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2009年12月29日 (火)

『日本人のための宗教原論』他議論用

『日本人のための宗教原論』他小室直樹先生の著作関連での議論はこちらにお願いします。

今までに議論した内容は↓のとおり。(笛育市民大学講座(嘘知識) 日本史『白蓮密教』コメント欄より)

二十歳頃(?)の唐沢さんが強い影響を受けたはずの小室直樹先生の主張は過激ですね。
井沢元彦さんの対談集を読んでいたら、小室先生との対談があって、凄い人だなあ〜と思いました、ほとんど日本の仏教全否定なんで・・。

でも唐沢さんは、小室先生よりも栗本慎一郎先生あるいは竹内久美子先生の弟子という気がします。
なんでも脳内麻薬と遺伝子で説明しようとするし・・・。

日蓮と空海で連想したのは、荻野真の漫画です。
『孔雀王』は真言宗ですが、『夜叉鴉』では、宮澤賢治、石原莞爾、北一輝などの日蓮宗の信者が出て来ました。

投稿: おおくぼ | 20091213 () 0109

>おおくぼさん

>ほとんど日本の仏教全否定なんで・・。

小室先生の日本仏教否定というと、「戒」(規範)を守るのが仏教の根本だけど、日本仏教は最澄が規範を全廃してしまったという話ですかね。

投稿: 古賀 | 20091213 () 0935

そうです。
比叡山は、日本仏教界の有名人が多く出ていますが、その元凶(?)が最澄の教えなのだそうです。

井沢元彦さん主張は、小室先生とは少し違うのですが、道元や親鸞の思想や行動は過激すぎて、絶滅寸前になったけど、その弟子達が大きな方向転換したため大発展した・・・と書いています。

唐沢さんの小室先生批評に対するツッコミは、『唐沢俊一検証blog』にありますが、ここでも唐沢さんはブーメランの達人ぶりを披露していますね。

投稿: おおくぼ | 20091213 () 1216

小室先生の本を読んで思うのは、「唐沢さんは本当に小室先生の影響を受けたのか?」なんです。

勝手な推測だと、パラパラと読んで、「ネタに使えそうだ」ぐらいの感覚で買って、家に積んだままになっていたのでは・・・。

唐沢さんの現代思想知識って、そんな感じだし・・・。

投稿: おおくぼ | 20091213 () 1235

>おおくぼさん

>小室先生の本を読んで思うのは、「唐沢
>さんは本当に小室先生の影響を受けたの
>か?」なんです。

平和主義批判とかは小室先生の影響だと思いますが、理解が不十分なところが多いんじゃないかと。

投稿: 古賀 | 20091213 () 1420

岡田斗司夫さんの対談集『マジメな話』には小室直樹先生との対談があって、仏教ネタも混じっています。
こちらは唐沢さんが読んだ形跡があるんですが・・・。
小室先生の説は、宮台さんより簡単で過激だと思うのです。
唐沢さんにとっては宮台さんの説よりネタにしやすいと思うのです。
だから唐沢さんから見た場合、宮台=偉そうな知識人→嫌い(東浩紀さんと同じパターン)になるけど、小室先生 → とりあえず尊敬となるのでは・・。
でも唐沢さんはマジメに小室先生の本を読んでないし、基本は自分が一番アタマがいいというスタンスなのでは・・・。

投稿: おおくぼ | 20091218 () 2211

>おおくぼさん

>小室先生の説は、宮台さんより簡単で
>過激だと思うのです。

小室先生があっさり言ってることを、宮台さんは自分なりに根拠をきっちり固めてから慎重に言っているようなところがありますね。平和主義批判とか。

唐沢さんは小室先生のあの過激なものいいがスタイルとして魅力的なので真似しているだけだと思います。

投稿: 古賀 | 20091219 () 0938

唐沢さんの、あの過激なものいいは、小室直樹が師匠だったんですね。

小室先生は読書家だと思うのですが、根拠がよくわかりません。
最澄が規範を全廃したとしたら、延暦寺の有名な厳しい修行は誰が作ったんでしょう?

あと唐沢さんが小室先生の受け売りだと言って使うアノミーという言葉。
無規範という意味らしいのですが・・・。
唐沢さんは、どの時代の何処と比べて、どの程度規範が緩んだのか曖昧なので、気分で言っているとしか思えません。
とにかく現在は規範が緩んだ時代だと言いたいだけだと思うのです。
そうすると、唐沢さんは小室教祖の教えに洗脳されているのかもしれません。
『クロサギ』じゃないですが、詐欺師は詐欺師に騙されやすいですから。

唐沢さんの日記では、サミュエルソンの訃報の連想で、小室先生の名前が出て来たので、驚きました。
唐沢さんが経済学に詳しいとは思えないんですが・・。
でも小室先生は経済学の本をたくさん出しているから、昔乱読したのかもしれませんね。

投稿: おおくぼ | 20091219 () 1313

>おおくぼさん

アノミーは社会学者のデュルケームが使い出した言葉で、小室先生はこれをソビエト連邦にあてはめてその崩壊を予言したことになってますね。

>最澄が規範を全廃したとしたら、延暦寺の
>有名な厳しい修行は誰が作ったんでしょう?

たとえばキリスト教においてはキリストが「人は信仰のみによって救われる」として規範を全廃したことになっていますが、修道院には修行のための厳しい戒律があります。それとまあ似たようなものかと。

唐沢さんは『国際おたく大学』での伊藤さんを批判した文章では、「社会学なんて学問はこの複雑な要因が多数にからまっている現実を、ひとつかふたつの耳ざわりのいいキーワードで斬ろうとしているのであり、実用に耐えるものではない」なんて言っちゃってますけどね。自分ではそのひとつやふたつの耳ざわりのいいキーワードでさえ正確には使えないという。

投稿: 古賀 | 20091219 () 2248

>小室先生の説は、宮台さんより簡単で
>過激だと思うのです。

宮台さんも「自分は右翼で全体主義者だ」と言ってますから。十分過激ではないかと。

http://www.youtube.com/watch?v=CFWZl1K-N-g

この1分目あたりで。

投稿: 古賀 | 20091220 () 1308

たしかに過激ですね。
でも宮台さんは自覚しているだけで、人類はみんなそうなんだ・・・。
スタリーン万歳!
あるいはエヴァンゲリオン?

でも宮台さんのゼミを聴いている学生は私語がなくマジメですね〜。

>「修道院には修行のための厳しい戒律があります。それとまあ似たようなものかと。」

キリストは修道院を作っていないと思うんですが・・・。
それに対して、最澄は延暦寺を作っています。
だから井沢元彦さんの説の、最澄の弟子である道元と親鸞(法然も?)に原因があるのでは?

>「唐沢さんは『国際おたく大学』での・・・」

唐沢さんはブーメラン自分攻撃、健忘症、その時の気分で発言が得意ですね。

そして宮台さんを批判するより、唐沢さんを批判する方が簡単です。
その理由は、唐沢さんは個別のこと(事件とか雑学)に思いつきで話しているので、出来の悪い落語みたいになると思うのです。
唐沢さんは、落語家としては三流なのに、一流に見せかけようと、「インテリ」という慣れない下駄を履いて、転んでばかりだと思うのです。
その転ぶ姿が魅力なのかもしれませんが・・・。
まあ〜、唐沢さんの魅力は、いい加減で、努力嫌いなのに、インテリぶって、負けず嫌いなとこだと思います。
唐沢さんが冬コミに参加されないのは残念ですが、来年は、山本会長に動きがあることを期待したいです。

投稿: おおくぼ | 20091220 () 2033

「2ちゃん」だと、宮台さんと唐沢さんの人気を比べると、唐沢さんの圧勝ですね。

投稿: おおくぼ | 20091220 () 2126

>おおくぼさん

>キリストは修道院を作っていないと思うん
>ですが・・・。
>それに対して、最澄は延暦寺を作っています。

救済(覚り)に必要な外的規範である戒律と僧侶集団の秩序を保つルールとが異なるものではないかということです。前者が無くて後者が厳格ということはありうるでしょう。

>その理由は、唐沢さんは個別のこと(事件
>とか雑学)に思いつきで話しているので、
>出来の悪い落語みたいになると思うのです。

落語に『やかん』という知ったかぶりの人物が出てくる噺がありますが、あんな感じですね。

投稿: 古賀 | 20091220 () 2137

なるほど、『やかん』を実践しているんですね。

ところで、唐沢さんの学歴詐称疑惑が再燃していますが、『社会派くんがゆく! 逆襲編』では、古賀議員の学歴詐称疑惑をネタにしてました。

引用

唐沢「 「弁護士から卒業証書をもらった」ってのもよくわからんし、その弁護士の名前を覚えていないし、受け取った証書もどこにやったか覚えていないんだって。小学生か、オマエは(笑)。

唐沢「逆に考えると、辞めさせておかなかったら、もっといろんなウソが出て、それがこんがらがって本人にもよくわからなくなる状況が楽しめたのかもしれないな。惜しいわ(笑)。

唐沢「しかし、田中真紀子にしろ誰にしろ、政治家ってのは一度失脚したら、なんでああもみんな復帰したがるのかね。往生際が悪いってえか、よほど旨みがあるのか。一度ヤメたんなら、あとはおとなしく隠居してろっての。」

投稿: おおくぼ | 20091220 () 2244

>おおくぼさん

いやあ、見事なブーメラン発言ばかりですね。

投稿: 古賀 | 20091221 () 0651

>「救済(覚り)に必要な外的規範である戒律と僧侶集団の秩序を保つルールとが異なるものではないかということです。前者が無くて後者が厳格ということはありうるでしょう。」

でも小室先生の主張は、海外の仏教と比べて、日本の仏教はアノミーで、その原因が最澄の運営する延暦寺にあるということなので・・・。
学生運動時代の大学みたいな感じ?

小室先生の本は断言が多くて、読んでいて気持ちいいのですが(唐沢さんが洗脳された理由も同じだと思います)、でも、そんなに単純じゃないだろう・・・と思うのです。

だから井沢元彦さんの説のように、最澄の教え(救済(覚り)に必要な外的規範である戒律)を徹底化した親鸞や道元が、「僧侶集団の秩序を保つルール」を撤廃し、アノミーになったけど、過激すぎて、その弟子達が、「僧侶集団の秩序を保つルール」を別の形(和風?)で復活させたという方が歴史的事実と整合性があると思うのですが・・・。

投稿: おおくぼ | 20091221 () 1236

小室先生は、日本の仏教がアノミーになった原因は最澄にあるとしていて、それはそれでいいと思うのですが・・・。
やはり、最澄が悪の(?)種だとして、発芽するまでに何代かの弟子を経る必要があると思うのです。

小室先生の本は、唐沢さんと違って、事実に対する間違いは少ないと思うのですが・・・。

1 拡大解釈しすぎる。
2 独断的な決め付けが強い。
3 自説の矛盾を無視する。
4 自説に都合の悪い事実を無視する。

ただ唐沢さんと違って、自説が一貫しているというか、昔から変わりません。
唐沢さんと違って、健忘症や「気分で発言」、根拠がなくても反論して目立とう精神は皆無です。

投稿: おおくぼ | 20091221 () 1827

>おおくぼさん

戒律というのは「仏になるためには守らなければならない法律」と考えてください。
これは本来はお釈迦様が法源ということになるので、原則的には勝手に減らしたり勝手に廃止したりしちゃ駄目なんですよ。もし戒律と無関係にルールを定めても、それは法律と無関係に定めた村の掟や学校の規則みたいなものです。
延暦寺の修行が厳しいといっても、それはいわば校則が厳しいだけみたいなものではないかということです。

ただ私の考えでは大乗仏教では小乗(上座部)仏教よりも戒律の重要性が薄れる要因があるような気がします。必ずしも日本だけの特殊性というわけではなく。

>1 拡大解釈しすぎる。
>2 独断的な決め付けが強い。
>3 自説の矛盾を無視する。
>4 自説に都合の悪い事実を無視する。

1,2は私もそう感じているところはありますが、3,4てどんなのがありましたっけ。

投稿: 古賀 | 20091221 () 2116

>「1,2は私もそう感じているところはありますが、3,4てどんなのがありましたっけ。」

この場合だと、親鸞と道元が過激すぎて、浄土真宗と曹洞宗の人気が没落して、その弟子達がヤバいと思って、方向修正して、復興したという事実です。

井沢説と小室説の違いに注目すれば、小室説は複雑な歴史を単純化していることがわかります。
小室説は、丸山眞男理論を例に、日本人は戒律嫌いということを主張します。
そして、仏教は最澄が、戒律を全廃!!し、弟子がその流れを拡大して、現在に至るとなります。
わかりやすい説です。
しかも延暦寺は、小室説では日本仏教界の総本山の中の総本山だそうです。
だから、影響力が絶大だそうです。
本当に延暦寺は、総本山の中の総本山だったのでしょうか?
これは歴史を後ろから見ることで起こる、誤解ではないでしょうか?

