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2010年1月

2010年1月31日 (日)

唐沢俊一検証イベント始動

私も少しかかわっている『唐沢俊一検証イベント』。とても良い感じで動き出しております。

猫遊軒猫八からのお知らせ(唐沢俊一検証イベント準備ブログ)

ガセばかりの夜空に。(唐沢俊一検証blog)

唐沢俊一検証イベント(唐沢俊一検証コミュニティ・mixi

唐沢俊一検証イベント準備委員会はどなたでも参加できます。お気軽にどうぞ。


(古賀)

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『日本人のための宗教原論』議論の進行状況(2)

議論自体に特に進展はありませんが、〈◎『日本人のための宗教原論』用語事典〉に項目を追加しました。

http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron002.htm
(用語事典)
追加した項目『三宝』『維摩経』

ブッダが説法をはじめた初期の頃は三宝がないというのは考えたら当たり前ですね。出家者の集まりであるサンガがきちんとした形で成立していないのだから。

大乗菩薩思想は、いろいろな理由で出家者になれない在家信者による「阿羅漢はすっぱいに違いない」という一種のルサンチマン思想が核になっているような気がします。アイロニーと機知に満ちている『維摩経』もその点例外ではない、というかある意味最も露骨ですね。


(古賀)

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『日本人のための宗教原論』議論の進行状況(1)

現在『日本人のための宗教原論』第7章での小室先生の主張「最澄は彼の作った日本仏教の総本山、比叡山で、今までの戒律を実質的に全廃してしまった」について議論を行っています。

http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron001.htm
(議論の進行状況まとめ)
http://fueiku.cocolog-nifty.com/diary/2010/01/post-5168.html
(実際に議論の行われているところ)

参考のために〈◎
『日本人のための宗教原論』用語事典〉作りました。

http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron002.htm
(用語事典)
追加した項目『戒』『戒壇』『律』

次の点が重要です。
1 インド仏教は基本的に出家至上主義である。
2 出家者と在家信者では守らなければならない「戒律」(規範)の性質がまるで違う。
3 出家者の目的は厳しい修行により悟りをひらくこと。在家信者の目的は出家者を援助することにより功徳を積み、死後望ましい境涯に生まれ変わること。
(参考:『わかる仏教史』宮本啓一著)

出家至上主義の初期仏教から在家中心主義の大乗仏教への変化により、戒律についての考えが次第に変質していくというのが私の考えです。現在その線に沿って主張を組み立て中です。

なぜなら出家者の厳しい戒律遵守は「今生で悟りをひらき阿羅漢になるのが目的」であることがあくまで前提であり、大乗仏教のように「遠い未来に仏になるのが目的」になると積極的な菩薩行の方に主眼が移り戒律そのものの重要性が減ってしまうのです。だからこそ「釈迦が定めたもうた戒律」を大幅に変えるという発想が起こるのです。


(古賀)

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2010年1月30日 (土)

笛育市民大学講座(嘘知識) 書籍『お釈迦ボックス』6

西尾維新作睦月あきら画 中央公論社コミックス

第十箱 「圧死確実の危険な行為だ」

【あらすじ】

世尊を殺して自らが仏陀となる野心を抱いたデーヴァダッタは、何人もの男を雇って世尊を殺そうとしたが男たちは全て世尊に帰依してしまい目的を果たせなかった。そこでデーヴァダッタは「わたし自身が彼を殺してやろう」と思い霊鷲山に登って山の背後を歩いている世尊めがけて大きな石塊を投げつけた。二つの山の峰が相寄ってその石塊を受け止めたが、その欠片が飛び散って世尊は足から血を流した。

モッガラーナ「えー、デーヴァダッタさんは世尊の親友ということですが?」
デーヴァダッタ「うん、そうだよー。長―く善―いお付き合い!ま、世尊のことならなんでもあたしに聞いちゃいな!」
モッガラーナ「はー!ちなみに世尊とはどーいったなれそめで?」
デーヴァダッタ「エットネー、あたしと彼とは25歳ぐらい年の差があってー、世尊が成道10年ぐらいの時に祇園精舎で初めて会ったんだけどー、あいつあたしが殺意を持って霊鷲山の上から落とした大岩、足を怪我しながら拾ってくれたのー♪」
モッガラーナ「短(みじか)っ!そして悪(わる)っ!」
(参考:中村元選集第14巻『原始仏教の成立』P528~P531 『めだかボックス』第2巻)

【関連情報】

『釈迦』(Wikipedia


『目連』(Wikipedia

『提婆達多』(Wikipedia

『めだかボックス』Wikipedia


(古賀)

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2010年1月28日 (木)

〈◎『日本人のための宗教原論』議論用〉作りました。

小室直樹先生の著書『日本人のための宗教原論』についての議論の進行状況を↓にまとめてあります。

http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron001.htm

現在議論を行っているのは↓。

http://fueiku.cocolog-nifty.com/diary/2010/01/post-5168.html

何かご意見がありましたらこちらのコメント欄まで。現在議論をわかりやすく見せる工夫をあれこれ検討中。


(古賀)

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2010年1月25日 (月)

あしたのためにその1 議論においてはまず意見の一致点を探す。

「これぐらいならまあどんな相手とでも意見が一致するだろう」という観点から議論の前提を考えてみる。

☆仏教はイエス・キリストの説いた教えではない。
☆小室直樹は人間だ。
☆鑑真はガンジーとは違う。
☆最澄は日本で死んでいる。

このぐらいなら一致するかな。いやいや最澄ジンギスカン説というのがもしかするとあるかも知れんな。

【関連情報】

『仏教』(Wikipedia


『小室直樹』(Wikipedia

『鑑真』(Wikipedia

『最澄』(Wikipedia


(古賀)

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2010年1月24日 (日)

笛育市民大学講座(嘘知識) テレビ番組『ふしぎなゴルゴ』

手塚治虫が小学館の学習雑誌に連載中に病気になったため、さいとうたかをが途中代筆したことで有名な原作漫画を元に、手塚プロダクションが作成・放映した子供向けアニメーション作品。性教育の意図をこめて主人公と一夜のつきあいをする女の子を娼婦に設定したところ「子供に見せられない」とPTAから苦情が殺到した。

【あらすじ】

幼い弟たちを養うために世界中を股にかけて働き続ける寡黙な小学生ゴルゴちゃんは天国のママに不思議な力を持つキャンデーをさずかります。喜んだゴルゴちゃんは青いキャンデーを数粒飲んで働きざかりの壮年男性に変身。全国コンクールで1等賞をとった射撃の腕を生かした商売をはじめます。十年の年月がたつたびに赤いキャンデーを1粒飲んで若返るゴルゴちゃんは、やがて『何十年たっても全く年をとらない超A級スナイパー』として裏の世界では知らぬ者のない有名人になっていくのです。

【関連情報】

『ふしぎなメルモ』(Wikipedia


『ゴルゴ13』(Wikipedia


(古賀)

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2010年1月17日 (日)

今日の更新情報(1/17)

★笛育妖怪館(嘘妖怪)更新しました。

『ストーカー』

http://fueiku.cocolog-nifty.com/monster/


(古賀)

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2010年1月14日 (木)

今日の更新情報(1/14)

★笛育演芸場(嘘落語)更新しました。

落語『ロケット算』

http://fueiku.cocolog-nifty.com/engei/


(古賀)

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2010年1月11日 (月)

笛育市民大学講座(嘘知識) 社会学『常温核家族』

親夫婦と同居せず夫婦のみあるいは夫婦と未婚の子女で構成された家族の形態。水素や重水素や三重水素が反応してヘリウムになるような高温高圧状態だと家族同士の繋がりを維持できずプラズマ状になって離散する脆い一面がある。

社会の変化で太陽の中心部でも食事、お風呂、寝るなどの家庭の営みができる通常の核家族が「非現実的だ」ということで減少したことにより注目されるようになった。

【関連情報】

『核家族』(Wikipedia

『常温核融合』(Wikipedia

『原子核融合』(Wikipedia


(古賀)

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2010年1月10日 (日)

今日の更新情報(1/10)

★笛育新聞社(嘘ニュース)更新しました。

『脳の「神話」独り歩きに警鐘』

http://fueiku.cocolog-nifty.com/news/

超人バロム1第23話「魔人ノウゲルゲが独り歩きする」


(古賀)

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2010年1月 9日 (土)

『日本人のための宗教原論』他議論用2

『『日本人のための宗教原論』他議論用』での議論はこちらで継続します。
『『日本人のための宗教原論』他議論用』のコメント欄で
議論した内容は↓のとおり。

こちらでも平行して議論を行ってます。

http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9059511.html

投稿: 古賀 | 20091229 () 1435

『日本人のための宗教原論』は内容が、多岐に渡っているので、第四章の「【仏教】
は近代科学の先駆けだった」と 第七章「日本人と宗教」を重視し、「日本人」と「仏教」の2テーマに絞って議論したいと思います。

投稿: おおくぼ | 20091229 () 1648

>おおくぼさん

それで結構ですよ。

小室先生は確かに表現が不正確あるいはわかりにくいところはあります。例えば『日本人のための宗教原論』第4章のP227で「小乗仏教では、この世の迷いを断じきった聖人にさえも四階級があるといい」と書いてますが、これは厳密には正しくありません。小乗仏教の聖人の4階級とは、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢のことだと思いますが、このうちこの世の迷いを断じきったといえるのは阿羅漢だけです。

ただそのあとの説明「聖人の最高位である~罪あればこそである」を読む限りはちゃんとその点は理解されているようです。

投稿: 古賀 | 20091229 () 1858

第四章の「【仏教】は近代科学の先駆けだった」では、維摩居士の話が出てきます。
仏教の悟りの複雑のさの例として出したと思うのですが、そうすると、第七章の「日本人と宗教」と「維摩居士」の話は似てくるのではないでしょうか?
肯定的評価か否定的評価かは別れますが・・・。

例えば、親鸞が聖徳太子の夢のお告げで、妻帯を決意する話が出てきます。
梅原猛によれば、聖徳太子は、維摩居士の話が好きで、自分と重ねていたそうです。

358ページに「シュテファン・ツヴァイクのような大天才をもってしても、その辺りがなかなか理解しくくなっている。」と書いてあります。
日本人が宗教を理解できにくいという話なのに、どうしてシュテファン・ツヴァイクの理解力が出てくるのか謎です。

投稿: おおくぼ | 20091230 () 0211

>おおくぼさん

>仏教の悟りの複雑のさの例として出したと
>思うのですが、そうすると、第七章の「日
>本人と宗教」と「維摩居士」の話は似てく
>るのではないでしょうか?

