしいのですか?

ポイント

① 最澄の行った1 「具足戒」の「円戒」への置き換え 2 授戒の儀式の簡素化は、戒律の実質的撤廃といえる。


議論が「議論以前の状態で混乱している」原因の多くは私にありますが、議論は相手の協力が必要なのです。
最初の主旨から外れてきているので、最初に立ち返るべきだと思います。

「おおくぼ」の前回のコメント ↓


>例えば・・・

『日本人の宗教原論』の・・・

>ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。
その、とんでもない犯人は誰か。
それは誰であろう、伝教大師最澄である。
しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。

の解釈です。
これを「釈迦の決めた戒律を変えた」と解釈できます。
「釈迦の決めた戒律を変えた」という解釈も認めますが、それは二次的なことで、一番重要なことは、「外面的規範」から「内面的規範」に変えたということだと解釈しています。

だから解釈が問題なのです。

小室さんの「本来の仏教」の矛盾とは・・・・

A 釈迦の決めた戒律は変えてはいけない。

B 釈迦の決めた戒律を変えていい。

でも私にとって小室さんの最澄の記述に関しての、この小室さんの矛盾は、二次的な矛盾であり、重要な矛盾ではありません。
無視して構わない矛盾です。

私にとって無視できない矛盾とは、親鸞は「(私の解釈する)小室さんの定義の戒律廃止」をしていないということなのです。

ややこしいのですが、親鸞は戒律を本当に廃止することによって、「小室さんの定義の戒律廃止」をしなかったということが、私の主張です。

A 最澄は、「小室さんの定義する戒律廃止」をした。

B 親鸞は、「小室さんの定義する戒律廃止」はしていなかった。

だから、最澄と親鸞の両方共に戒律を廃止したと主張するのは矛盾。

投稿: おおくぼ | 2010年2月11日 (木) 22時02分

私は小室さんの矛盾を指摘しますが、一番指摘したいのは、歴史的事実に関することです。

歴史解釈の場合は、裏付ける事実が重要です。

それに対して哲学的な議論では、裏付けのための事実は重要ではありません。
「本来の仏教」を歴史解釈とみなすのか、哲学的な洞察とみなすのかで、事実の価値が変わります。


小室さんの文章 ↓


仏教では、初めに「如是我聞(私は、このように釈迦から聞いた)との一句さえつければ、誰でも、いつでも、自由にお経をつくることができた。
仏教の正典が決められてないない理由はいくつもあるが、1つには、釈迦の真説であると証明されたものは何1つもないことである。
それらの多くは、後世の創作らしいのである。

このようにいえば、必ず疑問がでよう。
どこの誰ともわからないような者が創作したようなものが、お経として通用するのか。
立派に通用するのである。

法華教はじめ、維摩経、般若経など、所謂大乗仏典は、みんな後世の創作であることが、いまでは、わかっている。
しかも、大切なお経として通っているのである。
その理由は、これらのお経が、釈迦の真説として立派に通ることが書いてあるからである。
インドには、超一流の哲学者や宗教家がワンサといる。
中国とでさえ比較にならない。
これらの哲学者、宗教家が目を通してみて、これはお経にふさわしい、これは駄目だなどと判定する。
お経にふさわしくないと判定された創作は、相手にされたくなくなる。
十分にお経にふさわしくしいと判断されたものだけが、お経として流布してゆくのである。
このように選別されて、大乗仏典は成立したのであった。
それらは、インドの超大学者、超大宗教家の厳しい篩(ふるい)にかけられているから釈迦の真意として信用できるのである。

このような解釈に納得できない人は、儒教の例がわかりやすいかもしれない。
例えば朱子(南宋の政治家、儒学者)である。
朱子は、古典の解釈に終始していた儒教に初めて哲学的方法を導入し、古典の研究方法を革新した。
              略

孔子が本当に述べたことだけを孔子の真説だとする立場からすれば、この批判は当然であろう。が、宗教において大切なのは歴史的考証だけではない。
哲学的洞察のほうがより重要なこともある。
朱子は、哲学的洞察力において、先代の諸学者を遥かに凌駕している自信があったのであろう。
朱子が1600年も後に孔子の真意を洞察しえたとすれば、釈迦没後千数百年後に、その真意が伝わったとしても不思議ではあるまい。