>「これは本来はお釈迦様が法源ということになるので、原則的には勝手に減らしたり勝手に廃止したりしちゃ駄目なんですよ。」

井沢元彦さんの説だと、仏教は経典が複数あって、宗派ごとに選べます。
そうすると、宗派ごとに法源が違うということになると思うのです。

投稿: おおくぼ | 20091221 () 2303

『社会派くんがゆく』の最新の単行本が出ました。まだ未読です。
でも前回の本を読んで思ったのは、唐沢さんの発言で、肯定的に出てくるインテリは、落語家を除くと小室直樹さんぐらいしかいないということです。

投稿: おおくぼ | 20091221 () 2307

参考までに小室先生の発言を引用します。

小室 日本の仏教の特徴は、ゼロ戒律です。

井沢 どのように戒律が消えていったのでしょうか。

小室 そうしたのは伝教大師・最澄です。彼が叡山で戒律を実質的に全廃したんです。天台宗の戒律は煩瑣な決まりを除外した円頓戒(円戒)ですが、そんなものは戒律でもなんでもないのです。仏教で僧侶になるには厳しい受戒のルールがあります。天台宗のそれはまったく厳しくありません。インドは言うに及ばず、中国、東南アジアでも、天台の円戒をうけた「僧侶」は、僧侶とは認められないでしょう。仏様を証人にして、本人が内面で僧侶になったと意識すればいい、というキリスト教のできそこないのような戒律ですから、仏教では認められません。このように伝教大師以来、実質的に日本の仏教の戒律はないのです。

井沢 親鸞あたりから戒律がなくなっていったものと思っていましたが、最澄なんですか。

小室 最澄の方針を徹底したのが親鸞であり、日蓮です。それにしても比叡山延暦寺は日本仏教の総本山ともいうべきところです。そこに戒律がなくていいというんだから、あとは右にならえです。
その後、平安後期には、天台本覚論という理論が発生して中世に盛行しました。この理論は、現実や欲望を肯定的に捉え、現実がそのまま真理であるとしました。つまり、煩悩と菩薩とは同一であるとして修行を軽視しました。この天台本覚論が、仏教の日本化と戒律・修行の廃止に大きな役割を演じたのでした。

『誰が歴史を歪めたか』(祥伝社黄金文庫)

投稿: おおくぼ | 20091222 () 0340

>おおくぼさん

私の持っている『日本人のための宗教原論』でも小室先生は大体同じことを言ってます。

>井沢元彦さんの説だと、仏教は経典が複数あっ>て、宗派ごとに選べます。

これは「戒律はお釈迦様を法源にする」の反論にはならないでしょう。

小室先生の「最澄で実質的に戒律がなくなった」というのは別におかしな考えではないと思います。例え延暦寺の厳しい修行についての規定を最澄が作っていたとしても(これは私は未確認ですが)、それでひっくり返るようなものではないでしょう。

別に私は小室先生の考えは何でも正しいと言っているわけではなく、この点については特に間違っているとは思えないということです。

投稿: 古賀 | 20091222 () 0653

小室先生は単純化すぎるので、度を越していると思うのです。
例えば、どこかの小さな村で、美人コンテストがあって優勝したとして、その優勝した人が、「私は世界一の美人だ」と言っても、間違いではないけど、言い過ぎだと思うのです。

小室先生の発言を抜粋すると・・・

>「日本の仏教の特徴は、ゼロ戒律です。」
>「彼が叡山で戒律を実質的に全廃したんです。」
>「そんなものは戒律でもなんでもないのです。仏教で僧侶になるには厳しい受戒のルールがあります。天台宗のそれはまったく厳しくありません。」
>「それにしても比叡山延暦寺は日本仏教の総本山ともいうべきところです。そこに戒律がなくていいというんだから、あとは右にならえです。」

最澄の教えが、親鸞や道元という過激な弟子を誕生させた原因だとは思うのですが、最澄が全廃したというのは、言い過ぎだと思うのです。
言い方は悪いんですが、最澄というウイルスが日本仏教界に現れて、その何世代後の弟子がより強力になったという方が精確だと思うのです。

また小室先生は最澄が全廃したと言いながら、最澄の方針を徹底したのが日蓮と親鸞だと言います。
でも全廃したなら、「どうして弟子が徹底できるの?」と思います。
平安後期に天台本覚論が大きな役割を演じたという発言も、「最澄が全廃したのに、どうして?」と思ってしまいます。

延暦寺が総本山という発言も、鎌倉時代に入って、日本史で有名な名僧をたくさん輩出したから、現代から見ると、そう見えるのであって、最澄の頃は総本山ではなかったと思うのです。

小室先生は、岡田斗司夫さんとの対談を読んでも、オウム真理教などの事件を例に、日本人はアノミーになったと説明しますが、本来小室説だと昔からアノミーのはずなのです。
統計的に少ない例を出してきて、日本人はアノミーになったという論法はおかしいと思うのです。
この論法は、唐沢さんが『社会派くんがゆく』でよく使う論法です。

投稿: おおくぼ | 20091222 () 1206

>おおくぼさん

>最澄の教えが、親鸞や道元という過激な
>弟子を誕生させた原因だとは思うのです
>が、最澄が全廃したというのは、言い過
>ぎだと思うのです。

正確には最澄の段階でも一応戒律はあります。

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro4-2.htm
>最澄は比丘の守るべき戒は250も必要で
>ないとし,重い戒律10と軽い戒律48
>の合計58でよいとした。これは梵網経
>に根拠をおくものであり,菩薩戒という。
>勿論,菩薩戒自体は,日本以外の国でも
>行われていたが,菩薩としての心構えと
>いうべきものであり,具足戒に替わり
>うるものではない。それなのに最澄は,
>具足戒を菩薩戒の十重戒と四十八軽戒に
>替え,さらに受戒の儀式を徹底的に
>簡素化した。

>でも全廃したなら、「どうして弟子が
>徹底できるの?」と思います。

上にも述べられているように「実質的」全廃だからです。最澄の段階ではまだ「形式上」戒律はあります。それは小室先生自身も認めているところです。言い過ぎかどうかは表現の巧拙に過ぎないと思います。

>本来小室説だと昔からアノミーのはずなの
>です。

小室先生は日本における「法の不在」とアノミーにおける「無規範状態」は峻別して論じていると思いますが、何をもって「昔からアノミーのはず」とおっしゃるのでしょうか。

小室説によれば天皇教が敗戦によって壊されたことによりいったんアノミーが生じているということですが、その点を指しているのですか?

投稿: 古賀 | 20091222 () 2301

私は議論好きなのですが、今回の議論は、混乱が生じているので、整理が必要だと思います。

まず、古賀さんと私では、対象にしている小室さんの文章が違うと思うのです。
だから、同じ文章を対象にしたいのですが・・。

私は、井沢元彦さんの対談集『誰が歴史を歪めたか』と岡田斗司夫さんの対談集『マジメな話』の二つの対談内容を元に話をしています。

だから、それ以外の小室さんの文章を対象に議論すると、混乱が広がるだけだと思います。
もし、お持ちでなければ、自分のブログに引用して、小室さんの問題点を明記しますが・・・。

投稿: おおくぼ | 20091223 () 2011

>おおくぼさん

>まず、古賀さんと私では、対象にしている
>小室さんの文章が違うと思うのです。
>だから、同じ文章を対象にしたいのです
>が・・。

そうおっしゃるのなら『日本人のための宗教原論』か『天皇の原理』を元に議論しましょう。

投稿: 古賀 | 20091223 () 2033

『日本人のための宗教原論』と『天皇の原理』は未読なので、買って読みます。
読む時に、どこに注目すればいいか教えてもらえれば助かります。

投稿: おおくぼ | 20091223 () 2129

>おおくぼさん

『日本人のための宗教原論』なら第4章、第7章。『天皇の原理』なら第6章、第7章あたりが該当箇所ですかね。特に『天皇の原理』の第6章「日本における「法の不在」」は重要だと思います。

投稿: 古賀 | 20091223 () 2206

ありがとうございます。
アマゾンを見たら、『天皇の原理』は絶版で、中古も高価なので、『日本人のための宗教原論』を先に買って、年末年始で読むつもりです。

投稿: おおくぼ | 20091223 () 2237

ところで、単純化で思ったのは、藤岡さんがブログで引用している唐沢さんの文章です。
唐沢さんは単純化というか、重要な点を削除して、自分に都合のいいように語る傾向があると思うのです。

引用

>同じころ、同じようにこのエッセイを読み、胸をときめかせていた人物にと学会の藤倉珊がいる。
>後年、僕と彼が出会って、「と学会」を旗揚げするのは、高校生の頃、同じく横田さんの文章を読んでいたことが縁だった。

この文章は、間違いではないにしても、読者の誤解を誘発する文章だと思うのです。
唐沢さんと藤倉さん二人だけで、旗揚げをしたと勘違いする人が出てきます。
あるいは、唐沢さんと藤倉さんの二人が中心人物で、他の人達はサブという感じに勘違いしてしまいます。
唐沢さんは、意図的に勘違いを誘発する文章を書いたと思います。
またツッコまれれば、「そんなつもりで書いたのではなく、旗揚げメンバーに、自分と藤倉さんがいたという事実を書いたにすぎない」という言い訳をするのではないでしょうか?

投稿: おおくぼ | 20091224 () 1321

>おおくぼさん

『日本人のための宗教原論』なら、第7章に最澄のこともアノミーのことも書かれていますので、とりあえずそこだけでも読めば議論は可能ですよ。

>唐沢さんは、意図的に勘違いを誘発する
>文章を書いたと思います。
>またツッコまれれば、「そんなつもりで
>書いたのではなく、旗揚げメンバーに、
>自分と藤倉さんがいたという事実を書い
>たにすぎない」という言い訳をするので
>はないでしょうか?

ミステリでいう叙述トリックみたいなもんですね。

投稿: 古賀 | 20091224 () 2206

『日本人のための宗教原論』を買いました。
まだ「はじめに」しか、読んでいないのですが、違和感でいっぱいです。
頭の中が「????」です。

引用すると・・・

>「何も考えないで、どこまでも日本流で押し通すから、外国人はすぐさま面食らって、日本人は奇妙奇天烈な人種だから付き合いきれないと思う。
>日本人は世界で孤立して交流も取引も困難になる。」

日本人って、すぐ迎合する国民の気がするし・・・。
北朝鮮やイランやイラクやアフガニスタンみたいに世界で孤立してないし・・・。
交流も取引も困難になってないんですけど・・・。
イスラム教徒の方が、日本人よりも、世界中で自分流を通していると思うんですが・・・。

>「この世の割合にいいと思って、来世にあまり関心のない中国からは、インドやユダヤほどの宗教は生まれなかった。
>この世が最高だと思っている日本は、当然、無宗教国になった。」

凄い偏見だと思う。
小室先生の判定だと、中国の宗教はインドやユダヤほどではないんですね。
日本の宗教は、小室先生から見れば、宗教とは認められないモノなんですね。

>「宗教がないから、カルト教団は簡単に人を殺して勝手に金を奪う。
>こんなにたやすくカルト教団がはびこれる国は他にない。
>宗教がないから、学校は崩壊して、子供たちは自由に人を殺しても平気である。
>しかも、誰もその理由に気づかない。

イスラム社会で、爆弾テロが多いことはどうなんだろう?
アメリカはどうなんだろう?

唐沢さんを軽く超えている気がするんですが・・・。
唐沢さんは叙述トリックを駆使するんだけど、小室先生は・・・・。

投稿: おおくぼ | 20091226 () 2144

>おおくぼさん

P2
「宗教が違っても人間はみんな同じであると思い込んでいる日本人には、ここ(注:宗教によって行為が違う)のところがピンとこない」
ここの部分が小室先生の主張のポイントでしょう。

例え「何も考えないで~困難になる」までが誇張(確かに小室先生は良く誇張的な表現を使う)だとしても、この部分の主張がひっくり返ることにはならないと思います。

>小室先生の判定だと、中国の宗教はインドや
>ユダヤほどではないんですね。

少なくとも儒教は世界宗教には成り得なかったでしょうね。
小室先生は世界宗教の母体と成り得るかどうかを
宗教の判断基準にしているようですから。

>イスラム社会で、爆弾テロが多いことは
>どうなんだろう?
>アメリカはどうなんだろう?