何を言いたいのか良くわかりません。明確に要点を指摘してください。
きちんと議論をするからには、私は指摘する側にも曖昧でない明確な指摘を望みます。

>日本人が宗教を理解できにくいという話なの
>に、どうしてシュテファン・ツヴァイクの理
>解力が出てくるのか謎です。

確かにこの箇所に出てくるのは不自然ですね。

投稿: 古賀 | 20091230 () 1019

長くなると思いますが、足りなり部分は指摘して下さい。
何度でも補足します。
また議論はすぐに終わることを目指さず、ゆっくり時間をかけたいと思っています。
もし何らかの理由で、議論を中断したくなったら言って下さい。

私は空気を読むのが下手な人間であり、粘着質なタイプなので、いくつかのブログを閉鎖させてしまった経緯があります。
たぶん今でも恨まれていると思います。
弁解すれば、私には悪意は一切ありませんでした。

>仏教の悟りの複雑のさの例として出したと
>思うのですが、そうすると、第七章の「日
>本人と宗教」と「維摩居士」の話は似てく
>るのではないでしょうか?

まず引用します。

>本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならないように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
200ページ

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
201ページ

>維摩居士という人は、どこでどんな修行をしたなどどは一切書いていない。
>どれだけ善行を積んだかも書いていない。
>さらには、釈迦の教えを受けたわけでもなく、釈迦の教団とも関係ないと書いてある。
>このように、何の修行をしたかもわからないし、特別な善行も積んだかもわからない。
>誘惑の否定もしない。
>悪魔が維摩居士を誘惑しようと企み、絶世の美女を、いわゆる魔女なのだが、送り込んだところ、維摩居士は全部妾にしてしまったなどと書いてある。
>悟りをひらいた以上はそんなことは平気の平左であり、むしろ、そういう行動などに左右されるようでは悟りとは呼べないのである。
>この人の行いは「空」そのものである。
>独覚の好例として紹介したが、この維摩居士のレベルは、他の独覚に比しても飛び抜けているほどの大人物である。
201ページ

次に第七章から引用します。

>この点は、法然上人、親鸞上人のほうが徹底している。
>「南無阿弥陀仏」と唱える唱名だけでいい、修行も学問も一切必要ないといっている。
>これこそ仏教的な考えからいったら、大変な異端なのだ。
>まず異端だというのはどういうことかというと、本来の仏教では大変な修行を要求する。
そのうえ、善行、善果の積み上げをやりなさいともいう。
>それから学問も重要ですよ、とこういうことをいっている。
>ところが法然及び親鸞は、そんなことは一切必要ないといってしまった。

そうすると、小室説では維摩居士は異端なのでしょうか?
あるいは本来の仏教ではないのでしょうか?
『日本人のための宗教原論』では不明です。

投稿: おおくぼ | 20091230 () 1127

>おおくぼさん


私は空気を読むのが下手な人間であり、粘着質なタイプなので、いくつかのブログを閉鎖させてしまった経緯があります。
たぶん今でも恨まれていると思います。
弁解すれば、私には悪意は一切ありませんでした。

了解しました。


そうすると、小室説では維摩居士は異端なのでしょうか?
あるいは本来の仏教ではないのでしょうか?

どう説明すれば一番混乱をまねかないのかちょっと考えているんですが。

【前提1】
まず小乗仏教と大乗仏教では悟りの考え方が違います。

小乗では悟りを開いた聖者には3タイプあります。声聞、独覚、仏です。
(注:正確には声聞の中の阿羅漢)

独覚というのは、仏の教えを聞かずに独自で悟りを開いた聖者です。

小乗では、この3者の悟りにあまり質的差異を認めませんが、大乗では仏と他の2者は悟りの境地が天と地ほどにも違うことになっています。

大乗では菩薩を重視します。菩薩にも何段階かありますが、最高位近くの菩薩はほとんど仏と変わらない境地で、声聞や独覚を遥かに凌駕しています。

【前提2】
維摩経は大乗経典です。

【前提3】
大乗経典においては声聞や独覚の悟りはレベルが低いものと軽視されているはずですが、維摩居士の悟りの境地は非常にレベルが高い(仏に近い)ものと説明されています。
(というか維摩経は維摩居士の悟りの境地がいかに他の声聞や菩薩と比べてレベルが高いかを説いているお経みたいなもんです)

で、おおくぼさんの疑問に答える前に私がひっかかっているのは、維摩居士はむしろ在家の(高位の)菩薩と考えるのが妥当じゃないかと。

つまりこの点では小室先生が維摩居士を独覚と説明しているのは間違いである可能性が高いのです。

これは小室先生が小乗と大乗をきちんと区別せずに仏教を説明しているところから生じたものだと思います。
(続く)

投稿: 古賀 | 20091230 () 1405

【前提3】補足説明

調べてみたところ『維摩経』の中でお釈迦様が維摩居士のことを「衆生の中の最高である菩薩」と呼んでいる箇所を発見しました。

また維摩居士が本来この世界の人間ではなく阿しゅく仏という別の仏のいる世界(妙喜世界)から救済(菩薩行)のために生まれ変わってきたと記載している箇所も発見しました。

【解答】
小室説では小乗と大乗が混同されているので、出家してお釈迦様の元で修行せずに悟りを開いた維摩居士を独覚と解釈しています。
独覚は原始仏教で既に想定されている存在です。
異端ではありません。

ただ正しくは維摩居士は在家の菩薩と解釈すべきだと考えます。「過去世で仏陀を崇拝して善根を積み」「仏陀を礼拝し」「俗人の白衣を身につけながら、沙門の行いをまっとうし」などと表現されており、小室先生が「何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく」と書いているのといささか異なります。
また在家の修行者でも悟りをひらけると考えるのは大乗仏教の基本的立場です。
(続く)

投稿: 古賀 | 20091230 () 2017

A-維摩居士独覚説(小室説)
維摩居士を独覚と考える小室説によるなら、独覚の「修行をせずに悟る」と、念仏の「修行が不要」とはまるで違うといえるでしょう。関連性が無いといってもいい。

独覚はあくまで例外的存在だからです。

それに対して念仏で「修行が不要」というのは、修行しなくても悟りが開けるからではありません。まるで逆で「いくら修行しても悟りをひらけない時代である」という認識があるから、念仏に頼るという構造です。

B-維摩居士在家菩薩説
ただ先ほど説明したように小室説は間違いで維摩居士を在家の菩薩と考えるならば、日本仏教の特色のようにいわれる「戒律の軽視」はすでにこの時点(大乗仏教)で起こっているともいえます。

在家の信者の戒律は出家の戒律に比べて圧倒的に少ないからです。それにもかかわらず「在家の信者が出家者である声聞を圧倒的に打ち負かす」というストーリーである維摩経は直接的とは言えなくても戒律の軽視を後押しするものではないかと。

投稿: 古賀 | 20091230 () 2057

追記

少し明確でない箇所に気付いたので確認。

>そうすると、小室説では維摩居士は異端なの
>でしょうか?

異端というのは通常教えが正統でないということです。維摩経が異端の説という意味で言われているのですか?維摩居士が異端者という意味で言われているのですか?

投稿: 古賀 | 20091230 () 2113

『日本人のための宗教原論』の文脈で、維摩居士を異端と見なすか?という意味です。

なぜなら、『日本人のための宗教原論』では、法然と親鸞を異端と見なしています。
維摩居士は異端ではなく、法然と親鸞は異端であるとすれば、その違いの基準が、『日本人のための宗教原論』では曖昧な気がします。

どうして小室さんは維摩居士の例を出したのかという理由について私は悩みます。
ただ第四章は「空」の説明がメインであり、小室さんは、維摩居士の説明で・・

>この人の行いは「空」そのものである。

・・・と書いてあるので、「空」を説明するために、重要な例として出したとも推測できますけど。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2019

特に親鸞の場合は、『日本人のための宗教原論』で、聖徳太子の夢のお告げに言及しているからです。

>日本における聖徳太子信仰は大したものではあったけれど、聖徳太子といえば、仏教に理解は持っていたとはいえ、単なる政治権力者であり、悟りをひらいたわけでもなければ、ましてや僧侶でもない。
>そういう人に許すといわれて、それで許されると考えるがおかしくないか。
>これがお釈迦様が現れて許すといわれたのなら話はまだわかるのだが、親鸞聖人にしてからがこのような矛盾を抱えている。
373ページ〜374ページ

親鸞は、聖徳太子が悟りを開いていないと思っていたのでしょうか?
もし親鸞が、聖徳太子が悟りを開いた人物だと思っていたら、維摩居士が夢の中で「許す」と言ったと同じ意味になるのではないでしょうか?