大乗仏教の諸経典は、このようにして成立した。
いきおい、それは厖大なものとなった。
それらが中国へ伝来したとき、位置付けが最大の問題となった。
こんなにたくさんのお教があるが、どれがどれほど釈迦の真意を伝えているのであろうか。
そこで、中国では、教相判釈(教判)が問題となった。
教判とは、お経のランク付けである。
このような有様であるから、仏教では正典の確定は問題となりえない。
いや、正典という考え方さえない。
ここまでがお経であり、ここから先はお経ではないという境界がない仏教には、正典という概念はないのである。

『日本人のための宗教原論』
172〜174ページ

投稿: おおくぼ | 2010年2月11日 (木) 23時28分

>おおくぼさん


反論 1 この議論は裁判ではありません。
裁判官はいません。

勿論。
しかし裁判は議論モデルとしては適切だと思います。この場合それ以外に適切な議論モデルというのはないでしょう。


反論 2 最初の段階は過ぎていると思います。

あなたがきちんとした段階を踏まずに一方的に垂れ流しているものを私は主張として認めていません。

はっきり言ってあなたの主張は大雑把で言葉のてにをは程度で解釈が変わりかねないほどに不安定です。そんなものを元にきちんとした議論はできません。
それは小室先生の主張のどことどこが矛盾しているのかという単純な説明さえ言うたびにころころ変わり、全く明確でないことでも明らかです。


議論が「議論以前の状態で混乱している」原因の多くは私にありますが、議論は相手の協力が必要なのです。
最初の主旨から外れてきているので、最初に立ち返るべきだと思います。

そのために「小室先生の主張のどことどこが矛盾しているか明確にしてください」と言っているのです。それに対してあなたの言うことがころころ変わるのが問題なのです。


ここで、もう一度最初の段階を振り返りましょう。

こんなところでそれをする必要はありません。そのために『日本人のための宗教原論』議論用を作って議論の進行状況がわかりやすいようにしているのです。かえって混乱をまねきます。


小室さんの「本来の仏教」の矛盾とは・・・・

A 釈迦の決めた戒律は変えてはいけない。

B 釈迦の決めた戒律を変えていい。

でも私にとって小室さんの最澄の記述に関しての、この小室さんの矛盾は、二次的な矛盾であり、重要な矛盾ではありません。
無視して構わない矛盾です。

私にとって無視できない矛盾とは、親鸞は「(私の解釈する)小室さんの定義の戒律廃止」をしていないということなのです。

ややこしいのですが、親鸞は戒律を本当に廃止することによって、「小室さんの定義の戒律廃止」をしなかったということが、私の主張です。

A 最澄は、「小室さんの定義する戒律廃止」をした。

B 親鸞は、「小室さんの定義する戒律廃止」はしていなかった。

だから、最澄と親鸞の両方共に戒律を廃止したと主張するのは矛盾。

第7章における小室先生の矛盾する主張を(A)と(B)という形で明確にしてほしいと言っているのですよ。この場合のAとBは矛盾しているわけではありませんね。

しかもこれは



それでは
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「原始仏教が絶対」
ではなく
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」
の2つが矛盾するということでよろしいのですか?



比較2は新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」で、それが(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と矛盾するということでよろしいですか?
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?

という私の質問に答えたものにもなっていません。このようにその時その時で適切な回答や反論をせず、自分が言いたいことばかり言うから議論が混乱するのです。

なぜ議論の前提となるべき「小室先生の(A)という主張と(B)という主張が矛盾している」というおおくぼさんの説明がこれほどまでに混乱していて明確でないのか不思議です。おおくぼさんが言い出したことですよ?

自分の主張(この場合は「小室先生の(A)という主張と(B)という主張の矛盾」)を明確にすることは議論のイロハのイです。そんな単純なこともできないのに、どうしてきちんとした議論ができるでしょう。前提から間違ってます。

再度私の質問にきちんと答え、(A)と(B)を明確にするよう求めます。


私は小室さんの矛盾を指摘しますが、一番指摘したいのは、歴史的事実に関することです。

それであれば小室先生の矛盾についての指摘がいいかげんでもいいということにはならないでしょう。

投稿: 古賀 | 2010年2月12日 (金) 07時01分

私は古賀さんの主張が全く理解できません。
暗中模索というか、ここまで噛み合わないことは珍しいです。
噛み合ったと思ったら、「どうやら誤解だった」と気づくばかりです。
私に対する批判も、的外れとしか思えません。