まず「宗教がないから、カルト教団は簡単に人を殺して勝手に金を奪う」という小室先生の主張は不完全でしょうね。正確には「宗教がないから」ではなく「日本教(天皇信仰)が崩壊したためアノミーが生じたから」になるはずです。

キリスト教もイスラム教も神の命令により平気で虐殺を行うので、これとカルト教団の教義による殺人も「等価」と考えれば、小室先生の主張は若干変ということになります。小室先生によればヨシュア記に出てくる神の命令による異民族の大虐殺を残虐だと文句を言うのは宗教がわかってないことになるので。

小室先生自身(P40)「このこと(注・ドグマや神の命令があれば、殺すことが正義)は、カルト教団にしても、キリスト教団にしても、変わりはない。ドグマに従うのが〈宗教の核心〉なのだ。」と書いています。

>唐沢さんを軽く超えている気がするん
>ですが・・・。

まあまだまだ唐沢さんには遠く及ばないと思います。

投稿: 古賀 | 20091227 () 0016

第二章まで読み終わりました。
私の持っている知識と違うことばかり書いてあるので、混乱しています。
小室流の定義が独特な気がします。

オウム真理教が仏教かどうかは、私にとってはどうでもいいことなのですが・・・小室先生は仏教について知識があれば、オウム真理教が仏教でないことが判断できると言っています。


>オウムは地獄が実在すると思い込んでいた。
>人を導くために譬え話として仮に考えておいたものにすぎない。
>仏教はこのように考えている。
>オウムは仏教を標榜しているのだから、当然、このように教えなければならないはずなのに、オウムはそうは教えなかった。
>実在もしない地獄に堕とすといい募った段階で、「オウムは仏教ではない」とすぐにピンと来なければならなかった。
17ページ

オウム以外の日本の仏教も、小室先生から見れば、「仏教ではない」のかもしれません。

>「仏教は実在論を否定する。
>人間の心の外に実在するものは何もない。
>これが仏教の入門の初歩の初歩であるとともに、仏教の極意であり蘊奥でもある。
17ページ

あるいは

>仏教には、極楽と地獄がある、と答えた人もいるだろう。
>しかし、仏教にもいわゆる地獄・極楽はない。
>なぜなら、仏教はすべて仮説だから。
>もっともそれで全部すませては納得しがたい人もいるだろうから、譬え話としても成立しないことを説明しよう。
64ページ

小室先生の宗教の定義だと、何故、日本人が無宗教なのか不明です。

>なぜ、ウェーバーの定義がいいのかというと、宗教だけではなくイデオロギーもまた宗教の一種であると解釈できるところにある。
どういうことかというと、マルキシズムも宗教である。資本主義も宗教である。そして、武士道などというのも一種の宗教だといえる。
>そのように考えると範囲がべらぼうに広がってしまうので、本書では、世界三大宗教といわれるキリスト教、仏教、イスラム教、それと日本人になじみの深い儒教について論を進めることにする。
27ページ

投稿: おおくぼ | 20091227 () 0304

>おおくぼさん

小室先生は「空の思想」が実在否定であるのと、地獄極楽などがフィクションであるのとを混同している(あるいは混同はしていないが、混同しているように読めるまぎらわしい書き方をしている)ような気がします。

>小室先生の宗教の定義だと、何故、日本人が
>無宗教なのか不明です。

本来、小室先生の定義だと日本人は「日本教」の信者であって無宗教ではないはずですね。そもそも「宗教」=行動様式という定義だと、完全無宗教というのはありえないはずなので。

そのへんはP26に「日本人は無宗教だといういい方をするが、どこかの特定の宗派に属していないだけで、その日本人もエトスたる独特の行動様式は持っている。したがって、日本人にも宗教たる独自の行動様式があるはずだというふうな解釈が可能である。」と書かれています。

投稿: 古賀 | 20091227 () 1012

『社会派くんがゆく』のバックナンバーを読んでいると、小室先生の名前が何度か出てきます。
宗教と中国とソ連関係の場合が多いです。

>「まあまだまだ唐沢さんには遠く及ばないと思います。」

今回、『日本人のための宗教原論』と一緒に小室先生の『イスラム原論』(ぶ厚い!)も買いました。
内容は似ていますし、対応関係は一致していると思います。
唐沢さんは臨機応変に、その場その場で、思いつきで語るので、本ごとに主張がコロコロ変わりますが、小室先生はどの本でも主張は同じです。
また唐沢さんの文章は日本語として理解しにくいですが、小室先生の文章は、一文一文は理解しやすいです(一冊の本だと理解が困難ですが・・)。
私が『唐沢俊一検証blog』に感動する理由の一つが、意味不明に思える唐沢さんの雑学文章を見事に解読しているからなのです。
前から疑問に思っているのは、唐沢俊一雑学ファンは、本当に唐沢俊一の文章を読んで理解しているのか?ということなのです。
小室先生の本は、どこが変なのかが、明快です。
でも唐沢さんは、変なとこだらけで、何を言いたいのか不明なのです。
だから唐沢さんが過激な主張をしても、小室先生ほど影響力を持たないのは、そこに原因があるような気がします。

投稿: おおくぼ | 20091227 () 1111

>おおくぼさん

>小室先生はどの本でも主張は同じです。

ただ本によって重点の置き方が違いますよね。『日本人のための宗教原論』では、「日本教」や「法の不在」にはあまり説明を割いていません。

>小室先生の本は、どこが変なのかが、明快
>です。

変に見えるだけなのか、本当に変なのかで意見は分かれるかもしれませんが、概ねそのとおりでしょう。というのは小室先生は前提となる宗教や社会学の知識が無い人にもできるだけわかりやすく説明しようとしているので。

唐沢さんは自分自身でも良く整理できていないことをアカデミズムの言葉を権威づけにして語るので、何が言いたいのか意味不明になってしまうのでしょう。

>私が『唐沢俊一検証blog』に感動する
>理由の一つが、意味不明に思える唐沢
>さんの雑学文章を見事に解読している
>からなのです。

これは私もそう思いますね。皮肉なことに『唐沢俊一検証blog』が唐沢さんの文章の最も良い解説書になってしまっている現状です。

投稿: 古賀 | 20091227 () 1149

>『日本人のための宗教原論』では、「日本教」や「法の不在」にはあまり説明を割いていません。

小室先生の文章を引用すると・・

>また、「日本教」「神道」あるいは「天皇教」という日本独自の宗教形態については、また独立した徹底的な議論が必要になるため、宗教の原論を論ずる本書では特に深入りしない。
27ページ

そうすると、ヴァーバーの宗教の定義と、小室先生の「日本人は無宗教だ」という主張と、日本独自の宗教形態の3つの整合性はどうなるのでしょうか?

ところで宗教ではありませんが、『日本人のための宗教原論』の34ページから35ページに論理学の歴史についての記述があります。
小室先生は経歴を見ると、京都大学理学部数学科卒なのです。
でも、私からすると、かなり独自な説明なので驚きます。
例えば・・・

>ところが、アリストテレスの形式論理学も実は不十分であるということを、19世紀の終わりになってドイツのヒルベルトが発見した。
>ヒルベルトが記号論理学という完璧な論理学を構築したのである。
>これは一言で非常にわかりやすく説明すると、集合論的論理学である。

岩波文庫の『ゲーデル:著 不完全性定理』には、翻訳者の林晋さんの200ページ以上の詳しい解説がありますが、用語の使い方も歴史的な経緯説明も違うような気がします。
「形式化」という方法を重視したのは、ヒルベルトです。
だから、アリストテレスの論理学を「形式論理学」と呼ぶのは、間違いではないにしても、歴史的な経緯から考えると変です。

「集合論」を作ったのは、無限集合や対角線論法で有名なカントールです。

「記号論理学」を作ったのはフレーゲです。
そしてフレーゲの記号論理学に重大な欠陥を発見したのはラッセルです。
ヒルベルトも集合論を使った記号論理学の作成に大きく貢献しました。
けれど排中律を巡って、ブラウワーと対立しますし、この対立の原因は現代になっても解消されていません。

ゲーデルは、ヒルベルトの形式化路線を進めて、一階述語論理の完全性を証明し、二階述語以上の高階の論理の不完全性を証明しました。

コンピュータで有名なチューリングは、ゲーデルと別の形で論理の限界を証明しました。

投稿: おおくぼ | 20091227 () 1338

だんだんと小室先生の宗教論が理解できてきました。

日本の宗教は多神教。
イスラムのような一神教とは違う。
それが飛躍して、日本人は無宗教だという主張になるんですね。
どこまでが誇張で、どこから誇張でないのか、区別しにくいです。
橋爪大三郎さんや宮台真司さんは、しっかりと区別して聴講していたのでしょう。
区別できずに洗脳されてしまったのが、唐沢さんや副島さんなのかもしれません。

投稿: おおくぼ | 20091227 () 1636

>おおくぼさん

>だから、アリストテレスの論理学を「形式
>論理学」と呼ぶのは、間違いではないにし
>ても、歴史的な経緯から考えると変です。

哲学の方でカントの超越論的論理学に対してアリストテレスの論理学を形式的論理学というようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%BC%8F%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6

>事実19世紀末最大の数学者ヒルベルトは
>ユークリッド幾何の公理系を大修正し、再
>建した公理系が無矛盾完全であることを示
>した(ただし実数論が無矛盾ならばという
>保留つきであるが)。この成功に力を得て
>ヒルベルトはギリシア以来の数学の主流で
>ある公理主義をさらにつきすすめて形式主
>義という考え方にまで発展させた。
>数学の用語や対象はそれの意味する表象や
>解釈を離れ、むしろたんなる記号、あるい
>は要素と見なし、それらの間の関係を規制
>する公理系から演繹的に導かれる形式的命
>題の集まりのみをその数学の体系としよう
>という考え方である。
『現代数学小事典』講談社ブルーバックスP113

小室先生の主張が間違いとまでいえるかは微妙ですね。

>橋爪大三郎さんや宮台真司さんは、しっかり
>と区別して聴講していたのでしょう。

小室先生の宗教についての分析は理論的にはマックス・ヴェーバーに立脚してるので、社会学者であるあの人たちには理解可能でしょう。

投稿: 古賀 | 20091227 () 1745

論理学ネタは、『日本人のための宗教原論』の中では枝葉の部分なので、間違っていても小室先生の骨子には何ら影響を与えません。

ただ、小室先生はカントの論理学についての考察を元に形式論理学という言葉を使ったのかは謎です。
使ってはいけないということはないのですが、記号論理学という分類とカントの論理学の考察を同じ文脈で使うのは珍しいと思います。
カントの論理学は、アメリカの分析哲学に大きな影響を与えていますが・・・。

>事実19世紀末最大の数学者ヒルベルトは
>ユークリッド幾何の公理系を大修正し、再
>建した公理系が無矛盾完全であることを示
>した(ただし実数論が無矛盾ならばという
>保留つきであるが)。この成功に力を得て
>ヒルベルトはギリシア以来の数学の主流で
>ある公理主義をさらにつきすすめて形式主
>義という考え方にまで発展させた。

『現代数学小事典』講談社ブルーバックスP113・・・ですか。

ユークリッド幾何学と記号論理学は全く別種だと思うのです。

だから・・

>ユークリッド幾何の公理系を大修正し、再
>建した公理系が無矛盾完全であることを示
>した(ただし実数論が無矛盾ならばという
>保留つきであるが)。

理解できないです。
たしかに記号論理学は、ユークリッド幾何学の方法をモデルにしました。
でも別モノです。

>「公理主義をさらにつきすすめて形式主義という考え方にまで発展させた。

これも理解不能です。 
形式主義は、公理主義をつきすすめたわけではありません。

この論理学ネタは、専門的になるので自分のブログで展開します。
自分で話題をふっといて、申し訳ありません。

投稿: おおくぼ | 20091228 () 2036

例えば、スピノザの『エチカ』は、ユークリッド幾何学の方法を使って書かれているそうですが、ユークリッド幾何学とは別モノです。

投稿: おおくぼ | 20091228 () 2039

ところで、宗教論に話を戻します。

小室先生の本は、誇張なのか、矛盾なのか区別がつきにくいです。
「日本人は無宗教だ」は誇張でいいです。

例えば・・・

>しかし、イスラム教の教えによると、『コーラン』こそが最大の奇蹟だ断じている。
>『コーラン』こそが最大で最終的な奇蹟だから、それ以後奇蹟を起こす必要はない、というのがイスラム教の奇蹟に対する考え方だ。