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2035

>おおくぼさん


維摩居士は異端ではなく、法然と親鸞は異端であるとすれば、その違いの基準が、『日本人のための宗教原論』では曖昧な気がします。

維摩居士は法然と親鸞のように「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。確認してください。

投稿: 古賀 | 20091231 () 2106

前のコメントで引用した・・・・


>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
201ページ


確かに、小室さんは維摩居士が「修行も学問も不要」という教えを説いた・・・とは書いていません。
けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2157

古賀さんは、維摩居士について多くのことを書かれましたが、どこまでが古賀さんの説で、どこからが小室さんの説(古賀さんの理解する)かが、私には区別しにくいです。

私は、小室さんの説を批判することを第一目的にコメントしています。

だから古賀さんと「正しい仏教とは?」論争をするのは、あくまでも小室さの説を批判するためです。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2217

例えば、宮元啓一さんの『ブッダが考えたこと:これが最初の仏教だ』(春秋社)を読むと、小室直樹さんの仏教理解との違いが多々、発見できます。
けれど、私には宮元啓一さんの仏教理解がどの程度正しいかを判断する知識はありません。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2342

>おおくぼさん


けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。異端とはいえません。


古賀さんは、維摩居士について多くのことを書かれましたが、どこまでが古賀さんの説で、どこからが小室さんの説(古賀さんの理解する)かが、私には区別しにくいです。

一応わかりやすいように分けて書いてます。


だから古賀さんと「正しい仏教とは?」論争をするのは、あくまでも小室さの説を批判するためです。

ある程度の仏教知識がないとせいぜい「ここの表現はわかりにくい」「ここの表現は不適切だ」ぐらいのことしかいえないと思います。


けれど、私には宮元啓一さんの仏教理解がどの程度正しいかを判断する知識はありません。

小室先生は中村元先生の説に立脚していることが多いようです。

私は仏教については複数の解説書を読みながら、GoogleWikipediaで関連用語について調べてみて、経典の話が出たら可能な限りその経典(日本語訳)を読むぐらいのことはしています。
その上で「小室先生の書かれているこれは間違っている」と言っています。

投稿: 古賀 | 20101 1 () 0810

古賀さんへ

明けましておめでとうございます。

おめでたい正月早々慌ただしいですが、早速、議論の続きをしたいと思います。

まず、小室さんの維摩居士についての解釈について・・・。

>>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
201ページ

これは古賀さんの言うとおり、『維摩経』の記述と小室さんの維摩居士説には決定的な違いがあります。
例えば、『維摩経』には維摩居士は、過去世で善行を積んだと書かれています。
『維摩経』(中公文庫)25ページ

その場合、小室さんのただの勘違いで、その部分を修正して理解し、『日本人のための宗教原論』全体を理解するという方法があり、古賀さんの読み方は、その方法だと思います。

けれど、私は間違った理解か別として、小室さんの主張の矛盾だと考えます。

だから、修行もしないで悟った維摩居士を本来の仏教の一つとして高く評価し、一方で最澄や親鸞や法然を異端だと非難するのは、おかしいと考えます。

また親鸞の夢のお告げは、聖徳太子ではなく救世観音なのですが、それについても、小室さんの勘違いということは置いといて、小室説の矛盾だと考えます。

だから、私は二重の読み方をしていることになります。

1 小室さんの間違い(あるいは勘違い)を指摘すること。

2 小室さんの間違い(あるいは勘違い)を保留して、小室さんの論旨の矛盾を指摘すること。

今回、「小室さんの解釈する維摩居士」と「小室さんの理解する日本仏教」の整合性については2を重視します。

だから上のコメントの議論は噛みあっていないと思います。

>ある程度の仏教知識がないとせいぜい「ここの表現はわかりにくい」「ここの表現は不適切だ」ぐらいのことしかいえないと思います。

確かに、その通りです。
ただ、小室さんの主張はかなり専門的な内容が含まれています。
特に小室さんは「本来の仏教は・・・」と言います。
中村元さんの名前は出てきますが、中村元さんの説に立脚しているとは明言していません。
また中村元さんの説は、小室さんの理解に都合のいい部分だけ採用しているのではないでしょうか?

もし古賀さんが、宮元啓一さんの著作を高く評価しているなら、小室さんの『日本人のための宗教原論』と比較すると、決定的な理解の違いが発見できる気がします。
特に小室さんが、オウム真理教や日本の伝統仏教を、(小室さんの理解する)原始仏教と比較して、仏教でないあるいは異端だという主張についてです。

投稿: おおくぼ | 20101 1 () 1217

古賀さんは橋爪大三郎さんを高く評価しているようなので、橋爪さんの本から引用します。
小室さんの主張と比較して下さい。
ちなみに引用した本で、橋爪さんは小室さんを批判しているわけではありません。

>大乗仏教は在家主義で、在家の維摩居士が出家の僧侶より修行のレベルが高いという維摩経もあるぐらいだから、麻原が在家でも、別に問題はない。
ただそれなら、原始仏教に忠実だなどとは言わないほうがいい。」
96ページ
(注:これは前半が、島田裕巳さんのオウム真理教批判に対する反論で、後半が橋爪さんのオウム真理教批判です。)

>法華教は、本仏が垂迹して釈尊になるという論理を骨格としていて、あくまで釈迦仏の真意をのべたのが法華教という立場に徹しています。
>それに対して、オウムの場合、麻原の「最終解脱」なるものが、小乗ないし大乗のどの階位の覚りなのか、何の説明も正当化もない。
>だから関係ないと言っているのです。
>さらに言えば、仏教には多くの経典があり、多様な見解がのべられているけれども、修行者の修行を律する戒律(律蔵)にはひと通りしかない。
>それは釈尊の定めたものであって、釈尊以外の任意のグルが定めたものであってはならない。
97ページ

>小乗は(正式な言い方では、部派仏教)は、基本的に合理主義だから、非合理性を徹底的に排除する。
>大乗になってくると、かなりあやしい。
>空観というのがあるんですけれども、空観の論法は、「あるでもなく、ないでもない」とか、形式論理で書けない奇妙な「二重語法」を使うわけです。
>しかしその、イロジカルな語法の内部ではロジカルに透徹しているという特徴があります。
>その先の密教になると、もっとあやしい。
>論理的に考えていって結論が出るような構造には、もともとなっていない。
>オウムの場合は阿含教から出版して、原始仏教の五戒を守るというレベルの修行と、それから密教のヴァジュラヤーナのレベルとが両方ある。
>最初の修行レベルでは人は殺してはいけなくて、ヴェジラヤーナのレベルでは人を殺してよくて、これ自身は不合理ですから困ります。
>困るということ自身が修行であるというなら、これはもうめちゃくちゃである、私に言わせれば。
94ページ〜95ページ

引用は全て『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』(朝日新聞社)
橋爪大三郎&島田裕巳(対談本)

投稿: おおくぼ | 20101 1 () 1445

>おおくぼさん


だから、修行もしないで悟った維摩居士を本来の仏教の一つとして高く評価し、一方で最澄や親鸞や法然を異端だと非難するのは、おかしいと考えます。

何度でも同じ事を言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。だから仏教の異端とはいえません。だからその点はまるでおかしくありません。

おかしいのは小室先生が維摩居士を独覚と勘違いしていることです。しかもそれは私が発見して指摘したことであってあなたが指摘したことではありません。


また中村元さんの説は、小室さんの理解に都合のいい部分だけ採用しているのではないでしょうか?

ないでしょうかも何もそう思ったらあなたが調べて具体的に指摘すればいいだけの話です。そういう風な議論をしているのだと思いますが違いますか?


古賀さんは橋爪大三郎さんを高く評価しているようなので、橋爪さんの本から引用します。
小室さんの主張と比較して下さい。

意図が不明です。

投稿: 古賀 | 20101 1 () 2055

>おおくぼさん


2 小室さんの間違い(あるいは勘違い)を保留して、小室さんの論旨の矛盾を指摘すること。

その点は理解してます。


だから上のコメントの議論は噛みあっていないと思います。

だからそれは違います。勘違いを保留したままであろうと(つまり修行をせずに悟りをひらいた独覚だと考えたとしても)維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。だから仏教の異端とはいえません。

投稿: 古賀 | 20101 1 () 2215

>おおくぼさん


中村元さんの名前は出てきますが、中村元さんの説に立脚しているとは明言していません。

「空」の解説で中村元先生の著作を引用し、P244で「空を理解するうえで、中村元先生の貢献は瞠目に値する」と書いていますね。
当然それ以降の「空」の解説は中村元先生の説に立脚していると推測されますが。

投稿: 古賀 | 20101 1 () 2253

内容が多岐に渡っているので、コメントを分けます。

>「空」の解説で中村元先生の著作を引用し、P244で「空を理解するうえで、中村元先生の貢献は瞠目に値する」と書いていますね。
>当然それ以降の「空」の解説は中村元先生の説に立脚していると推測されますが。

私が立脚という言葉を使ったのが失敗でした。
訂正します。

前の私のコメント ↓

>また中村元さんの説は、小室さんの理解に都合のいい部分だけ採用しているのではないでしょうか?

古賀さんの返答コメント ↓

>ないでしょうかも何もそう思ったらあなたが調べて具体的に指摘すればいいだけの話です。
>そういう風な議論をしているのだと思いますが違いますか?


自分のブログで具体的に指摘します。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2029

>何度でも同じ事を言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。
>また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。
>だから仏教の異端とはいえません。だからその点はまるでおかしくありません。

>おかしいのは小室先生が維摩居士を独覚と勘違いしていることです。
>しかもそれは私が発見して指摘したことであってあなたが指摘したことではありません。

議論が噛みあっていないし、私の表現が悪いのことが原因ですが、私の主張を古賀さんは勘違いしています。

まず、私は小室さん主張に矛盾があると指摘しています。

私の前のコメント ↓

>これは古賀さんの言うとおり、『維摩経』の記述と小室さんの維摩居士説には決定的な違いがあります。
>例えば、『維摩経』には維摩居士は、過去世で善行を積んだと書かれています。
『維摩経』(中公文庫)25ページ

>その場合、小室さんのただの勘違いで、その部分を修正して理解し、『日本人のための宗教原論』全体を理解するという方法があり、古賀さんの読み方は、その方法だと思います。

>けれど、私は間違った理解か別として、小室さんの主張の矛盾だと考えます。

>だから、修行もしないで悟った維摩居士を本来の仏教の一つとして高く評価し、一方で最澄や親鸞や法然を異端だと非難するのは、おかしいと考えます。


「けれど」からが、私の言いたいことです。
小室流「維摩居士は素晴らしい&あるいは本来の仏教」説は、「法然&親鸞は異端」説と、『日本人のための宗教原論』の中で、矛盾するということです。

その前の私のコメント↓

>確かに、小室さんは維摩居士が「修行も学問も不要」という教えを説いた・・・とは書いていません。
>けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2157

維摩居士が言ってなくても、維摩居士は見本だという意味です。
だから・・・小室さんの説では、維摩居士は修行せずに悟った。
『日本人のための宗教原論』では明快には書かれていませんが、「何故か維摩居士は悟ることができたのか?」、ということが問題になっているはずです。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2051

私のコメント ↓

>古賀さんは橋爪大三郎さんを高く評価しているようなので、橋爪さんの本から引用します。
小室さんの主張と比較して下さい。

古賀さんのコメント ↓

>意図が不明です。

自分のブログで、小室さんの記述と比較します。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2053

初めに問題になった「小室さんの最澄と延暦寺の記述」について

まず、小室さんは海外から日本に宗教が来ると、戒律がなくなると主張します。
そして鑑真が「戒」を持ってきたとします。
次に最澄が「規範」を「全廃」したと主張します。
ここで、疑問なのは、最澄は中国に何故留学したのか?です。
「規範」を全廃するために、留学したのでしょうか?
また小室さんは触れていませんが、最澄の弟子の円珍と円仁も中国に留学しています。
「規範」を全廃するために、留学したのでしょうか?
もし「規範」を全廃するのが目的なら、留学する必要はないでしょう。

小室さんは比叡山延暦寺が、「日本仏教の総本山の中の総本山」と書いています。
法然と日蓮は延暦寺で勉強し、親鸞は法然の弟子です。
けれど彼らは、延暦寺の正統派なのでしょうか?
彼らは、延暦寺と大喧嘩したのではないでしょうか?