私の悪い点は、一回のコメントに多くのことを書きすぎることです。
古賀さんは、私のコメントを丁寧に読解しようとせず、対応関係になっていない記述を自分勝手に繋げて、批判したり、「答えになっていない」と言っているだけです。

また私には古賀さんの小室直樹さんの本をどのようなルールで読んでいるのかわかりません。
違うルールで読めば、解釈が違うのは当然です。
偶然、一致することはあっても、それはあくまで偶然です。

>あなたがきちんとした段階を踏まずに一方的に垂れ流しているものを私は主張として認めていません。

私も古賀さんも互いに自分の言いたいことを大声で叫んでいるだけに思えます。
そんなのは議論以前の状態であり、進展することはないでしょう。
実際、コメントが増えれば増えるほど、混乱の度合いは深まるばかりです。

私には古賀さんのいいたいことが理解できませんし、古賀さんには私の言いたいことを理解しようとする意思が感じられません。

私は議論になってない議論でも、自虐的に楽しむ性格なので、続けていますが、まだ続けますか?

投稿: おおくぼ | 2010年2月12日 (金) 11時03分

議論は、議題と議論のルールを明確にしなければいけません。
裁判とは違って、進行係も審判もいません。

小室さんの「最澄が戒律を全廃した」という主張を、どう解釈するかということがメインの議題だったはずです。
それを忘れて、別の議論に横滑りしては、混乱するだけです。

投稿: おおくぼ | 2010年2月12日 (金) 11時12分

>小室の考えでは「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえばたとえ戒律があっても「実質的撤廃」といえる。

この古賀さんの主張には同意できませんし、古賀さんは、「釈迦が定めたもうた戒律」を「原始仏教の戒律」と解釈しているのではないでしょうか?
まず、そこがわからないと議論ができません。

私が小室さんの矛盾だと考えているのは・・

A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。

B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。

AとBは矛盾です。
小室さんの公理は、仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいいということです。
仏教に正典がないのも、その理由からです。
仏教が「科学に近い」という主張も、「法前仏後」だからです。
これは、あくまで私の解釈する小室説の仏教です。

投稿: おおくぼ | 2010年2月12日 (金) 11時42分

>おおくぼさん


私の悪い点は、一回のコメントに多くのことを書きすぎることです。

わかってるならやめなさい。何度もいちいち言わせない。それが議論が混乱する一番の原因です。


古賀さんは、私のコメントを丁寧に読解しようとせず、対応関係になっていない記述を自分勝手に繋げて、批判したり、「答えになっていない」と言っているだけです。

何かずっと勘違いしてるんようですが、私はおおくぼさんの主張が明確じゃないから明確にしてくれと言っているだけなんですよね。それに対しておおくぼさんは正面から返答せずに不必要なこと無駄なことばかり言うから議論が混乱するんです。
私は単に確認作業をしているのです。


私のコメントを丁寧に読解しようとせず、対応関係になっていない記述を自分勝手に繋げて、批判したり、「答えになっていない」と言っているだけです。

はっきり言って他人が自分の意見に同意してくれないために逆ギレして文句を言っているとしか思えません。そもそも支離滅裂な主張を丁寧に読解したり、きちんと対応関係をつけたりするのは無理な相談です。

私は確実に推論をすすめたいから出発点となる「小室先生の(A)という主張と(B)という主張を明確にしてくれ」と言っているだけです。言い換えればおおくぼさんの支離滅裂な主張を誰にでもわかる簡潔で明確な主張にしてくださいと言っているのです。

私の指示におおくぼさんがきちんと従ってくれてそれでも議論が混乱するなら私にも責任があると言えるでしょうが、おおくぼさんはまるで私の指示に従わず一方的に意見を垂れ流しているだけです。だから議論が混乱する責任はおおくぼさんにあります。


小室さんの「最澄が戒律を全廃した」という主張を、どう解釈するかということがメインの議題だったはずです。

メインの議題は「おおくぼさんの考える小室先生の主張のおかしな点」です。
だからおおくぼさんに「小室先生の主張がどこがおかしいか。どこが矛盾しているか」を明確にしてくださいと言っているのですよ。
私はおおくぼさんの自説なんかに大して興味はありません。「小室先生の主張がおかしい」と言うのでそこを明確にしたいから議論につきあっているだけです。