でも、その数行後

>もっともその表現はさらに複雑で、全知全能のアッラーはどんなことでもできるわけだから、奇蹟とは解釈していない。
>アッラーには、普通の能力と奇蹟の能力の区別はないのだ。
55ページ

奇蹟とは人間が勝手に区別しているんだと言う事なのでしょうけれど・・・。
あと小室説によると、現代のイスラム教徒は奇蹟がこれから起こるとは信じていないことになるんですが・・・。

その次の行は・・・

>仏教は奇蹟を認めていない。

小室先生の言う仏教は、かなり限定されていると思うんですが・・・。

投稿: おおくぼ | 20091228 () 2214

>おおくぼさん

>>仏教は奇蹟を認めていない。

>小室先生の言う仏教は、かなり限定されている>と思うんですが・・・。

「神の力による自然法則への介入」を奇蹟の定義とするなら、仏教は奇蹟を認めないというのはおかしな主張ではないです。神通力というのは仏教的世界観においては自然法則の範囲内なので。

投稿: 古賀 | 20091229 () 0004

数学ネタは、これ以上しないつもりだったのですが、どうしても訂正したいので、コメントを書かせてもらいます。
調べたら、ヒルベルトは論理学以外の数学の分野でも大活躍しているんですね。

1899年に『幾何学の基礎』という本を出しています。
だから・・・

>事実19世紀末最大の数学者ヒルベルトは
>ユークリッド幾何の公理系を大修正し、再
>建した公理系が無矛盾完全であることを示
>した(ただし実数論が無矛盾ならばという
>保留つきであるが)。

の前半部分・・・

>事実19世紀末最大の数学者ヒルベルトはユークリッド幾何の公理系を大修正し、

・・・は正しい記述です。

ヒルベルトは20世紀前半も大活躍していますが、19世紀末も大活躍しています。

後半部分の・・・

>再建した公理系が無矛盾完全であることを示した(ただし実数論が無矛盾ならばという保留つきであるが)。

・・・というのは現時点では判断しかねますというか、理解できません。

投稿: おおくぼ | 20091229 () 0133

>おおくぼさん

これ以降は『『日本人のための宗教原論』他議論用』の方にコメントお願いします。

投稿: 古賀 | 20091229 () 0848



(古賀)

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

こちらでも平行して議論を行ってます。

http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9059511.html

投稿: 古賀 | 2009年12月29日 (火) 14時35分

『日本人のための宗教原論』は内容が、多岐に渡っているので、第四章の「【仏教】
は近代科学の先駆けだった」と 第七章「日本人と宗教」を重視し、「日本人」と「仏教」の2テーマに絞って議論したいと思います。

投稿: おおくぼ | 2009年12月29日 (火) 16時48分

>おおくぼさん

それで結構ですよ。

小室先生は確かに表現が不正確あるいはわかりにくいところはあります。例えば『日本人のための宗教原論』第4章のP227で「小乗仏教では、この世の迷いを断じきった聖人にさえも四階級があるといい」と書いてますが、これは厳密には正しくありません。小乗仏教の聖人の4階級とは、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢のことだと思いますが、このうちこの世の迷いを断じきったといえるのは阿羅漢だけです。

ただそのあとの説明「聖人の最高位である~罪あればこそである」を読む限りはちゃんとその点は理解されているようです。

投稿: 古賀 | 2009年12月29日 (火) 18時58分

第四章の「【仏教】は近代科学の先駆けだった」では、維摩居士の話が出てきます。
仏教の悟りの複雑のさの例として出したと思うのですが、そうすると、第七章の「日本人と宗教」と「維摩居士」の話は似てくるのではないでしょうか?
肯定的評価か否定的評価かは別れますが・・・。

例えば、親鸞が聖徳太子の夢のお告げで、妻帯を決意する話が出てきます。
梅原猛によれば、聖徳太子は、維摩居士の話が好きで、自分と重ねていたそうです。

358ページに「シュテファン・ツヴァイクのような大天才をもってしても、その辺りがなかなか理解しくくなっている。」と書いてあります。
日本人が宗教を理解できにくいという話なのに、どうしてシュテファン・ツヴァイクの理解力が出てくるのか謎です。

投稿: おおくぼ | 2009年12月30日 (水) 02時11分

>おおくぼさん

>仏教の悟りの複雑のさの例として出したと
>思うのですが、そうすると、第七章の「日
>本人と宗教」と「維摩居士」の話は似てく
>るのではないでしょうか?

何を言いたいのか良くわかりません。明確に要点を指摘してください。
きちんと議論をするからには、私は指摘する側にも曖昧でない明確な指摘を望みます。

>日本人が宗教を理解できにくいという話なの
>に、どうしてシュテファン・ツヴァイクの理
>解力が出てくるのか謎です。

確かにこの箇所に出てくるのは不自然ですね。

投稿: 古賀 | 2009年12月30日 (水) 10時19分

長くなると思いますが、足りなり部分は指摘して下さい。
何度でも補足します。
また議論はすぐに終わることを目指さず、ゆっくり時間をかけたいと思っています。
もし何らかの理由で、議論を中断したくなったら言って下さい。

私は空気を読むのが下手な人間であり、粘着質なタイプなので、いくつかのブログを閉鎖させてしまった経緯があります。
たぶん今でも恨まれていると思います。
弁解すれば、私には悪意は一切ありませんでした。

>仏教の悟りの複雑のさの例として出したと
>思うのですが、そうすると、第七章の「日
>本人と宗教」と「維摩居士」の話は似てく
>るのではないでしょうか?

まず引用します。

>本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならないように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
200ページ

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
201ページ

>維摩居士という人は、どこでどんな修行をしたなどどは一切書いていない。
>どれだけ善行を積んだかも書いていない。
>さらには、釈迦の教えを受けたわけでもなく、釈迦の教団とも関係ないと書いてある。
>このように、何の修行をしたかもわからないし、特別な善行も積んだかもわからない。
>誘惑の否定もしない。
>悪魔が維摩居士を誘惑しようと企み、絶世の美女を、いわゆる魔女なのだが、送り込んだところ、維摩居士は全部妾にしてしまったなどと書いてある。
>悟りをひらいた以上はそんなことは平気の平左であり、むしろ、そういう行動などに左右されるようでは悟りとは呼べないのである。
>この人の行いは「空」そのものである。
>独覚の好例として紹介したが、この維摩居士のレベルは、他の独覚に比しても飛び抜けているほどの大人物である。
201ページ

次に第七章から引用します。

>この点は、法然上人、親鸞上人のほうが徹底している。
>「南無阿弥陀仏」と唱える唱名だけでいい、修行も学問も一切必要ないといっている。
>これこそ仏教的な考えからいったら、大変な異端なのだ。
>まず異端だというのはどういうことかというと、本来の仏教では大変な修行を要求する。
そのうえ、善行、善果の積み上げをやりなさいともいう。
>それから学問も重要ですよ、とこういうことをいっている。
>ところが法然及び親鸞は、そんなことは一切必要ないといってしまった。

そうすると、小室説では維摩居士は異端なのでしょうか?
あるいは本来の仏教ではないのでしょうか?
『日本人のための宗教原論』では不明です。

投稿: おおくぼ | 2009年12月30日 (水) 11時27分

>おおくぼさん


私は空気を読むのが下手な人間であり、粘着質なタイプなので、いくつかのブログを閉鎖させてしまった経緯があります。
たぶん今でも恨まれていると思います。
弁解すれば、私には悪意は一切ありませんでした。

了解しました。


そうすると、小室説では維摩居士は異端なのでしょうか?
あるいは本来の仏教ではないのでしょうか?

どう説明すれば一番混乱をまねかないのかちょっと考えているんですが。

【前提1】
まず小乗仏教と大乗仏教では悟りの考え方が違います。

小乗では悟りを開いた聖者には3タイプあります。声聞、独覚、仏です。
(注:正確には声聞の中の阿羅漢)

独覚というのは、仏の教えを聞かずに独自で悟りを開いた聖者です。

小乗では、この3者の悟りにあまり質的差異を認めませんが、大乗では仏と他の2者は悟りの境地が天と地ほどにも違うことになっています。

大乗では菩薩を重視します。菩薩にも何段階かありますが、最高位近くの菩薩はほとんど仏と変わらない境地で、声聞や独覚を遥かに凌駕しています。

【前提2】
維摩経は大乗経典です。

【前提3】
大乗経典においては声聞や独覚の悟りはレベルが低いものと軽視されているはずですが、維摩居士の悟りの境地は非常にレベルが高い(仏に近い)ものと説明されています。
(というか維摩経は維摩居士の悟りの境地がいかに他の声聞や菩薩と比べてレベルが高いかを説いているお経みたいなもんです)

で、おおくぼさんの疑問に答える前に私がひっかかっているのは、維摩居士はむしろ在家の(高位の)菩薩と考えるのが妥当じゃないかと。

つまりこの点では小室先生が維摩居士を独覚と説明しているのは間違いである可能性が高いのです。

これは小室先生が小乗と大乗をきちんと区別せずに仏教を説明しているところから生じたものだと思います。
(続く)


投稿: 古賀 | 2009年12月30日 (水) 14時05分

【前提3】補足説明

調べてみたところ『維摩経』の中でお釈迦様が維摩居士のことを「衆生の中の最高である菩薩」と呼んでいる箇所を発見しました。

また維摩居士が本来この世界の人間ではなく阿しゅく仏という別の仏のいる世界(妙喜世界)から救済(菩薩行)のために生まれ変わってきたと記載している箇所も発見しました。

【解答】
小室説では小乗と大乗が混同されているので、出家してお釈迦様の元で修行せずに悟りを開いた維摩居士を独覚と解釈しています。
独覚は原始仏教で既に想定されている存在です。
異端ではありません。

ただ正しくは維摩居士は在家の菩薩と解釈すべきだと考えます。「過去世で仏陀を崇拝して善根を積み」「仏陀を礼拝し」「俗人の白衣を身につけながら、沙門の行いをまっとうし」などと表現されており、小室先生が「何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく」と書いているのといささか異なります。
また在家の修行者でも悟りをひらけると考えるのは大乗仏教の基本的立場です。
(続く)

投稿: 古賀 | 2009年12月30日 (水) 20時17分

A-維摩居士独覚説(小室説)
維摩居士を独覚と考える小室説によるなら、独覚の「修行をせずに悟る」と、念仏の「修行が不要」とはまるで違うといえるでしょう。関連性が無いといってもいい。

独覚はあくまで例外的存在だからです。

それに対して念仏で「修行が不要」というのは、修行しなくても悟りが開けるからではありません。まるで逆で「いくら修行しても悟りをひらけない時代である」という認識があるから、念仏に頼るという構造です。

B-維摩居士在家菩薩説
ただ先ほど説明したように小室説は間違いで維摩居士を在家の菩薩と考えるならば、日本仏教の特色のようにいわれる「戒律の軽視」はすでにこの時点(大乗仏教)で起こっているともいえます。

在家の信者の戒律は出家の戒律に比べて圧倒的に少ないからです。それにもかかわらず「在家の信者が出家者である声聞を圧倒的に打ち負かす」というストーリーである維摩経は直接的とは言えなくても戒律の軽視を後押しするものではないかと。

投稿: 古賀 | 2009年12月30日 (水) 20時57分

追記

少し明確でない箇所に気付いたので確認。

>そうすると、小室説では維摩居士は異端なの
>でしょうか?

異端というのは通常教えが正統でないということです。維摩経が異端の説という意味で言われているのですか?維摩居士が異端者という意味で言われているのですか?