比叡山延暦寺が、「日本仏教の総本山の中の総本山」になったのは、最澄が死んでかなり経った後ではないでしょうか?

最澄の生前は、東大寺などの奈良の寺の方が優勢であり、嵯峨天皇に気に入られていた空海は東大寺と仲がいいです。
また空海も自分の寺を持っています。

最澄が延暦寺独自の戒(死後に弟子たちが作りました)を作ろうとした理由は、奈良の寺にしか、朝廷が「戒」を許されなかったからです。

小室さんは・・・

>僧侶と政治権力が関係ないというのがインドで、中国に入って、僧侶は政治権力と関係ができた。
>そして日本に入ってきてどうなたったか。
>日本の僧侶というのは初めは国家公務員だった。
>僧侶であるかどうかという免許証は、政府が出し、官位、僧侶の位もみな政府が決める。
だから平安時代を通してずっと、僧侶といえば、すなわち国家公務員だった。
370ページ

その数行後の文章は・・・

>それまでは僧侶になるのは大変で、学問を積んで、朝廷から官位を貰って初めて僧侶となる。
>ところが、鎌倉時代以降は誰でもなれるようになった。
369ページ〜370ページ

この主張だと、最澄や法然、親鸞、日蓮は、日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた人になるのでは?

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2146

>おおくぼさん


議論が噛みあっていないし、私の表現が悪いのことが原因ですが、私の主張を古賀さんは勘違いしています。

表現が悪いし、こちらが指摘してもあなたはそれをきちんと直しません。さらに勘違いしているのはあなたであって私ではありません。


小室流「維摩居士は素晴らしい&あるいは本来の仏教」説は、「法然&親鸞は異端」説と、『日本人のための宗教原論』の中で、矛盾するということです。

矛盾しません。
本来の仏教とはそもそも言ってません。維摩居士は釈迦の教えどおり修行すれば悟りをひらけるのは十分条件であって必要条件ではないという例として出ているだけです。悟りを開くのに「修行が不要」な人間もいると書いてあるので、「修行も学問も不要」という教えが説かれているわけではありません。きちんと読めばわかります。P200の16行目からP202の12行目までをきちんと読み返してください。

>維摩居士が言ってなくても、維摩居士は
>見本だという意味です。

独覚というものをきちんと理解してさえすれば、それが見本になりえないことがわかるはずです。
独覚というのはお釈迦様のもとで教えに従って修行したわけではないのに悟りを開いた存在で、そもそも見本になりえないのです。
また見本であるように書かれてもいません。

何度でも言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。だから親鸞&法然と比較すること自体おかしいのです。

あなたが「矛盾だ、矛盾だ」と言い続けるのは、単に自説に固執しすぎる性癖に過ぎないと理解しています。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2158

古賀さんへ

>矛盾しません。
>本来の仏教とはそもそも言ってません。

200ページの「そもそも、」からを読んで下さい。
小室流「維摩居士」は、小室流「本来の仏教」の一つです。

>維摩居士は釈迦の教えどおり修行すれば悟りをひらけるのは十分条件であって必要条件ではないという例として出ているだけです。

小室さんの「十分条件」と「必要条件」の使い方は、独自だと思いますが、理解できません。
数学の教科書の定義と違っています。
説明もありませんし。

>「修行が不要」な人間もいると書いてあるので、「修行も学問も不要」という教えが説かれているわけではありません。

これも繰り返しになりますが、

前の私のコメント ↓

>確かに、小室さんは維摩居士が「修行も学問も不要」という教えを説いた・・・とは書いていません。
>けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

投稿: おおくぼ | 20091231 () 2157

>維摩居士が言ってなくても、維摩居士は見本だという意味です。
>だから・・・小室さんの説では、維摩居士は修行せずに悟った。
>『日本人のための宗教原論』では明快には書かれていませんが、「何故か維摩居士は悟ることができたのか?」、ということが問題になっているはずです。

だから、どうして「悟りを開くのに「修行が不要」な人間もいる」のかが、重大な問題なのです。

>独覚というものをきちんと理解してさえすれば、それが見本になりえないことがわかるはずです。

小室さんは独覚をきちんと説明しているのですか?
私が批判しているのは、古賀説ではなく、小室説です!!!!!

>何度でも言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。
>また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。

古賀さんの、その主張には、前のコメントで何度も、同意を表明しています。

>だから親鸞&法然と比較すること自体おかしいのです。

そうは思いません。
理由は、上のコメントの私の主張を理解していただければ、わかります。


>あなたが「矛盾だ、矛盾だ」と言い続けるのは、単に自説に固執しすぎる性癖に過ぎないと理解しています。

たしかに自説に固執しすぎてますが、矛盾だと思う箇所は具体的に明示しています。
また、間違いだと思えば訂正しています。

維摩居士についての議論は、堂々巡りになっていますので、一度、お互いに頭を冷やしてから、再開しましょう。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2206

一つ前の、「小室さんの最澄と延暦寺の記述」の返信コメントお願いします。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2208

>おおくぼさん

>次に最澄が「規範」を「全廃」したと
>主張します。

実質的「全廃」です。

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro4-2.htm
>最澄は比丘の守るべき戒は250も必要で
>ないとし,重い戒律10と軽い戒律48
>の合計58でよいとした。これは梵網経
>に根拠をおくものであり,菩薩戒という。
>勿論,菩薩戒自体は,日本以外の国でも
>行われていたが,菩薩としての心構えと
>いうべきものであり,具足戒に替わり
>うるものではない。それなのに最澄は,
>具足戒を菩薩戒の十重戒と四十八軽戒に
>替え,さらに受戒の儀式を徹底的に
>簡素化した。


もし「規範」を全廃するのが目的なら、留学する必要はないでしょう。

意味がわかりません。


この主張だと、最澄や法然、親鸞、日蓮は、日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた人になるのでは?

「僧侶と政治権力が関係ない」という点だけをとって、「日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた」と主張するのは乱暴な議論です。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2210

>おおくぼさん


200ページの「そもそも、」からを読んで下さい。
小室流「維摩居士」は、小室流「本来の仏教」の一つです。

「維摩居士」が「本来の仏教」というのは、日本語として不正確すぎます。
あえて要約するなら「本来の仏教」は「修行は手段」(キリスト教やイスラム教と比較して)です。「修行は手段」だからこそ、修行しなくても結果を手にいれる維摩居士のような人間がいても別におかしくはないという話です。「修行は不要」とはまるで違います。


だから、どうして「悟りを開くのに「修行が不要」な人間もいる」のかが、重大な問題なのです。


小室さんは独覚をきちんと説明しているのですか?
私が批判しているのは、古賀説ではなく、小室説です!!!!!

独覚というのが自分独自で悟りをひらく存在であるのは小室説でも通説でも同じです。で、「独覚というのが自分独自で悟りをひらく存在」であることがおおくぼさんの批判がおかしい理由なのです。だから独覚というのをきちんと理解された方がいいと言っているのです。

勉強がいらない天才がいることと、教育機関が「勉強が不要」というのはまるで意味が違います。


古賀さんの、その主張には、前のコメントで何度も、同意を表明しています。

そうでありながらなぜおおくぼさんが自分の批判がおかしいと気がつかないのかその点が良くわかりません。

同意しているのであれば「維摩居士は仏教の異端」という批判は成り立ちません。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2240

廃止というのは、以前あったものを無くすことです。
最澄は、延暦寺に新しい「戒」を作ろうとしたのです。
それは東大寺などの奈良の寺に伝わる「戒」と比較すれば、廃止した形に見えるということです。
延暦寺が「戒」を作ったからと言って、奈良の寺の「戒」が廃止にはなりません。

前の私のコメント ↓

>もし「規範」を全廃するのが目的なら、留学する必要はないでしょう。

古賀さんの返信コメント ↓

>意味がわかりません。

最澄や弟子の円珍や円仁は、「規範」を求めて、中国に留学したと言いたいのです。

>「僧侶と政治権力が関係ない」という点だけをとって、「日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた」と主張するのは乱暴な議論です。

その通り、乱暴な主張です。
でも、小室さんは明言しないけど、論理的に考えると、小室説では、そうなると言いたいのです。

古賀さんへ

「小室さんの最澄と延暦寺の記述」の、他の私の指摘についても、返信コメントをお願いします。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2255

>「維摩居士」が「本来の仏教」というのは、日本語として不正確すぎます。

「維摩居士」→「維摩居士の思想」に訂正します。

同意しているのであれば「維摩居士は仏教の異端」という批判は成り立ちません。

これは自分の中では訂正したつもりだったのですが、明言しませんでした。
すいません。

私の前のコメント ↓

>『日本人のための宗教原論』の文脈で、維摩居士を異端と見なすか?という意味です。

>なぜなら、『日本人のための宗教原論』では、法然と親鸞を異端と見なしています。
>維摩居士は異端ではなく、法然と親鸞は異端であるとすれば、その違いの基準が、『日本人のための宗教原論』では曖昧な気がします。


だから、小室説では法然&親鸞が異端とされているのに、「維摩居士は異端ではない」と主張しているのが、おかしいと言うのが、私の主張です。

>勉強がいらない天才がいることと、教育機関が「勉強が不要」というのはまるで意味が違います。

では、どうして小室さんは、維摩居士の話を出すのでしょうか?