◎『日本人のための宗教原論』議論用に議論の進行状況をわざわざ残しているのは、議論の混乱の原因がどこにあるのかを明確にする意味もあります。

あなたはいくら言っても不必要なコメント無駄に長いコメントをやめませんし、こちらの質問に対してもきちんと答えません。あろうことか答え(小室先生の矛盾する主張(A)と(B))が毎回違っていたりもします。
そして最終的に「古賀さんに議論のやり方が悪い」というのもお決まりです。
あなたが自分勝手な支離滅裂な主張を一方的にくり返すだけだから議論が混乱するのです。

あなたがこちらが質問に対し無駄なことや不必要なことを言わずに簡潔かつ明確に返答していればちゃんと議論は進行するのです。あなたの主張を明確にし、議論をやりやすくするために質問しているのですから。


私が小室さんの矛盾だと考えているのは・・

A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。

B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。

具体的にAの主張とBの主張は『日本人のための宗教原論』のどこに書かれているのですか?


小室さんの公理は、仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいいということです。
仏教に正典がないのも、その理由からです。
仏教が「科学に近い」という主張も、「法前仏後」だからです。
これは、あくまで私の解釈する小室説の仏教です。

このへんの説明は現時点では不必要です。(A)と(B)が明確になってからでないと議論が混乱します。すでにここでのおおくぼさんの主張にはおかしな点がありますが今は深入りしません。まず主張を明確にすることが先決です。

その時点での議論の進行に合わない主張はいくらおおくぼさんが言ったつもりになっていても私はスルーします。ちゃんと段階をおって提出してください。

再度確認:現在の宿題


私が小室さんの矛盾だと考えているのは・・

A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。

B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。

具体的にAの主張とBの主張は『日本人のための宗教原論』のどこに書かれているのですか?

おおくぼさんの言う「小室先生の(A)という主張と(B)という主張が矛盾している」の(A)と(B)が明確にならない限り、私は議論を先に進めませんのでそのつもりで。

投稿: 古賀 | 2010年2月14日 (日) 08時26分

>おおくぼさん

(1)

私に対する批判も、的外れとしか思えません。

私は単にあなたの主張を明確にしてほしいだけで、明確になっていないから「きちんと明確にしてください」と言っているだけです。
それは議論の進行状況を見れば明らかです。

(2)

また私には古賀さんの小室直樹さんの本をどのようなルールで読んでいるのかわかりません。

私は単にあなたの言う「小室先生の主張の矛盾点」が明確になってからそれに同意するなり反論するなりしようと考えているだけです。

(3)

私も古賀さんも互いに自分の言いたいことを大声で叫んでいるだけに思えます。
そんなのは議論以前の状態であり、進展することはないでしょう。

これは言葉を大にして言いますが「自分の言いたいことを大声で叫んでいるだけ」なのはあなたであって私ではありません。
私は単にあなたの叫びを普通の人間にもわかるように整理しようとしているだけです。
そのために私は現時点ではできるだけけ自分自身の積極的な主張は差し控えています。

(3)

私には古賀さんのいいたいことが理解できませんし、古賀さんには私の言いたいことを理解しようとする意思が感じられません。

というか私はおおくぼさんの言うことを理解するための主張の整理以外のことはほとんどやってません。良く読めばわかりますが、私はおおくぼさんの意見を理解するための補助線として意見を言っているので、私自身の意見を積極的に主張しているわけではありません。
おおくぼさんにとってはどうも自分の意見に同意しないことが即「理解しようとする意思が感じられない」ことになるようですね。

(4)

私は議論になってない議論でも、自虐的に楽しむ性格なので、続けていますが、まだ続けますか?

とりあえず議論の出発点である「小室先生の主張の矛盾点」ぐらいは明らかにしてほしいですね。

いちいち的外れな反論はしないように。私は繰り返し言っているように「おおくぼさんの考える小室先生の主張の矛盾点」を明確にしてほしいだけです。

投稿: 古賀 | 2010年2月14日 (日) 10時35分

>おおくぼさん

これ以降は『『日本人のための宗教原論』他議論用3』の方にコメントお願いします。

投稿: 古賀 | 2010年2月14日 (日) 12時06分

>おおくぼさん

これ以降は『『日本人のための宗教原論』他議論用3』の方にコメントお願いします。

あなたには人の言っていることを理解する脳味噌がこれっぽっちもないんですか?

削除します。
もう少し人の言うことを理解する術を身につけなさい。

過去ログを整理してから『『日本人のための宗教原論』他議論用3』をあげるつもりです。

投稿: 古賀 | 2010年2月14日 (日) 12時30分

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