投稿: 古賀 | 2009年12月30日 (水) 21時13分

『日本人のための宗教原論』の文脈で、維摩居士を異端と見なすか?という意味です。

なぜなら、『日本人のための宗教原論』では、法然と親鸞を異端と見なしています。
維摩居士は異端ではなく、法然と親鸞は異端であるとすれば、その違いの基準が、『日本人のための宗教原論』では曖昧な気がします。

どうして小室さんは維摩居士の例を出したのかという理由について私は悩みます。
ただ第四章は「空」の説明がメインであり、小室さんは、維摩居士の説明で・・

>この人の行いは「空」そのものである。

・・・と書いてあるので、「空」を説明するために、重要な例として出したとも推測できますけど。

投稿: おおくぼ | 2009年12月31日 (木) 20時19分

特に親鸞の場合は、『日本人のための宗教原論』で、聖徳太子の夢のお告げに言及しているからです。

>日本における聖徳太子信仰は大したものではあったけれど、聖徳太子といえば、仏教に理解は持っていたとはいえ、単なる政治権力者であり、悟りをひらいたわけでもなければ、ましてや僧侶でもない。
>そういう人に許すといわれて、それで許されると考えるがおかしくないか。
>これがお釈迦様が現れて許すといわれたのなら話はまだわかるのだが、親鸞聖人にしてからがこのような矛盾を抱えている。
373ページ〜374ページ

親鸞は、聖徳太子が悟りを開いていないと思っていたのでしょうか?
もし親鸞が、聖徳太子が悟りを開いた人物だと思っていたら、維摩居士が夢の中で「許す」と言ったと同じ意味になるのではないでしょうか?

投稿: おおくぼ | 2009年12月31日 (木) 20時35分

>おおくぼさん


維摩居士は異端ではなく、法然と親鸞は異端であるとすれば、その違いの基準が、『日本人のための宗教原論』では曖昧な気がします。

維摩居士は法然と親鸞のように「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。確認してください。

投稿: 古賀 | 2009年12月31日 (木) 21時06分

前のコメントで引用した・・・・


>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
201ページ


確かに、小室さんは維摩居士が「修行も学問も不要」という教えを説いた・・・とは書いていません。
けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

投稿: おおくぼ | 2009年12月31日 (木) 21時57分

古賀さんは、維摩居士について多くのことを書かれましたが、どこまでが古賀さんの説で、どこからが小室さんの説(古賀さんの理解する)かが、私には区別しにくいです。

私は、小室さんの説を批判することを第一目的にコメントしています。

だから古賀さんと「正しい仏教とは?」論争をするのは、あくまでも小室さの説を批判するためです。

投稿: おおくぼ | 2009年12月31日 (木) 22時17分

例えば、宮元啓一さんの『ブッダが考えたこと:これが最初の仏教だ』(春秋社)を読むと、小室直樹さんの仏教理解との違いが多々、発見できます。
けれど、私には宮元啓一さんの仏教理解がどの程度正しいかを判断する知識はありません。

投稿: おおくぼ | 2009年12月31日 (木) 23時42分

>おおくぼさん


けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。異端とはいえません。


古賀さんは、維摩居士について多くのことを書かれましたが、どこまでが古賀さんの説で、どこからが小室さんの説(古賀さんの理解する)かが、私には区別しにくいです。

一応わかりやすいように分けて書いてます。


だから古賀さんと「正しい仏教とは?」論争をするのは、あくまでも小室さの説を批判するためです。

ある程度の仏教知識がないとせいぜい「ここの表現はわかりにくい」「ここの表現は不適切だ」ぐらいのことしかいえないと思います。


けれど、私には宮元啓一さんの仏教理解がどの程度正しいかを判断する知識はありません。

小室先生は中村元先生の説に立脚していることが多いようです。

私は仏教については複数の解説書を読みながら、GoogleやWikipediaで関連用語について調べてみて、経典の話が出たら可能な限りその経典(日本語訳)を読むぐらいのことはしています。
その上で「小室先生の書かれているこれは間違っている」と言っています。


投稿: 古賀 | 2010年1月 1日 (金) 08時10分

古賀さんへ

明けましておめでとうございます。

おめでたい正月早々慌ただしいですが、早速、議論の続きをしたいと思います。

まず、小室さんの維摩居士についての解釈について・・・。

>>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
201ページ

これは古賀さんの言うとおり、『維摩経』の記述と小室さんの維摩居士説には決定的な違いがあります。
例えば、『維摩経』には維摩居士は、過去世で善行を積んだと書かれています。
『維摩経』(中公文庫)25ページ

その場合、小室さんのただの勘違いで、その部分を修正して理解し、『日本人のための宗教原論』全体を理解するという方法があり、古賀さんの読み方は、その方法だと思います。

けれど、私は間違った理解か別として、小室さんの主張の矛盾だと考えます。

だから、修行もしないで悟った維摩居士を本来の仏教の一つとして高く評価し、一方で最澄や親鸞や法然を異端だと非難するのは、おかしいと考えます。

また親鸞の夢のお告げは、聖徳太子ではなく救世観音なのですが、それについても、小室さんの勘違いということは置いといて、小室説の矛盾だと考えます。

だから、私は二重の読み方をしていることになります。

1 小室さんの間違い(あるいは勘違い)を指摘すること。

2 小室さんの間違い(あるいは勘違い)を保留して、小室さんの論旨の矛盾を指摘すること。

今回、「小室さんの解釈する維摩居士」と「小室さんの理解する日本仏教」の整合性については2を重視します。

だから上のコメントの議論は噛みあっていないと思います。

>ある程度の仏教知識がないとせいぜい「ここの表現はわかりにくい」「ここの表現は不適切だ」ぐらいのことしかいえないと思います。

確かに、その通りです。
ただ、小室さんの主張はかなり専門的な内容が含まれています。
特に小室さんは「本来の仏教は・・・」と言います。
中村元さんの名前は出てきますが、中村元さんの説に立脚しているとは明言していません。
また中村元さんの説は、小室さんの理解に都合のいい部分だけ採用しているのではないでしょうか?

もし古賀さんが、宮元啓一さんの著作を高く評価しているなら、小室さんの『日本人のための宗教原論』と比較すると、決定的な理解の違いが発見できる気がします。
特に小室さんが、オウム真理教や日本の伝統仏教を、(小室さんの理解する)原始仏教と比較して、仏教でないあるいは異端だという主張についてです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 1日 (金) 12時17分

古賀さんは橋爪大三郎さんを高く評価しているようなので、橋爪さんの本から引用します。
小室さんの主張と比較して下さい。
ちなみに引用した本で、橋爪さんは小室さんを批判しているわけではありません。

>大乗仏教は在家主義で、在家の維摩居士が出家の僧侶より修行のレベルが高いという維摩経もあるぐらいだから、麻原が在家でも、別に問題はない。
ただそれなら、原始仏教に忠実だなどとは言わないほうがいい。」
96ページ
(注:これは前半が、島田裕巳さんのオウム真理教批判に対する反論で、後半が橋爪さんのオウム真理教批判です。)

>法華教は、本仏が垂迹して釈尊になるという論理を骨格としていて、あくまで釈迦仏の真意をのべたのが法華教という立場に徹しています。
>それに対して、オウムの場合、麻原の「最終解脱」なるものが、小乗ないし大乗のどの階位の覚りなのか、何の説明も正当化もない。
>だから関係ないと言っているのです。
>さらに言えば、仏教には多くの経典があり、多様な見解がのべられているけれども、修行者の修行を律する戒律(律蔵)にはひと通りしかない。
>それは釈尊の定めたものであって、釈尊以外の任意のグルが定めたものであってはならない。
97ページ

>小乗は(正式な言い方では、部派仏教)は、基本的に合理主義だから、非合理性を徹底的に排除する。
>大乗になってくると、かなりあやしい。
>空観というのがあるんですけれども、空観の論法は、「あるでもなく、ないでもない」とか、形式論理で書けない奇妙な「二重語法」を使うわけです。
>しかしその、イロジカルな語法の内部ではロジカルに透徹しているという特徴があります。
>その先の密教になると、もっとあやしい。
>論理的に考えていって結論が出るような構造には、もともとなっていない。
>オウムの場合は阿含教から出版して、原始仏教の五戒を守るというレベルの修行と、それから密教のヴァジュラヤーナのレベルとが両方ある。
>最初の修行レベルでは人は殺してはいけなくて、ヴェジラヤーナのレベルでは人を殺してよくて、これ自身は不合理ですから困ります。
>困るということ自身が修行であるというなら、これはもうめちゃくちゃである、私に言わせれば。
94ページ〜95ページ

引用は全て『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』(朝日新聞社)
橋爪大三郎&島田裕巳(対談本)

投稿: おおくぼ | 2010年1月 1日 (金) 14時45分

>おおくぼさん


だから、修行もしないで悟った維摩居士を本来の仏教の一つとして高く評価し、一方で最澄や親鸞や法然を異端だと非難するのは、おかしいと考えます。

何度でも同じ事を言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。だから仏教の異端とはいえません。だからその点はまるでおかしくありません。

おかしいのは小室先生が維摩居士を独覚と勘違いしていることです。しかもそれは私が発見して指摘したことであってあなたが指摘したことではありません。


また中村元さんの説は、小室さんの理解に都合のいい部分だけ採用しているのではないでしょうか?

ないでしょうかも何もそう思ったらあなたが調べて具体的に指摘すればいいだけの話です。そういう風な議論をしているのだと思いますが違いますか?


古賀さんは橋爪大三郎さんを高く評価しているようなので、橋爪さんの本から引用します。
小室さんの主張と比較して下さい。

意図が不明です。


投稿: 古賀 | 2010年1月 1日 (金) 20時55分

>おおくぼさん


2 小室さんの間違い(あるいは勘違い)を保留して、小室さんの論旨の矛盾を指摘すること。

その点は理解してます。


だから上のコメントの議論は噛みあっていないと思います。

だからそれは違います。勘違いを保留したままであろうと(つまり修行をせずに悟りをひらいた独覚だと考えたとしても)維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。だから仏教の異端とはいえません。

投稿: 古賀 | 2010年1月 1日 (金) 22時15分

>おおくぼさん


中村元さんの名前は出てきますが、中村元さんの説に立脚しているとは明言していません。

「空」の解説で中村元先生の著作を引用し、P244で「空を理解するうえで、中村元先生の貢献は瞠目に値する」と書いていますね。
当然それ以降の「空」の解説は中村元先生の説に立脚していると推測されますが。

投稿: 古賀 | 2010年1月 1日 (金) 22時53分

内容が多岐に渡っているので、コメントを分けます。

>「空」の解説で中村元先生の著作を引用し、P244で「空を理解するうえで、中村元先生の貢献は瞠目に値する」と書いていますね。
>当然それ以降の「空」の解説は中村元先生の説に立脚していると推測されますが。

私が立脚という言葉を使ったのが失敗でした。
訂正します。

前の私のコメント ↓

>また中村元さんの説は、小室さんの理解に都合のいい部分だけ採用しているのではないでしょうか?

古賀さんの返答コメント ↓

>ないでしょうかも何もそう思ったらあなたが調べて具体的に指摘すればいいだけの話です。
>そういう風な議論をしているのだと思いますが違いますか?


自分のブログで具体的に指摘します。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 20時29分

>何度でも同じ事を言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。
>また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。
>だから仏教の異端とはいえません。だからその点はまるでおかしくありません。

>おかしいのは小室先生が維摩居士を独覚と勘違いしていることです。
>しかもそれは私が発見して指摘したことであってあなたが指摘したことではありません。

議論が噛みあっていないし、私の表現が悪いのことが原因ですが、私の主張を古賀さんは勘違いしています。

まず、私は小室さん主張に矛盾があると指摘しています。

私の前のコメント ↓

>これは古賀さんの言うとおり、『維摩経』の記述と小室さんの維摩居士説には決定的な違いがあります。
>例えば、『維摩経』には維摩居士は、過去世で善行を積んだと書かれています。
『維摩経』(中公文庫)25ページ

>その場合、小室さんのただの勘違いで、その部分を修正して理解し、『日本人のための宗教原論』全体を理解するという方法があり、古賀さんの読み方は、その方法だと思います。

>けれど、私は間違った理解か別として、小室さんの主張の矛盾だと考えます。

>だから、修行もしないで悟った維摩居士を本来の仏教の一つとして高く評価し、一方で最澄や親鸞や法然を異端だと非難するのは、おかしいと考えます。


「けれど」からが、私の言いたいことです。
小室流「維摩居士は素晴らしい&あるいは本来の仏教」説は、「法然&親鸞は異端」説と、『日本人のための宗教原論』の中で、矛盾するということです。

その前の私のコメント↓

>確かに、小室さんは維摩居士が「修行も学問も不要」という教えを説いた・・・とは書いていません。
>けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

投稿: おおくぼ | 2009年12月31日 (木) 21時57分

維摩居士が言ってなくても、維摩居士は見本だという意味です。
だから・・・小室さんの説では、維摩居士は修行せずに悟った。
『日本人のための宗教原論』では明快には書かれていませんが、「何故か維摩居士は悟ることができたのか?」、ということが問題になっているはずです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 20時51分

私のコメント ↓

>古賀さんは橋爪大三郎さんを高く評価しているようなので、橋爪さんの本から引用します。
小室さんの主張と比較して下さい。

古賀さんのコメント ↓

>意図が不明です。

自分のブログで、小室さんの記述と比較します。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 20時53分

初めに問題になった「小室さんの最澄と延暦寺の記述」について

まず、小室さんは海外から日本に宗教が来ると、戒律がなくなると主張します。
そして鑑真が「戒」を持ってきたとします。
次に最澄が「規範」を「全廃」したと主張します。
ここで、疑問なのは、最澄は中国に何故留学したのか?です。
「規範」を全廃するために、留学したのでしょうか?
また小室さんは触れていませんが、最澄の弟子の円珍と円仁も中国に留学しています。
「規範」を全廃するために、留学したのでしょうか?
もし「規範」を全廃するのが目的なら、留学する必要はないでしょう。

小室さんは比叡山延暦寺が、「日本仏教の総本山の中の総本山」と書いています。
法然と日蓮は延暦寺で勉強し、親鸞は法然の弟子です。
けれど彼らは、延暦寺の正統派なのでしょうか?
彼らは、延暦寺と大喧嘩したのではないでしょうか?