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2303

私は古賀説を批判しているわけではありません。
私が古賀さんを批判する時は、古賀さんの小室理解が、私から見れば、間違いだと思った時です。

だから、例えば・・

>勉強がいらない天才がいることと、教育機関が「勉強が不要」というのはまるで意味が違います。

という主張には、同意しますが、小室さんが、そんな主張をしているようには思えないのです。
部分的に読めば、そういう解釈もできます。
でも、そうすると、『日本人のための宗教原論』の中で、論理は一貫するのでしょうか?

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2309

>おおくぼさん


「小室さんの最澄と延暦寺の記述」の、他の私の指摘についても、返信コメントをお願いします。

そのへんはもう少し詳しく調べてからコメントします。


「維摩居士」→「維摩居士の思想」に訂正します。

「維摩居士の思想」だとするとおかしなことになります。維摩居士自身は別に「修行が不要」と言っているわけではないので。
「修行が不要」な人間それ自体は異端ではありません。「修行が不要」という説を説けばそれが(小室説では)異端ということなので。


では、どうして小室さんは、維摩居士の話を出すのでしょうか?

仏教において「釈迦の教えを聞いて修行する」のは悟りをひらく十分条件であって必要条件ではないことを説明するためです。


という主張には、同意しますが、小室さんが、そんな主張をしているようには思えないのです。

小室先生の主張というより
勉強がいらない天才=維摩居士
教育機関が「勉強が不要」=法然&親鸞の思想
で、小室先生の主張が別に変ではないことの説明です。

私から見ればおおくぼさんは、「勉強が不要と説く教育機関が間違っているなら、勉強がいらない天才も間違っている」と主張しているように見えます。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2338

>おおくぼさん

若干修正

私から見ればおおくぼさんは、「小室先生は勉強が不要と説く教育機関が本来の教育機関から見て間違っていると言っている。でも小室先生は勉強がいらない天才の話をしているけれどその天才のことを間違っているとは言わない。それは変だ」と主張しているように見えます。

投稿: 古賀 | 20101 2 () 2342

>「維摩居士の思想」だとするとおかしなことになります。

いい表現が思いつかないのですが、「小室直樹が維摩居士の生き方から読み取った思想」という意味です。
だから、「維摩居士の主張した思想」ではありません。

>教育機関が「勉強が不要」=法然&親鸞の思想で、小室先生の主張が別に変ではないことの説明です。

小室さんの文章を引用します。
維摩居士のエピソードのすぐ前の文章です。

>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
200ページ

仏教の特色として、維摩居士の話をしているのです。
だから・・・

>勉強がいらない天才=維摩居士
教育機関が「勉強が不要」=法然&親鸞の思想

・・・だと、「どうして仏教だけ、そうなの?」という疑問が出てくるのです。

ここでも、古賀さんは認識してませんが、古賀説と小室説の違いがあるのです。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2354

前から言っているように、私の読み方は、他人から見れば、「重箱の隅をつつく」ような読み方です。
私自身は、「重箱の隅」と思える記述にこそ、その人の本質が書かれていると思っています。

投稿: おおくぼ | 20101 2 () 2359

私から見ると、古賀さんは、小室直樹さんの弁護士というか、政治家の失言を弁護する代理人のように思えます。

小室直樹という講談師が、博覧強記で見につけた知識を使って、思いついたことを、連想的に面白おかしく、誇張して、大衆に語って、人気を博しているところに・・。
私のような、理屈っぽく、重箱の隅をつつくように見える人物が訴えた時に・・

いい加減な小室直樹さんに代わって、「あれはこう言う意味で言ったので、そう意味ではない」という風に、小室さん自身が考えてもいなかった主張にすりかえて、勝訴を勝ち取る弁護士みたいです。

だから頓智使いと言う感じです。
歴史上の一休宗純ではなく、伝説の方の「一休さん」ですね。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 0022

>仏教において「釈迦の教えを聞いて修行する」のは悟りをひらく十分条件であって必要条件ではないことを説明するためです。

小室さんは、「十分条件」と「必要条件」という意味を、数学の教科書的な意味をひっくり返して使っているのです。
だから、後に出てくる「超論理学」とつながるのです。
そして、私は小室さんの主張する「超論理学」が理解できません。
連想するのは、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」です。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 0039

>おおくぼさん

「pならばq」という関係にあるとき、
「pはqであるための十分条件」,
「qはpであるための必要条件」
というふうに理解しています。

例をあげれば
「犬であるならば動物」という関係にあるとき
・犬であることは動物であるための十分条件
・動物であることは犬であるための必要条件
です。

これをP200の16行の記述にあてはめると

「仏教では釈迦がこういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」

→「釈迦の教えに従って修行をするならば確実に悟りをひらける」
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件

わかりやすく整理するとこんな感じになります。
仏教においては「悟りをひらいた人」と「釈迦の教えに従って修行を完成した人」は同値ではないということです。

あくまで小室説によればですが、集合的にいえば
「悟りをひらいた人」の集合は「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の集合より大きくて、「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の集合を全て含むということです。


そして、私は小室さんの主張する「超論理学」が理解できません。
連想するのは、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」です。

小室先生の文章だとわかりにくいですが、超論理学にはなっていません。

投稿: 古賀 | 20101 3 () 1029

>おおくぼさん


いい加減な小室直樹さんに代わって、「あれはこう言う意味で言ったので、そう意味ではない」という風に、小室さん自身が考えてもいなかった主張にすりかえて、勝訴を勝ち取る弁護士みたいです。

宮台真司さんは『14歳からの社会学』という本で、「小室直樹のスゴさに感染した私は小室直樹がどのように世界を見るのかを徹底的にシミュレートした」と書いてありますが、私もそうしているつもりです。

特に『啓典宗教』や『維摩居士』について私が反論するのは、それが「記述が不完全あるいはわかりにくい」ですむ問題だと判断しているからです。理論的に考えて補完できる場合や説明が他の箇所にきちんと書いてある場合は、私自身は大きな間違いだとは思っていません。

逆に維摩居士のことを独覚と書いてあるような記載は、どう考えても間違いであるので私自身が指摘しました。そういう箇所は他にも多くあると思います。

私から見ればおおくぼさんは本質的でないところに拘泥しすぎているように思えます。

投稿: 古賀 | 20101 3 () 1050

古賀さんの説明は腑に落ちますが、残念ながら、教科書的な定義とは違います。

参考

http://www.kwansei.ac.jp/hs/z90010/sugakua/hitujyu/hitujyu.htm

古賀さんは、三段論法と勘違いしているんだと思います。
良心的に読むと、理学部数学科出身の小室さんも「必要条件」と「十分条件」という用語を、勝手に三段論法の用語にしてしまっていると解釈することもできます。

参考
『入門!論理学』野矢茂樹:著(中公新書)

また小室さんは、270ページの「公理」という用語を「定義」いう用語と分けて使っているけど、どうしてこんな説明をするのか悩みます。
公理と定義を分けて使う必要はないのです。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 1508

>特に『啓典宗教』や『維摩居士』について私が反論するのは、それが「記述が不完全あるいはわかりにくい」ですむ問題だと判断しているからです。
>理論的に考えて補完できる場合や説明が他の箇所にきちんと書いてある場合は、私自身は大きな間違いだとは思っていません。

柄谷行人が「真のマルクス」ではなく「可能性のマルクス」と言っているのと同じ評価方法ですね。

それだと、この議論は平行状態のままでしょう。
価値の判断基準が違うのですから。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 1513

補足

「小室さんの最澄と延暦寺の理解について」

小室さんは、犯人探しのように歴史を後ろから見るから、歪んだ歴史解釈になるのだと思います。

小室さんの評価は別として、法然&親鸞&日蓮に注目するのは鋭いです。
そして、彼らの現れた原因を延暦寺に求めるのも正しいと思います。
そして、当時の延暦寺は、日本仏教界の総本山の中の総本山でした。
そして、小室さんは、延暦寺を作った最澄を真犯人してしまいます。

延暦寺が悪の大学で、その学校を作った人が、悪の張本人に違いないという決め付けです。
小室さんは「悪」という表現を使っていませんが・・・・。

しかし、最澄の時代と法然&親鸞&日蓮の時代はかなり違います。
また、最澄と法然の間に多くの複雑な変化があったことを小室さんは無視して、単調な変化だったと決めつけてしまいます。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 1556

>おおくぼさん

上記のサイトのとおり書き直しても結局は同じことです。なぜなら私も必要条件と十分条件について説明しているサイトを参考に書いているからです。


次に,2つの条件 p,q を用いて,

ワンポイント
p
q という形も命題
となります。真偽が明確
になりさえすればよいの
です。


p
ならば q   すなわち  p q

という形の命題を考えます。また,p を 仮定,q を 結論,といいます。

 そして,「p q が真」であるとき,


p
q であるための 十分条件

q p であるための 必要条件

といいます。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

この場合p q
「釈迦の教えに従って修行を完成した人」⇒「悟りをひらいた人」が真。ということです。

「釈迦の教えに従って修行を完成した人」⇒「悟りをひらいた人」が真であるとき
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件
になります。

良く読んでいただけばわかりますが三段論法にはなっていません。

投稿: 古賀 | 20101 3 () 1557

>おおくぼさん


柄谷行人が「真のマルクス」ではなく「可能性のマルクス」と言っているのと同じ評価方法ですね。

全く違うと思いますよ。
おおくぼさんは変なところに細かいのに、大局的判断はおおざっぱすぎます。

私は細かいところがきちんとつまらない限りは大局的判断を下すには早すぎるという考えです。

だから

小室さんは、犯人探しのように歴史を後ろから見るから、歪んだ歴史解釈になるのだと思います。

「歪んだ歴史解釈」のような明確な価値判断は1つ1つの議論にきっちり決着をつけた上でなければただの情緒的判断にすぎません。


それだと、この議論は平行状態のままでしょう。
価値の判断基準が違うのですから。

実のところ『啓典宗教』の場合は小室先生の書き方が明らかにおかしいとは思いますが、『維摩居士』はおおくぼさんの勘違いであり、しかもここで誤読する方がおかしいと思っています。

投稿: 古賀 | 20101 3 () 1607

>良く読んでいただけばわかりますが三段論法にはなっていません。

すいません。
これは私の勘違いでした。
古賀さんの説明も、小室さんの記述も正しいです。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 1928

>『維摩居士』はおおくぼさんの勘違いであり、しかもここで誤読する方がおかしいと思っています。

この部分は、平行状態のままになりそうなので、別の角度から、小室流「維摩居士」について議論したいと思います。

私の前のコメントその1↓

どうして小室さんは維摩居士の例を出したのかという理由について私は悩みます。
ただ第四章は「空」の説明がメインであり、小室さんは、維摩居士の説明で・・

>この人の行いは「空」そのものである。

・・・と書いてあるので、「空」を説明するために、重要な例として出したとも推測できますけど。


第四章を全体の大雑把な骨子を考えてみます。

「空」という思想について

維摩居士のエピソード

『般若心経』

仏教は魂を否定する(生まれ変わりは認めても、魂だけの存在は認めない)

三島由紀夫の『豊饒の海』

魂が無ければ、何が輪廻転生するのか?