比叡山延暦寺が、「日本仏教の総本山の中の総本山」になったのは、最澄が死んでかなり経った後ではないでしょうか?

最澄の生前は、東大寺などの奈良の寺の方が優勢であり、嵯峨天皇に気に入られていた空海は東大寺と仲がいいです。
また空海も自分の寺を持っています。

最澄が延暦寺独自の戒(死後に弟子たちが作りました)を作ろうとした理由は、奈良の寺にしか、朝廷が「戒」を許されなかったからです。

小室さんは・・・

>僧侶と政治権力が関係ないというのがインドで、中国に入って、僧侶は政治権力と関係ができた。
>そして日本に入ってきてどうなたったか。
>日本の僧侶というのは初めは国家公務員だった。
>僧侶であるかどうかという免許証は、政府が出し、官位、僧侶の位もみな政府が決める。
だから平安時代を通してずっと、僧侶といえば、すなわち国家公務員だった。
370ページ

その数行後の文章は・・・

>それまでは僧侶になるのは大変で、学問を積んで、朝廷から官位を貰って初めて僧侶となる。
>ところが、鎌倉時代以降は誰でもなれるようになった。
369ページ〜370ページ

この主張だと、最澄や法然、親鸞、日蓮は、日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた人になるのでは?


投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 21時46分

>おおくぼさん


議論が噛みあっていないし、私の表現が悪いのことが原因ですが、私の主張を古賀さんは勘違いしています。

表現が悪いし、こちらが指摘してもあなたはそれをきちんと直しません。さらに勘違いしているのはあなたであって私ではありません。


小室流「維摩居士は素晴らしい&あるいは本来の仏教」説は、「法然&親鸞は異端」説と、『日本人のための宗教原論』の中で、矛盾するということです。

矛盾しません。
本来の仏教とはそもそも言ってません。維摩居士は釈迦の教えどおり修行すれば悟りをひらけるのは十分条件であって必要条件ではないという例として出ているだけです。悟りを開くのに「修行が不要」な人間もいると書いてあるので、「修行も学問も不要」という教えが説かれているわけではありません。きちんと読めばわかります。P200の16行目からP202の12行目までをきちんと読み返してください。

>維摩居士が言ってなくても、維摩居士は
>見本だという意味です。

独覚というものをきちんと理解してさえすれば、それが見本になりえないことがわかるはずです。
独覚というのはお釈迦様のもとで教えに従って修行したわけではないのに悟りを開いた存在で、そもそも見本になりえないのです。
また見本であるように書かれてもいません。

何度でも言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。だから親鸞&法然と比較すること自体おかしいのです。

あなたが「矛盾だ、矛盾だ」と言い続けるのは、単に自説に固執しすぎる性癖に過ぎないと理解しています。

投稿: 古賀 | 2010年1月 2日 (土) 21時58分

古賀さんへ

>矛盾しません。
>本来の仏教とはそもそも言ってません。

200ページの「そもそも、」からを読んで下さい。
小室流「維摩居士」は、小室流「本来の仏教」の一つです。

>維摩居士は釈迦の教えどおり修行すれば悟りをひらけるのは十分条件であって必要条件ではないという例として出ているだけです。

小室さんの「十分条件」と「必要条件」の使い方は、独自だと思いますが、理解できません。
数学の教科書の定義と違っています。
説明もありませんし。

>「修行が不要」な人間もいると書いてあるので、「修行も学問も不要」という教えが説かれているわけではありません。

これも繰り返しになりますが、

前の私のコメント ↓

>確かに、小室さんは維摩居士が「修行も学問も不要」という教えを説いた・・・とは書いていません。
>けれど、維摩居士を「何の修行もしな」いで、悟りをひらいた人としています。

投稿: おおくぼ | 2009年12月31日 (木) 21時57分

>維摩居士が言ってなくても、維摩居士は見本だという意味です。
>だから・・・小室さんの説では、維摩居士は修行せずに悟った。
>『日本人のための宗教原論』では明快には書かれていませんが、「何故か維摩居士は悟ることができたのか?」、ということが問題になっているはずです。

だから、どうして「悟りを開くのに「修行が不要」な人間もいる」のかが、重大な問題なのです。

>独覚というものをきちんと理解してさえすれば、それが見本になりえないことがわかるはずです。

小室さんは独覚をきちんと説明しているのですか?
私が批判しているのは、古賀説ではなく、小室説です!!!!!

>何度でも言いますが維摩居士は「修行も学問も不要」という教えを説いているわけではありません。
>また「修行も学問も不要」という教えを信奉しているようにも書かれていません。

古賀さんの、その主張には、前のコメントで何度も、同意を表明しています。

>だから親鸞&法然と比較すること自体おかしいのです。

そうは思いません。
理由は、上のコメントの私の主張を理解していただければ、わかります。


>あなたが「矛盾だ、矛盾だ」と言い続けるのは、単に自説に固執しすぎる性癖に過ぎないと理解しています。

たしかに自説に固執しすぎてますが、矛盾だと思う箇所は具体的に明示しています。
また、間違いだと思えば訂正しています。

維摩居士についての議論は、堂々巡りになっていますので、一度、お互いに頭を冷やしてから、再開しましょう。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 22時06分

一つ前の、「小室さんの最澄と延暦寺の記述」の返信コメントお願いします。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 22時08分

>おおくぼさん

>次に最澄が「規範」を「全廃」したと
>主張します。

実質的「全廃」です。

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro4-2.htm
>最澄は比丘の守るべき戒は250も必要で
>ないとし,重い戒律10と軽い戒律48
>の合計58でよいとした。これは梵網経
>に根拠をおくものであり,菩薩戒という。
>勿論,菩薩戒自体は,日本以外の国でも
>行われていたが,菩薩としての心構えと
>いうべきものであり,具足戒に替わり
>うるものではない。それなのに最澄は,
>具足戒を菩薩戒の十重戒と四十八軽戒に
>替え,さらに受戒の儀式を徹底的に
>簡素化した。


もし「規範」を全廃するのが目的なら、留学する必要はないでしょう。

意味がわかりません。


この主張だと、最澄や法然、親鸞、日蓮は、日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた人になるのでは?

「僧侶と政治権力が関係ない」という点だけをとって、「日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた」と主張するのは乱暴な議論です。


投稿: 古賀 | 2010年1月 2日 (土) 22時10分

>おおくぼさん


200ページの「そもそも、」からを読んで下さい。
小室流「維摩居士」は、小室流「本来の仏教」の一つです。

「維摩居士」が「本来の仏教」というのは、日本語として不正確すぎます。
あえて要約するなら「本来の仏教」は「修行は手段」(キリスト教やイスラム教と比較して)です。「修行は手段」だからこそ、修行しなくても結果を手にいれる維摩居士のような人間がいても別におかしくはないという話です。「修行は不要」とはまるで違います。


だから、どうして「悟りを開くのに「修行が不要」な人間もいる」のかが、重大な問題なのです。


小室さんは独覚をきちんと説明しているのですか?
私が批判しているのは、古賀説ではなく、小室説です!!!!!

独覚というのが自分独自で悟りをひらく存在であるのは小室説でも通説でも同じです。で、「独覚というのが自分独自で悟りをひらく存在」であることがおおくぼさんの批判がおかしい理由なのです。だから独覚というのをきちんと理解された方がいいと言っているのです。

勉強がいらない天才がいることと、教育機関が「勉強が不要」というのはまるで意味が違います。


古賀さんの、その主張には、前のコメントで何度も、同意を表明しています。

そうでありながらなぜおおくぼさんが自分の批判がおかしいと気がつかないのかその点が良くわかりません。

同意しているのであれば「維摩居士は仏教の異端」という批判は成り立ちません。


投稿: 古賀 | 2010年1月 2日 (土) 22時40分

廃止というのは、以前あったものを無くすことです。
最澄は、延暦寺に新しい「戒」を作ろうとしたのです。
それは東大寺などの奈良の寺に伝わる「戒」と比較すれば、廃止した形に見えるということです。
延暦寺が「戒」を作ったからと言って、奈良の寺の「戒」が廃止にはなりません。

前の私のコメント ↓

>もし「規範」を全廃するのが目的なら、留学する必要はないでしょう。

古賀さんの返信コメント ↓

>意味がわかりません。

最澄や弟子の円珍や円仁は、「規範」を求めて、中国に留学したと言いたいのです。

>「僧侶と政治権力が関係ない」という点だけをとって、「日本独自の仏教のシステムを廃棄し、インドの仏教に近づけた」と主張するのは乱暴な議論です。

その通り、乱暴な主張です。
でも、小室さんは明言しないけど、論理的に考えると、小室説では、そうなると言いたいのです。

古賀さんへ

「小室さんの最澄と延暦寺の記述」の、他の私の指摘についても、返信コメントをお願いします。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 22時55分

>「維摩居士」が「本来の仏教」というのは、日本語として不正確すぎます。

「維摩居士」→「維摩居士の思想」に訂正します。

同意しているのであれば「維摩居士は仏教の異端」という批判は成り立ちません。

これは自分の中では訂正したつもりだったのですが、明言しませんでした。
すいません。

私の前のコメント ↓

>『日本人のための宗教原論』の文脈で、維摩居士を異端と見なすか?という意味です。

>なぜなら、『日本人のための宗教原論』では、法然と親鸞を異端と見なしています。
>維摩居士は異端ではなく、法然と親鸞は異端であるとすれば、その違いの基準が、『日本人のための宗教原論』では曖昧な気がします。


だから、小室説では法然&親鸞が異端とされているのに、「維摩居士は異端ではない」と主張しているのが、おかしいと言うのが、私の主張です。

>勉強がいらない天才がいることと、教育機関が「勉強が不要」というのはまるで意味が違います。

では、どうして小室さんは、維摩居士の話を出すのでしょうか?

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 23時03分

私は古賀説を批判しているわけではありません。
私が古賀さんを批判する時は、古賀さんの小室理解が、私から見れば、間違いだと思った時です。

だから、例えば・・

>勉強がいらない天才がいることと、教育機関が「勉強が不要」というのはまるで意味が違います。

という主張には、同意しますが、小室さんが、そんな主張をしているようには思えないのです。
部分的に読めば、そういう解釈もできます。
でも、そうすると、『日本人のための宗教原論』の中で、論理は一貫するのでしょうか?

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 23時09分

>おおくぼさん


「小室さんの最澄と延暦寺の記述」の、他の私の指摘についても、返信コメントをお願いします。

そのへんはもう少し詳しく調べてからコメントします。


「維摩居士」→「維摩居士の思想」に訂正します。

「維摩居士の思想」だとするとおかしなことになります。維摩居士自身は別に「修行が不要」と言っているわけではないので。
「修行が不要」な人間それ自体は異端ではありません。「修行が不要」という説を説けばそれが(小室説では)異端ということなので。


では、どうして小室さんは、維摩居士の話を出すのでしょうか?

仏教において「釈迦の教えを聞いて修行する」のは悟りをひらく十分条件であって必要条件ではないことを説明するためです。


という主張には、同意しますが、小室さんが、そんな主張をしているようには思えないのです。

小室先生の主張というより
勉強がいらない天才=維摩居士
教育機関が「勉強が不要」=法然&親鸞の思想
で、小室先生の主張が別に変ではないことの説明です。

私から見ればおおくぼさんは、「勉強が不要と説く教育機関が間違っているなら、勉強がいらない天才も間違っている」と主張しているように見えます。


投稿: 古賀 | 2010年1月 2日 (土) 23時38分

>おおくぼさん

若干修正

私から見ればおおくぼさんは、「小室先生は勉強が不要と説く教育機関が本来の教育機関から見て間違っていると言っている。でも小室先生は勉強がいらない天才の話をしているけれどその天才のことを間違っているとは言わない。それは変だ」と主張しているように見えます。

投稿: 古賀 | 2010年1月 2日 (土) 23時42分

>「維摩居士の思想」だとするとおかしなことになります。

いい表現が思いつかないのですが、「小室直樹が維摩居士の生き方から読み取った思想」という意味です。
だから、「維摩居士の主張した思想」ではありません。

>教育機関が「勉強が不要」=法然&親鸞の思想で、小室先生の主張が別に変ではないことの説明です。

小室さんの文章を引用します。
維摩居士のエピソードのすぐ前の文章です。

>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
200ページ

仏教の特色として、維摩居士の話をしているのです。
だから・・・

>勉強がいらない天才=維摩居士
教育機関が「勉強が不要」=法然&親鸞の思想

・・・だと、「どうして仏教だけ、そうなの?」という疑問が出てくるのです。

ここでも、古賀さんは認識してませんが、古賀説と小室説の違いがあるのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 23時54分

前から言っているように、私の読み方は、他人から見れば、「重箱の隅をつつく」ような読み方です。
私自身は、「重箱の隅」と思える記述にこそ、その人の本質が書かれていると思っています。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 2日 (土) 23時59分

私から見ると、古賀さんは、小室直樹さんの弁護士というか、政治家の失言を弁護する代理人のように思えます。

小室直樹という講談師が、博覧強記で見につけた知識を使って、思いついたことを、連想的に面白おかしく、誇張して、大衆に語って、人気を博しているところに・・。
私のような、理屈っぽく、重箱の隅をつつくように見える人物が訴えた時に・・

いい加減な小室直樹さんに代わって、「あれはこう言う意味で言ったので、そう意味ではない」という風に、小室さん自身が考えてもいなかった主張にすりかえて、勝訴を勝ち取る弁護士みたいです。

だから頓智使いと言う感じです。
歴史上の一休宗純ではなく、伝説の方の「一休さん」ですね。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 3日 (日) 00時22分

>仏教において「釈迦の教えを聞いて修行する」のは悟りをひらく十分条件であって必要条件ではないことを説明するためです。

小室さんは、「十分条件」と「必要条件」という意味を、数学の教科書的な意味をひっくり返して使っているのです。
だから、後に出てくる「超論理学」とつながるのです。
そして、私は小室さんの主張する「超論理学」が理解できません。
連想するのは、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」です。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 3日 (日) 00時39分

>おおくぼさん

「pならばq」という関係にあるとき、
「pはqであるための十分条件」,
「qはpであるための必要条件」
というふうに理解しています。

例をあげれば
「犬であるならば動物」という関係にあるとき
・犬であることは動物であるための十分条件
・動物であることは犬であるための必要条件
です。

これをP200の16行の記述にあてはめると

「仏教では釈迦がこういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」

→「釈迦の教えに従って修行をするならば確実に悟りをひらける」
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件

わかりやすく整理するとこんな感じになります。
仏教においては「悟りをひらいた人」と「釈迦の教えに従って修行を完成した人」は同値ではないということです。

あくまで小室説によればですが、集合的にいえば
「悟りをひらいた人」の集合は「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の集合より大きくて、「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の集合を全て含むということです。


そして、私は小室さんの主張する「超論理学」が理解できません。
連想するのは、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」です。

小室先生の文章だとわかりにくいですが、超論理学にはなっていません。


投稿: 古賀 | 2010年1月 3日 (日) 10時29分

>おおくぼさん


いい加減な小室直樹さんに代わって、「あれはこう言う意味で言ったので、そう意味ではない」という風に、小室さん自身が考えてもいなかった主張にすりかえて、勝訴を勝ち取る弁護士みたいです。

宮台真司さんは『14歳からの社会学』という本で、「小室直樹のスゴさに感染した私は小室直樹がどのように世界を見るのかを徹底的にシミュレートした」と書いてありますが、私もそうしているつもりです。

特に『啓典宗教』や『維摩居士』について私が反論するのは、それが「記述が不完全あるいはわかりにくい」ですむ問題だと判断しているからです。理論的に考えて補完できる場合や説明が他の箇所にきちんと書いてある場合は、私自身は大きな間違いだとは思っていません。

逆に維摩居士のことを独覚と書いてあるような記載は、どう考えても間違いであるので私自身が指摘しました。そういう箇所は他にも多くあると思います。

私から見ればおおくぼさんは本質的でないところに拘泥しすぎているように思えます。

投稿: 古賀 | 2010年1月 3日 (日) 10時50分

古賀さんの説明は腑に落ちますが、残念ながら、教科書的な定義とは違います。

参考

http://www.kwansei.ac.jp/hs/z90010/sugakua/hitujyu/hitujyu.htm

古賀さんは、三段論法と勘違いしているんだと思います。
良心的に読むと、理学部数学科出身の小室さんも「必要条件」と「十分条件」という用語を、勝手に三段論法の用語にしてしまっていると解釈することもできます。

参考
『入門!論理学』野矢茂樹:著(中公新書)

また小室さんは、270ページの「公理」という用語を「定義」いう用語と分けて使っているけど、どうしてこんな説明をするのか悩みます。
公理と定義を分けて使う必要はないのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 3日 (日) 15時08分

>特に『啓典宗教』や『維摩居士』について私が反論するのは、それが「記述が不完全あるいはわかりにくい」ですむ問題だと判断しているからです。
>理論的に考えて補完できる場合や説明が他の箇所にきちんと書いてある場合は、私自身は大きな間違いだとは思っていません。

柄谷行人が「真のマルクス」ではなく「可能性のマルクス」と言っているのと同じ評価方法ですね。

それだと、この議論は平行状態のままでしょう。
価値の判断基準が違うのですから。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 3日 (日) 15時13分

補足

「小室さんの最澄と延暦寺の理解について」

小室さんは、犯人探しのように歴史を後ろから見るから、歪んだ歴史解釈になるのだと思います。

小室さんの評価は別として、法然&親鸞&日蓮に注目するのは鋭いです。
そして、彼らの現れた原因を延暦寺に求めるのも正しいと思います。
そして、当時の延暦寺は、日本仏教界の総本山の中の総本山でした。
そして、小室さんは、延暦寺を作った最澄を真犯人してしまいます。

延暦寺が悪の大学で、その学校を作った人が、悪の張本人に違いないという決め付けです。
小室さんは「悪」という表現を使っていませんが・・・・。

しかし、最澄の時代と法然&親鸞&日蓮の時代はかなり違います。
また、最澄と法然の間に多くの複雑な変化があったことを小室さんは無視して、単調な変化だったと決めつけてしまいます。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 3日 (日) 15時56分

>おおくぼさん

上記のサイトのとおり書き直しても結局は同じことです。なぜなら私も必要条件と十分条件について説明しているサイトを参考に書いているからです。


次に,2つの条件 p,q を用いて,

ワンポイント
p ⇒ q という形も命題
となります。真偽が明確
になりさえすればよいの
です。


p ならば q   すなわち  p ⇒ q

という形の命題を考えます。また,p を 仮定,q を 結論,といいます。

 そして,「p ⇒ q が真」であるとき,


p は q であるための 十分条件

q は p であるための 必要条件

といいます。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

この場合p ⇒ q は
「釈迦の教えに従って修行を完成した人」⇒「悟りをひらいた人」が真。ということです。

「釈迦の教えに従って修行を完成した人」⇒「悟りをひらいた人」が真であるとき
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件
になります。

良く読んでいただけばわかりますが三段論法にはなっていません。

投稿: 古賀 | 2010年1月 3日 (日) 15時57分

>おおくぼさん


柄谷行人が「真のマルクス」ではなく「可能性のマルクス」と言っているのと同じ評価方法ですね。

全く違うと思いますよ。
おおくぼさんは変なところに細かいのに、大局的判断はおおざっぱすぎます。

私は細かいところがきちんとつまらない限りは大局的判断を下すには早すぎるという考えです。

だから

小室さんは、犯人探しのように歴史を後ろから見るから、歪んだ歴史解釈になるのだと思います。

「歪んだ歴史解釈」のような明確な価値判断は1つ1つの議論にきっちり決着をつけた上でなければただの情緒的判断にすぎません。


それだと、この議論は平行状態のままでしょう。
価値の判断基準が違うのですから。

実のところ『啓典宗教』の場合は小室先生の書き方が明らかにおかしいとは思いますが、『維摩居士』はおおくぼさんの勘違いであり、しかもここで誤読する方がおかしいと思っています。

投稿: 古賀 | 2010年1月 3日 (日) 16時07分

>良く読んでいただけばわかりますが三段論法にはなっていません。

すいません。
これは私の勘違いでした。
古賀さんの説明も、小室さんの記述も正しいです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 3日 (日) 19時28分

>『維摩居士』はおおくぼさんの勘違いであり、しかもここで誤読する方がおかしいと思っています。

この部分は、平行状態のままになりそうなので、別の角度から、小室流「維摩居士」について議論したいと思います。

私の前のコメントその1↓

どうして小室さんは維摩居士の例を出したのかという理由について私は悩みます。
ただ第四章は「空」の説明がメインであり、小室さんは、維摩居士の説明で・・

>この人の行いは「空」そのものである。

・・・と書いてあるので、「空」を説明するために、重要な例として出したとも推測できますけど。


第四章を全体の大雑把な骨子を考えてみます。

「空」という思想について

維摩居士のエピソード

『般若心経』

仏教は魂を否定する(生まれ変わりは認めても、魂だけの存在は認めない)

三島由紀夫の『豊饒の海』

魂が無ければ、何が輪廻転生するのか?

唯識について

阿頼耶識について
原意識が転生する(天才誕生の秘密)
ここで、維摩居士という名や独覚という言葉が出てきてもいいのですが、出てきません。

仏教の救済の仕組み。
1 キリスト教のような救済を判断する神はいない。
2 仏教は時間がものすごくかかる。

煩悩を無くすと、輪廻転生が終わる

>煩悩を去り、悟りをひらき、涅槃に赴くことが、仏教の究極目標である。
>そして、空を悟ことが本当の悟りであり、仏教理解の極意皆伝である。
235ページ

空観という超論理学

小室さんは、『維摩経』や『般若心経』を、空観を理解するための例として出しているのです。

229ページに独覚の説明がありますが、維摩居士の名は出てきません。
小室さんが、独覚をどのように評価しているかは曖昧です。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 3日 (日) 21時19分

かなり前のコメントを訂正します。

>特に親鸞の場合は、『日本人のための宗教原論』で、聖徳太子の夢のお告げに言及しているからです。

小室直樹さんの文章 ↓

>日本における聖徳太子信仰は大したものではあったけれど、聖徳太子といえば、仏教に理解は持っていたとはいえ、単なる政治権力者であり、悟りをひらいたわけでもなければ、ましてや僧侶でもない。
>そういう人に許すといわれて、それで許されると考えるがおかしくないか。
>これがお釈迦様が現れて許すといわれたのなら話はまだわかるのだが、親鸞聖人にしてからがこのような矛盾を抱えている。
373ページ〜374ページ

>親鸞は、聖徳太子が悟りを開いていないと思っていたのでしょうか?
>もし親鸞が、聖徳太子が悟りを開いた人物だと思っていたら、維摩居士が夢の中で「許す」と言ったと同じ意味になるのではないでしょうか?