唯識について

阿頼耶識について
原意識が転生する(天才誕生の秘密)
ここで、維摩居士という名や独覚という言葉が出てきてもいいのですが、出てきません。

仏教の救済の仕組み。
1 キリスト教のような救済を判断する神はいない。
2 仏教は時間がものすごくかかる。

煩悩を無くすと、輪廻転生が終わる

>煩悩を去り、悟りをひらき、涅槃に赴くことが、仏教の究極目標である。
>そして、空を悟ことが本当の悟りであり、仏教理解の極意皆伝である。
235ページ

空観という超論理学

小室さんは、『維摩経』や『般若心経』を、空観を理解するための例として出しているのです。

229ページに独覚の説明がありますが、維摩居士の名は出てきません。
小室さんが、独覚をどのように評価しているかは曖昧です。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 2119

かなり前のコメントを訂正します。

>特に親鸞の場合は、『日本人のための宗教原論』で、聖徳太子の夢のお告げに言及しているからです。

小室直樹さんの文章 ↓

>日本における聖徳太子信仰は大したものではあったけれど、聖徳太子といえば、仏教に理解は持っていたとはいえ、単なる政治権力者であり、悟りをひらいたわけでもなければ、ましてや僧侶でもない。
>そういう人に許すといわれて、それで許されると考えるがおかしくないか。
>これがお釈迦様が現れて許すといわれたのなら話はまだわかるのだが、親鸞聖人にしてからがこのような矛盾を抱えている。
373ページ〜374ページ

>親鸞は、聖徳太子が悟りを開いていないと思っていたのでしょうか?
>もし親鸞が、聖徳太子が悟りを開いた人物だと思っていたら、維摩居士が夢の中で「許す」と言ったと同じ意味になるのではないでしょうか?

最後の・・・「維摩居士が夢の中で「許す」と言ったと同じ意味になるのではないでしょうか?」
・・・は独覚の夢告という意味ではなく、在家の夢告でも、悟りを開いている人物の夢告と考えて下さい。

投稿: おおくぼ | 20101 3 () 2212

小室さんを批判するだけでは、建設的な議論にはならないので、別の説を提示します。

私が影響を受けているのは井沢元彦さんの説です。
今回の小室直樹批判も井沢さんとの対談を読んだことから発しています。

井沢さんの主張は、小室さんの主張と共通する点が多いです。
けれど、具体的な歴史分析では、違いがあるのです。

例えば、井沢さんは日本教の原因を聖徳太子の「和」という考えとしています。

参考
『仏教・神道・儒教集中講座』(徳間文庫)

投稿: おおくぼ | 20101 4 () 1209

「維摩居士と親鸞と聖徳太子について」の、前に私のコメントは、私の議論の立て方は悪かったので、忘れて下さい。

整理したので、書き直します。

まず、親鸞の女犯戒についてです。

小室さんは、第四章で維摩居士についてこう説明しています。

>悪魔が維摩居士を誘惑しようと企み、絶世の美女を、いわゆる魔女なのだが、送り込んだところ、維摩居士は全部妾にしてしまったなどと書いてある。
>悟りをひらいた以上はそんなことは平気の平左であり、むしろ、そういう行動などに左右されるようでは悟りとは呼べないのである。
>この人の行いは「空」そのものである。

維摩居士は、親鸞とは違い、出家僧でもなければ、僧侶でもありません。
だから、女犯戒を守る必要はありません。

でも親鸞は、小室説だと聖徳太子の夢告によって、女犯戒を破ることを許されます。

そこで、聖徳太子を維摩居士と同格と考えることはできないか?
あるいは、親鸞は同格と考えたのではないか、します。
小室さんは聖徳太子は悟りを開いていないとしていますが、親鸞は聖徳太子が悟りを開いた人だと考えていたと思うのです。

投稿: おおくぼ | 20101 4 () 1520

必要条件と十分条件について、再訂正します。

まず、私が勘違いしていたのが、第一の原因ですが、やはり小室さんの記述は変だと思います。

必要条件と十分条件は、包含関係にある場合に成立します。

だから・・・・

修行が悟るための必要条件であっても、修行が悟るための十分条件ではないというのが正しい使い方です。

だから悟るためには修行をしなければいけない。
でも修行したからと言って、悟るとは限らないと言うことです。

それから、私がリンクしたサイトの説明も悪かったです。

サイトではリンゴと果物で説明しています。

リンゴはあるためには果物でなければなりません。
でも果物であるためにはリンゴである必要はありません。

小室さんの「独覚と修行と悟り」の例は、包含の関係になっていないのです。

投稿: おおくぼ | 20101 4 () 1633

>おおくぼさん


必要条件と十分条件は、包含関係にある場合に成立します。

だから「修行」と「悟り」だと包含関係にならないからおかしくなります。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」
にしたのはそのためです。

それとこちらが次にコメントする間に5つも6つもコメントされるのは困ります。

投稿: 古賀 | 20101 4 () 2012

>おおくぼさん

小室先生は独覚というのは、「何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく」と書いていますが、これは厳密には正しくありません。

長い間修行して悟りをひらいてもそれが釈迦の教えに従って修行を完成したのでなければ(例えば自分独自の修行なら)独覚です。だから「何の修行もしない」「あっという間に煩悩を払う」というのは違います。

投稿: 古賀 | 20101 5 () 2217

わかりました、コメントは一つづつにします。

まず、必要条件と十分条件についてコメントします。

議論を整理するために、小室直樹さんの文章をもう一度引用します。

>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
200〜201ページ

ここで、「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」という記述に注目します。

釈迦が本当にそんな教えを垂れているかどうかは、この場合は問いません。

1 釈迦が決めた修行をする→悟りがひらける

2 釈迦が決めた修行をしていない→でも、悟りがひらけた

この場合は、「悟った人という全体集合の中に」、「釈迦の決めた修行をしたので悟った人」と、「釈迦の決めた修行をしてないのに悟った人」がいることになります。

1の人にとって、釈迦の決めた修行をすることは、悟るための十分条件なのです。

2の人にとって、釈迦の決めた修行は、悟るための十分条件でもなく、必要条件ですらないのです。

次に小室さんは書いていませんが、別の人を考えましょう。

修行をしたのに、悟れなかった人です。
これを3の人とします。

論理的に考えられるのは、3の人がした修行が、「釈迦の決めた修行」ではなかったということです。

そして3を、悟るためには、修行が必要条件だけど、釈迦の決めた修行が十分条件になると・・・言うことができます。

3の人が悟れなかった理由は、他にも考えれますが、こういう解釈もできるということです。

以上で、小室さんの「必要条件」と「十分条件」という使い方が、おかしいことがわかると思います。
ただ、この小室さんのミスはただのケアレスミスで、超論理という解釈は私の勘違いです。

投稿: おおくぼ | 20101 5 () 2246

おおくぼさん


修行をしたのに、悟れなかった人です。
これを3の人とします。

十分条件と必要条件の例として書いているので、この場合は考えないんですよ。
だからわざわざ「釈迦が、こういう修行をすれば確実に教えがひらけるという教えを垂れている」という書き方をしているわけです。

書いてあることを無視してそういう風な仮定をして

以上で、小室さんの「必要条件」と「十分条件」という使い方が、おかしいことがわかると思います。

などと言うことを言われても困ります。

追記

「「釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」と書いているが、実際には釈迦の教えのとおりに修行しても悟りがひらけない人もいるはずだから変だ」というのならまだわかります。

必要条件と十分条件の使い方が間違っていることにしようとして論を展開するのでおかしくなるんですよ。

追記その2

p=「釈迦の教えに従って修行した人」
q=「悟りをひらいた人」

だと釈迦の教えに従って修行してまだ悟りをひらいていない人もいるはずだから必要条件も十分条件も成立しないのではという話だと思いますが、小室先生は「釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」と書いているので

p=「釈迦の教えに従って修行した人」ではなく
p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」

と考えるのが正しいわけです。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

だと何度も書いているように
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件
で十分条件も必要条件も成立します。

投稿: 古賀 | 20101 6 () 0711

>だと何度も書いているように
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件
で十分条件も必要条件も成立します。

小室さんが、そんな主張をしているとは思えないのですが・・・・。
古賀さんの小室解釈は、数学の定義に合わせて、強引な解釈をしたとしか思えません。

ここで、小室さんの主張を確認するために、前に引用した小室さんの記述を、わざと真ん中の文だけ削除して、再引用します。


>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
          略

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。


小室さんの一番言いたいことは・・

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

・・・です。
だから、次に小室説の「維摩居士の話」が出てくるのです。


また、議論が平行線になっているので、整理します。

まず・・・

p q であるための 十分条件
q p であるための 必要条件

・・・の公式は忘れて、日常的な意味で考えて下さい。

次に古賀さんのコメントを引用します。

>私から見ればおおくぼさんは、「小室先生は勉強が不要と説く教育機関が本来の教育機関から見て間違っていると言っている。
>でも小室先生は勉強がいらない天才の話をしているけれどその天才のことを間違っているとは言わない。それは変だ」と主張しているように見えます。


古賀さんのこのコメントは、私から見れば正しく小室さんの記述を理解しているように思えます(ただ小室さんは、仏教限定にしているのが、事実として問題です)。

ここで、「天才」と「東大受験合格」で考えてみます。

1 「天才ではない人」が、東大受験に合格するには、受験勉強が必要である。

2 天才は、受験勉強をしなくても、東大受験に合格する。

「天才ではない人」にとっては、受験勉強は必要条件だけど、十分条件ではありません。

天才にとっては、受験勉強は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。

次に、受験界に釈迦のような教師Aがいたとします。
A
の教える受験勉強をすれば、必ず「天才でない人」でも東大受験に合格すると仮定します。

「天才ではない人」にとって、「Aの受験勉強」をすることは、東大受験に合格するための十分条件であり、必要条件でもあります。

でも天才にとって「Aの受験勉強」は、東大受験合格するための必要条件でもなければ、十分条件でもありません。

数学用語に引っ張られて、強引な読解をするよりも、小室さんの記述ミスだと考えて、日常語に置き換えて、読めばいいだけのことなのです。

投稿: おおくぼ | 20101 6 () 0944

上のコメントの補足

小室さんの記述

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には「十分条件であって、必要条件ではない」。

これを、以下に変えれば、明快だと思います。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には「誰にでも当てはまるわけではない」。

この記述の方が、小室さんの主張・・・

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

・・・と整合するからです。

投稿: おおくぼ | 20101 6 () 0957

>おおくぼさん

(1)
まず小室先生の本文
「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れてはいるが、それは正確には(悟りをひらくための)十分条件であって、必要条件ではない。」
(悟りをひらくための)を追完しないと、文章が意味がとおらなくなるので追完しました。

(2)
それを命題の形になおしたもの。今度はなるべく本文の原型を残して作ってみました。
p=「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
q=「悟りをひらいた人」

・「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
の必要条件

(2)の十分条件と必要条件が間違っていない以上は、(1)を(2)の命題形式になおすところに何かおかしなところがあるはずですが、私にはおかしいとは思えません。指摘するならそこをきちんと指摘してください。


小室さんが、そんな主張をしているとは思えないのですが・・・・。
古賀さんの小室解釈は、数学の定義に合わせて、強引な解釈をしたとしか思えません。

小室先生は『超常識の方法』でも、ちゃんと必要条件と十分条件の違いを集合を使ってわかり易く説明をされています。私にはおおくぼさんが文章から適切な文を抜き出して命題にすればきちんと必要条件と十分条件になるにもかかわらず、わざとそうならないようにして「変だ」と言っているとしか思えません。

投稿: 古賀 | 20101 6 () 2301

私は、古賀さんの主張を理解したつもりだったのですが、どうもそうでないことが判明しました。
今も理解できていません。

元の小室直樹さんの文章は・・・
>それは正確には「十分条件であって、必要条件ではない
・・・の一文を訂正すれば理解できました。

まず、数学で考えるよりも、日常的な意味で理解できる文章である方が重要です。

まず、修行と悟りの関係ですが、ここには時間のズレがあることが大事なポイントなのです。
修行することによって、悟るということは、修行した時間の経過があるということが、暗に秘められているわけです。

だから、「p q であるための十分条件、q p であるための必要条件」と書くと、時間の経過が無視されてしまうので、注意が必要です。
例えば、「リンゴと果物」や「人間と動物」なら、時間の経過を無視してもいいです。

古賀さんも、そこに気づいて、時間の経過を無視していい「必要条件と十分条件」を構築したのだと思います。
でも、それは日常的な意味で、おかしいというか、小室直樹さんの文章に対する誤読だと思います。


「古賀さんの理解する小室説」と「私の理解する小室説」を、ベン図で書いてみて比較して見てください。

投稿: おおくぼ | 20101 7 () 0023

補足

>(2)の十分条件と必要条件が間違っていない以上は、(1)を(2)の命題形式になおすところに何かおかしなところがあるはずですが、私にはおかしいとは思えません。指摘するならそこをきちんと指摘してください。

私には古賀さんの提示した命題が理解できないのです。
けれど不毛な気もしますが、どうも、それ以外に議論の打開にならないようなので、挑戦してみます。

まず、古賀さんはpqに該当する人を過去形で扱っています。
小室さんの文章では過去形では書いていません。
でも、この点を、古賀さんの誤読だといいたいわけではありません。
理解するためには、その程度の深読みは必須の場合が多いですので。

まず、私は古賀さんの提示した命題・・・


「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
の必要条件

・・・が、日本語として理解できません。
だから、分解して、別の文章に作り替えます。
古賀さんの解釈した「小室説」は・・・

「悟りをひらいた人」には2種類の人間がいる。

no.1 (こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人

no.2 釈迦が垂れた教えに従ってないのに、悟りをひらけた人

だから、「悟りをひらいた人」という全体集合の中に、no.1という部分集合とno.2という部分集合が独立してあるということです。

もし私の解釈が理解できなければ、ベン図に書いて見てください。

でも、「悟りをひらいた人」から見て、「no.1」や「no.2」は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。
逆からの視点でも同じです。

必要条件や十分条件という条件が発生するのは、「no.1」や「no.2」にとって、「悟るための条件」との関係においてです。

もしこのコメントで同意が得られないならば、必要条件と十分条件の議論は止めて、別の議論に移りましょう。

投稿: おおくぼ | 20101 7 () 0227

>おおくぼさん


まず、古賀さんはpqに該当する人を過去形で扱っています。
小室さんの文章では過去形では書いていません。

そこを統一しなければきちんとした命題になりません。小室先生が命題形式で書いていない以上、
読む側でその点に補正を加えるのは当然だと思います。


でも、「悟りをひらいた人」から見て、「no.1」や「no.2」は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。
逆からの視点でも同じです。

もう1度わかりやすくなおしてみましょう。

・Aが「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」であることは「Aが悟りをひらいた人」であるための十分条件
・「Aが悟りをひらいた人」であることは「Aが(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
であるための必要条件

「リンゴ」と「果物」の関係と同じです。

失礼ながらこの点について混乱が生じているのはおおくぼさんであって、私や小室先生ではありません。

投稿: 古賀 | 20101 7 () 0633

「修行」と「悟り」の関係が、「リンゴ」と「果物」の関係と同じではないのです。

なぜなら、「修行」するには、時間がかかるからです。

修行する→悟れる
でも逆の・・
悟れる→修行する
・・・にはならないのです。

だから古賀さんは強引に

「釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」と「悟りをひらいた人」

のような「・・・の人」という二つの関係にしたと思います。

でも命題うんぬん前に、日本語として小室さんの主張を考えましょう。

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

小室さんは、仏教における「悟りをひらくための条件」について語っていると読むのが普通ですし、古賀さんのような解釈では意味不明になります。

古賀さんの解釈は・・・

p q であるための 十分条件
q p であるための 必要条件

pqに、強引に日本語を入れているだけで、日常的な意味では理解不能です。
「・・の人」に変更して、時間の経過を無視できる関係にしたにもかかわらず、意味不明な文章になっているのです。
コンピュータなら理解できるかもしれませんが、普通の日本語としては理解できません。

投稿: おおくぼ | 20101 7 () 1016

>おおくぼさん


「修行」と「悟り」の関係が、「リンゴ」と「果物」の関係と同じではないのです。

相違点がわかってきました。

おおくぼさんの理解「釈迦が修行すれば悟りをひらけると言っているが、現実には修行をしなくても悟りをひらく人もいる」

私の理解「釈迦が自分の教えに従って修行すれば悟りをひらけるといっているが、現実には釈迦の教えにしたがって修行をしなくても悟りをひらく人がいる」

上記の比較が正しいかどうか確認したいので、その点についてまずコメントをお願いします。

投稿: 古賀 | 20101 7 () 1927

>おおくぼさん


「・・の人」に変更して、時間の経過を無視できる関係にしたにもかかわらず、意味不明な文章になっているのです。
コンピュータなら理解できるかもしれませんが、普通の日本語としては理解できません。

最初、私が出したのは
p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」
です。

おおくぼさんが「小室先生の本文と違う」と言ってくることを考慮して、なるべく本文の形を残して
p=「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
q=「悟りをひらいた人」
に1度直しました。当然日本語としては理解しにくくはなってます。

いくらでもわかりやすい日本語にはなおせるので、そこは全く本質的な批判にはなりえないと思います。

投稿: 古賀 | 20101 7 () 1938

古賀さんへ

正月明けから、本屋に行って、数学の教科書を読みました。
そのおかけで、問題点がすこしばかり見えてきました。

私の主張をする前に古賀さんの質問にお答えします。

古賀さんのコメント↓

>相違点がわかってきました。

おおくぼさんの理解「釈迦が修行すれば悟りをひらけると言っているが、現実には修行をしなくても悟りをひらく人もいる」

私の理解「釈迦が自分の教えに従って修行すれば悟りをひらけるといっているが、現実には釈迦の教えにしたがって修行をしなくても悟りをひらく人がいる」

上記の比較が正しいかどうか確認したいので、その点についてまずコメントをお願いします。

古賀さんは、私の主張を誤解しています。
だから、再度説明します。

前の私のコメント(一部変更) ↓


ここで、「天才」と「東大受験合格」で考えてみます。

1 「天才ではない人」が、東大受験に合格するには、受験勉強が必要である。

2 天才は、受験勉強をしなくても、東大受験に合格する。

「天才ではない人」にとっては、受験勉強は必要条件です。

天才にとっては、受験勉強は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。

次に、受験界に釈迦のような教師Aがいたとします。
A
の教える受験勉強をすれば、必ず「天才でない人」でも東大受験に合格すると仮定します。

「天才ではない人」にとって、「Aの受験勉強」をすることは、東大受験に合格するための十分条件です。

でも天才にとって「Aの受験勉強」は、東大受験合格するための必要条件でもなければ、十分条件でもありません。


解説

天才=独覚 
東大受験合格=悟ること
A
の教える受験勉強=釈迦の教えに従った修行
と考えて下さい。

別の表現に直すと・・・

1 釈迦の教えに従って修行すれば悟れる。

2 釈迦の教えに従って修行してないにもかかわらず、悟った人がいる(もちろん悟れなかった人もいる)。

大事なのは、2種類のタイプの人間がいることです。

そして修行したのに、悟れなかった人がいた場合の理由として・・・
「釈迦の教えと違う修行だったから」となるのです。

現実がどうか、ということは、この小室さんの記述に関しての私の解釈では関係ないのです。
あくまで論理上の関係です。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2021

教科書を読んで、復習しましたので、数学的な議論をします。

p→q

古賀さんは、pとqに・・・

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

を代入しました。

だから・・

「釈迦の教えに従って修行を完成した人」→「悟りをひらいた人」

・・・になるわけです。

ここで、小室さんの文章を再引用します。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。

独覚とは・・・

pの否定形 → q

・・・という式で表すことができます。

ここで、必要条件と十分条件の定理を思い出しましょう。


p q が真」であるとき,
p
q であるための 十分条件
q
p であるための 必要条件

p q が真」であるときなのです。
だから独覚の場合の必要条件と十分条件は別なのです。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2036

>おおくぼさん


別の表現に直すと・・・

1 釈迦の教えに従って修行すれば悟れる。

2 釈迦の教えに従って修行してないにもかかわらず、悟った人がいる(もちろん悟れなかった人もいる)。

大事なのは、2種類のタイプの人間がいることです。

それはわかっています。それならそこでは見解の違いは生じていません。


ここで、小室さんの文章を再引用します。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。

独覚のような人間がいるから
「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」であるための十分条件になるのです。

悟りをひらくのに必ず釈迦の教えに従って修行することが必要なら
「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」であるための必要十分条件になります。

だから私は「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れてはいるが、それは正確には十分条件であって、必要十分条件ではない」と書く方がより正しいのではないかと思っています。

投稿: 古賀 | 20101 8 () 2218

>おおくぼさん

>維摩居士は釈迦の教えどおり修行すれば悟りをひらけるのは十分条件であって必要条件ではないという例として出ているだけです。

小室さんの「十分条件」と「必要条件」の使い方は、独自だと思いますが、理解できません。
数学の教科書の定義と違っています。
説明もありませんし。

現在の議論の出発点はここからだったと思うのでもう1度あげておきます。

投稿: 古賀 | 20101 8 () 2234

1 釈迦の教えに従って修行して悟った人。

2 独覚

1の場合の必要条件と十分条件と、

2の場合の必要条件と十分条件は違うのです。

なぜなら、1の場合は、p→qで、2の場合は「pの否定形」→qだからです。

だから、小室さんは必要条件や十分条件という用語を使わなければいいだけの話なのです。

小室さんの文章 ↓

>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。


真ん中の「それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。」を削除して、後の文をドッキングすればいいのです。

変更後の文章 ↓

仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいる。


変更後の文章は、普通の日本語として理解できるし、主張も変わっていません。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2244

追記

私のコメント ↓

>小室さんの「十分条件」と「必要条件」の使い方は、独自だと思いますが、理解できません。
数学の教科書の定義と違っています。
説明もありませんし。

独自だと思ったのは、私の勘違いです。
でも、小室さんは教科書の定義で使っていますが、使い方が間違っているのは事実です。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2248

>おおくぼさん


だから、小室さんは必要条件や十分条件という用語を使わなければいいだけの話なのです。

小室先生は必要条件や十分条件を使うのが好きなんですよ(笑)。

ただ「使わない方がわかりやすいし意味が良くとおる」というのと「必要条件や十分条件の使い方が間違っている」ではまるで違います。


でも、小室さんは教科書の定義で使っていますが、使い方が間違っているのは事実です。

おおくぼさんはちゃんと十分条件が成立しているにもかかわらず、強引に成立しないと言い張っているにすぎません。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

pであることはqであることの十分条件。

で正しいのであれば、小室先生の十分条件の使い方は間違っていないと思います。

独覚はあくまで悟りをひらいたが釈迦の教えに従って修行をしたのではない人の例として出されているのです。おおくぼさんはそこにひっかかりすぎです。

投稿: 古賀 | 20101 8 () 2309


p
qは真であり、

pの否定形」→qも真なのです。

だから、qという集合の中に、pと「pの否定形」がそれぞれ独立してあるのです。

そうすると、必要条件も十分条件も、それぞれ別のものになります。

投稿: おおくぼ | 20101 8 () 2348

>おおくぼさん

いくらそんなことをくり返しても
あなたのおっしゃることは

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

pであることはqであることの十分条件。

の否定になっていないんですよ。きちんと理解してください。

「数学的におかしい」と言いつつ、あなたの批判はちっとも数学的じゃありません。

投稿: 古賀 | 20101 9 () 0617

>おおくぼさん

もう1度いいますが


p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

pであることはqであることの十分条件。

が数式として正しいのであれば、小室先生の主張を命題になおす段階で間違っているのです。
つまり私が小室先生の言っていないことを勝手に命題になおしているということです。
それならばそう主張してください。

数式として間違っているのであれば、それを論理的にきちんと指摘してください。


だから、qという集合の中に、pと「pの否定形」がそれぞれ独立してあるのです。

そうすると、必要条件も十分条件も、それぞれ別のものになります。

qという集合の中に、pと「pの否定形」があるのだから、
pであることはqであることの十分条件であると同時に、「pの否定形」であることもqであることの十分条件です。

「釈迦の教えに従わなくて悟りをひらいた人」であることは「悟りをひらいた人」であることの十分条件
も成立します。
 

投稿: 古賀 | 20101 9 () 0626

>おおくぼさん

これ以降は『『日本人のための宗教原論』他議論用2』の方にコメントお願いします。

投稿: 古賀 | 20101 9 () 0750



(古賀)

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2010年1月 6日 (水)

笛育市民大学講座(嘘知識) 書籍『お釈迦ボックス』5

西尾維新作睦月あきら画 中央公論社コミックス

第三十三箱 「だから殺す」

【あらすじ】

一介の在家信者でありながら出家者も及ばぬ程の「空」の真理を体現している維摩居士(ヴィマラキールティ)が、衆生教化のため仮病で床に臥していた。世尊は弟子たちに維摩居士の病気見舞いに行くよう命じるが、高弟たちは全て維摩に手ひどくやりこめられた苦い経験のある者ばかりで、維摩居士に会うのを嫌がってことごとく辞退する。ついに文殊菩薩が世尊の代理として維摩居士のところに見舞いに行くことを引き受ける。

アーナンダ「なっ…なななっ、なんだこいつぅう!?おれが病気の世尊のために鉢を持って大きな屋敷の門のところに行ったら、『アーナンダくん、如来の体は金剛のように強固で病気になんかかかるわけがない。そんな恥ずかしいことを誰かに聞かれでもしたら大変だ。さあ、早くここを立ち去りたまえ』なんて言いやがった!」
文殊菩薩「別に驚くことはないよ。当然のことさ。彼は仏弟子を論破するテクに異常(アブノーマル)なほど長けた大居士なのだから。――最初の悟りは驚くなかれ五歳の時。動機は『独りで悟りがひらけるかどうか試してみたかった』から。以来彼はあらゆる所で数えきれぬほどの仏弟子をやりこめてきた。生まれついてのプラティエーガブッダ。それが彼、『理由なき仏弟子キラー』の維摩居士なのさ」
維摩居士「…人を無差別仏弟子殺人犯みたいに言わないでよ。傷つくな…僕は理由なき仏弟子キラーじゃない。僕は理由ありきの仏弟子キラーだ。木の下で座禅をしている舎利弗を見た。だから殺す。四辻で説法している目連を見た。だから殺す。貧民に食を乞いに行く大迦葉を見た。だから殺す。ぼくんちに食を乞いに来た須菩提を見た。だから殺す。新参の比丘たちに説法をしている富楼那を見た。だから殺す。阿那律の天眼がどのぐらい遠くまで見えるのか確認した。だから殺す。羅睺羅が出家の功徳と利益について話をしているのを聞いた。だから殺す。弥勒菩薩が兜率天にいた。だから殺す。一切妙香世界から取り寄せたお昼ごはんがおいしかった。だから殺す。特に何もない。だから殺す。全ての道がローマに通じるよう、僕にとっては全ての現象が『空』の教理を説くのに通じるだけなんだよ」
アーナンダ「…異常にクレージーだ、こいつ。会話が成立することが逆に恐ろしい…」
世尊「………下がっておれ、貴様達。こやつの見舞いは文殊が行く。文殊以外ではこやつの相手はつとまるまい」
維摩居士「大勢の菩薩や声聞や神々や天女に取り囲まれて文殊菩薩がやって来るのが見える。世尊がわざわざ自分の代理としてよこして来るなんて文殊くんはきっと頭のいい子なんだね。とても仲良くなれそうな気がするよ……だから殺す!」
(参考:世界の名著2『大乗仏典』『維摩経』P97~P127 週刊少年ジャンプ05・06)

【関連情報】

『釈迦』(Wikipedia


『阿難』(Wikipedia

『維摩居士』(Wikipedia

『十大弟子』(Wikipedia

『文殊菩薩』(Wikipedia

『めだかボックス』Wikipedia


(古賀)

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2010年1月 2日 (土)

笛育市民大学講座(嘘知識) テレビ番組『ムー民』

「学研まんが劇場」(のちの世界名作劇場)で放映されたテレビアニメ。

前世はムー大陸の住人だったが、現在はムーミン谷に住む妖精に転生した仲間を雑誌の文通欄で呼び集めている不思議な一族が、毎月地球が彗星の衝突や惑星直列や異星人の侵略やハルマゲドンやピラミッドパワーであわや滅亡しかけるのを、雑誌の実用特別企画で身につけたヨーガの秘法や黒魔術や気功法やダウジングロッドやルーン文字で食い止める破天荒なほのぼのファンタジー。

【関連情報】

『ムー(雑誌)』(Wikipedia


『ムーミン(アニメ)』(Wikipedia

『ムーミン』(Wikipedia

不思議に挑んで30年 雑誌「ムー」長寿の謎に迫る



(古賀)

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