最後の・・・「維摩居士が夢の中で「許す」と言ったと同じ意味になるのではないでしょうか?」
・・・は独覚の夢告という意味ではなく、在家の夢告でも、悟りを開いている人物の夢告と考えて下さい。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 3日 (日) 22時12分

小室さんを批判するだけでは、建設的な議論にはならないので、別の説を提示します。

私が影響を受けているのは井沢元彦さんの説です。
今回の小室直樹批判も井沢さんとの対談を読んだことから発しています。

井沢さんの主張は、小室さんの主張と共通する点が多いです。
けれど、具体的な歴史分析では、違いがあるのです。

例えば、井沢さんは日本教の原因を聖徳太子の「和」という考えとしています。

参考
『仏教・神道・儒教集中講座』(徳間文庫)

投稿: おおくぼ | 2010年1月 4日 (月) 12時09分

「維摩居士と親鸞と聖徳太子について」の、前に私のコメントは、私の議論の立て方は悪かったので、忘れて下さい。

整理したので、書き直します。

まず、親鸞の女犯戒についてです。

小室さんは、第四章で維摩居士についてこう説明しています。

>悪魔が維摩居士を誘惑しようと企み、絶世の美女を、いわゆる魔女なのだが、送り込んだところ、維摩居士は全部妾にしてしまったなどと書いてある。
>悟りをひらいた以上はそんなことは平気の平左であり、むしろ、そういう行動などに左右されるようでは悟りとは呼べないのである。
>この人の行いは「空」そのものである。

維摩居士は、親鸞とは違い、出家僧でもなければ、僧侶でもありません。
だから、女犯戒を守る必要はありません。

でも親鸞は、小室説だと聖徳太子の夢告によって、女犯戒を破ることを許されます。

そこで、聖徳太子を維摩居士と同格と考えることはできないか?
あるいは、親鸞は同格と考えたのではないか、します。
小室さんは聖徳太子は悟りを開いていないとしていますが、親鸞は聖徳太子が悟りを開いた人だと考えていたと思うのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 4日 (月) 15時20分

必要条件と十分条件について、再訂正します。

まず、私が勘違いしていたのが、第一の原因ですが、やはり小室さんの記述は変だと思います。

必要条件と十分条件は、包含関係にある場合に成立します。

だから・・・・

修行が悟るための必要条件であっても、修行が悟るための十分条件ではないというのが正しい使い方です。

だから悟るためには修行をしなければいけない。
でも修行したからと言って、悟るとは限らないと言うことです。

それから、私がリンクしたサイトの説明も悪かったです。

サイトではリンゴと果物で説明しています。

リンゴはあるためには果物でなければなりません。
でも果物であるためにはリンゴである必要はありません。

小室さんの「独覚と修行と悟り」の例は、包含の関係になっていないのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 4日 (月) 16時33分

>おおくぼさん


必要条件と十分条件は、包含関係にある場合に成立します。

だから「修行」と「悟り」だと包含関係にならないからおかしくなります。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」
にしたのはそのためです。

それとこちらが次にコメントする間に5つも6つもコメントされるのは困ります。

投稿: 古賀 | 2010年1月 4日 (月) 20時12分

>おおくぼさん

小室先生は独覚というのは、「何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく」と書いていますが、これは厳密には正しくありません。

長い間修行して悟りをひらいてもそれが釈迦の教えに従って修行を完成したのでなければ(例えば自分独自の修行なら)独覚です。だから「何の修行もしない」「あっという間に煩悩を払う」というのは違います。

投稿: 古賀 | 2010年1月 5日 (火) 22時17分

わかりました、コメントは一つづつにします。

まず、必要条件と十分条件についてコメントします。

議論を整理するために、小室直樹さんの文章をもう一度引用します。

>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。
200〜201ページ

ここで、「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」という記述に注目します。

釈迦が本当にそんな教えを垂れているかどうかは、この場合は問いません。

1 釈迦が決めた修行をする→悟りがひらける

2 釈迦が決めた修行をしていない→でも、悟りがひらけた

この場合は、「悟った人という全体集合の中に」、「釈迦の決めた修行をしたので悟った人」と、「釈迦の決めた修行をしてないのに悟った人」がいることになります。

1の人にとって、釈迦の決めた修行をすることは、悟るための十分条件なのです。

2の人にとって、釈迦の決めた修行は、悟るための十分条件でもなく、必要条件ですらないのです。

次に小室さんは書いていませんが、別の人を考えましょう。

修行をしたのに、悟れなかった人です。
これを3の人とします。

論理的に考えられるのは、3の人がした修行が、「釈迦の決めた修行」ではなかったということです。

そして3を、悟るためには、修行が必要条件だけど、釈迦の決めた修行が十分条件になると・・・言うことができます。

3の人が悟れなかった理由は、他にも考えれますが、こういう解釈もできるということです。

以上で、小室さんの「必要条件」と「十分条件」という使い方が、おかしいことがわかると思います。
ただ、この小室さんのミスはただのケアレスミスで、超論理という解釈は私の勘違いです。


投稿: おおくぼ | 2010年1月 5日 (火) 22時46分

おおくぼさん


修行をしたのに、悟れなかった人です。
これを3の人とします。

十分条件と必要条件の例として書いているので、この場合は考えないんですよ。
だからわざわざ「釈迦が、こういう修行をすれば確実に教えがひらけるという教えを垂れている」という書き方をしているわけです。

書いてあることを無視してそういう風な仮定をして

以上で、小室さんの「必要条件」と「十分条件」という使い方が、おかしいことがわかると思います。

などと言うことを言われても困ります。

追記

「「釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」と書いているが、実際には釈迦の教えのとおりに修行しても悟りがひらけない人もいるはずだから変だ」というのならまだわかります。

必要条件と十分条件の使い方が間違っていることにしようとして論を展開するのでおかしくなるんですよ。

追記その2

p=「釈迦の教えに従って修行した人」
q=「悟りをひらいた人」

だと釈迦の教えに従って修行してまだ悟りをひらいていない人もいるはずだから必要条件も十分条件も成立しないのではという話だと思いますが、小室先生は「釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れている」と書いているので

p=「釈迦の教えに従って修行した人」ではなく
p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」

と考えるのが正しいわけです。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

だと何度も書いているように
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件
で十分条件も必要条件も成立します。

投稿: 古賀 | 2010年1月 6日 (水) 07時11分

>だと何度も書いているように
・「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「釈迦の教えに従って修行を完成した人」の必要条件
で十分条件も必要条件も成立します。

小室さんが、そんな主張をしているとは思えないのですが・・・・。
古賀さんの小室解釈は、数学の定義に合わせて、強引な解釈をしたとしか思えません。

ここで、小室さんの主張を確認するために、前に引用した小室さんの記述を、わざと真ん中の文だけ削除して、再引用します。


>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
          略

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。


小室さんの一番言いたいことは・・

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

・・・です。
だから、次に小室説の「維摩居士の話」が出てくるのです。


また、議論が平行線になっているので、整理します。

まず・・・

>p は q であるための 十分条件
>q は p であるための 必要条件

・・・の公式は忘れて、日常的な意味で考えて下さい。

次に古賀さんのコメントを引用します。

>私から見ればおおくぼさんは、「小室先生は勉強が不要と説く教育機関が本来の教育機関から見て間違っていると言っている。
>でも小室先生は勉強がいらない天才の話をしているけれどその天才のことを間違っているとは言わない。それは変だ」と主張しているように見えます。


古賀さんのこのコメントは、私から見れば正しく小室さんの記述を理解しているように思えます(ただ小室さんは、仏教限定にしているのが、事実として問題です)。

ここで、「天才」と「東大受験合格」で考えてみます。

1 「天才ではない人」が、東大受験に合格するには、受験勉強が必要である。

2 天才は、受験勉強をしなくても、東大受験に合格する。

「天才ではない人」にとっては、受験勉強は必要条件だけど、十分条件ではありません。

天才にとっては、受験勉強は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。

次に、受験界に釈迦のような教師Aがいたとします。
Aの教える受験勉強をすれば、必ず「天才でない人」でも東大受験に合格すると仮定します。

「天才ではない人」にとって、「Aの受験勉強」をすることは、東大受験に合格するための十分条件であり、必要条件でもあります。

でも天才にとって「Aの受験勉強」は、東大受験合格するための必要条件でもなければ、十分条件でもありません。

数学用語に引っ張られて、強引な読解をするよりも、小室さんの記述ミスだと考えて、日常語に置き換えて、読めばいいだけのことなのです。


投稿: おおくぼ | 2010年1月 6日 (水) 09時44分

上のコメントの補足

小室さんの記述

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には「十分条件であって、必要条件ではない」。

これを、以下に変えれば、明快だと思います。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には「誰にでも当てはまるわけではない」。

この記述の方が、小室さんの主張・・・

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

・・・と整合するからです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 6日 (水) 09時57分

>おおくぼさん

(1)
まず小室先生の本文
「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れてはいるが、それは正確には(悟りをひらくための)十分条件であって、必要条件ではない。」
(悟りをひらくための)を追完しないと、文章が意味がとおらなくなるので追完しました。

(2)
それを命題の形になおしたもの。今度はなるべく本文の原型を残して作ってみました。
p=「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
q=「悟りをひらいた人」

・「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
の必要条件

(2)の十分条件と必要条件が間違っていない以上は、(1)を(2)の命題形式になおすところに何かおかしなところがあるはずですが、私にはおかしいとは思えません。指摘するならそこをきちんと指摘してください。


小室さんが、そんな主張をしているとは思えないのですが・・・・。
古賀さんの小室解釈は、数学の定義に合わせて、強引な解釈をしたとしか思えません。

小室先生は『超常識の方法』でも、ちゃんと必要条件と十分条件の違いを集合を使ってわかり易く説明をされています。私にはおおくぼさんが文章から適切な文を抜き出して命題にすればきちんと必要条件と十分条件になるにもかかわらず、わざとそうならないようにして「変だ」と言っているとしか思えません。

投稿: 古賀 | 2010年1月 6日 (水) 23時01分

私は、古賀さんの主張を理解したつもりだったのですが、どうもそうでないことが判明しました。
今も理解できていません。

元の小室直樹さんの文章は・・・
>それは正確には「十分条件であって、必要条件ではない
・・・の一文を訂正すれば理解できました。

まず、数学で考えるよりも、日常的な意味で理解できる文章である方が重要です。

まず、修行と悟りの関係ですが、ここには時間のズレがあることが大事なポイントなのです。
修行することによって、悟るということは、修行した時間の経過があるということが、暗に秘められているわけです。

だから、「p は q であるための十分条件、q は p であるための必要条件」と書くと、時間の経過が無視されてしまうので、注意が必要です。
例えば、「リンゴと果物」や「人間と動物」なら、時間の経過を無視してもいいです。

古賀さんも、そこに気づいて、時間の経過を無視していい「必要条件と十分条件」を構築したのだと思います。
でも、それは日常的な意味で、おかしいというか、小室直樹さんの文章に対する誤読だと思います。


「古賀さんの理解する小室説」と「私の理解する小室説」を、ベン図で書いてみて比較して見てください。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 7日 (木) 00時23分

補足

>(2)の十分条件と必要条件が間違っていない以上は、(1)を(2)の命題形式になおすところに何かおかしなところがあるはずですが、私にはおかしいとは思えません。指摘するならそこをきちんと指摘してください。

私には古賀さんの提示した命題が理解できないのです。
けれど不毛な気もしますが、どうも、それ以外に議論の打開にならないようなので、挑戦してみます。

まず、古賀さんはpやqに該当する人を過去形で扱っています。
小室さんの文章では過去形では書いていません。
でも、この点を、古賀さんの誤読だといいたいわけではありません。
理解するためには、その程度の深読みは必須の場合が多いですので。

まず、私は古賀さんの提示した命題・・・


「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
であることは「悟りをひらいた人」の十分条件
・「悟りをひらいた人」であることは「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
の必要条件

・・・が、日本語として理解できません。
だから、分解して、別の文章に作り替えます。
古賀さんの解釈した「小室説」は・・・

「悟りをひらいた人」には2種類の人間がいる。

no.1 (こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人

no.2 釈迦が垂れた教えに従ってないのに、悟りをひらけた人

だから、「悟りをひらいた人」という全体集合の中に、no.1という部分集合とno.2という部分集合が独立してあるということです。

もし私の解釈が理解できなければ、ベン図に書いて見てください。

でも、「悟りをひらいた人」から見て、「no.1」や「no.2」は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。
逆からの視点でも同じです。

必要条件や十分条件という条件が発生するのは、「no.1」や「no.2」にとって、「悟るための条件」との関係においてです。

もしこのコメントで同意が得られないならば、必要条件と十分条件の議論は止めて、別の議論に移りましょう。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 7日 (木) 02時27分

>おおくぼさん


まず、古賀さんはpやqに該当する人を過去形で扱っています。
小室さんの文章では過去形では書いていません。

そこを統一しなければきちんとした命題になりません。小室先生が命題形式で書いていない以上、
読む側でその点に補正を加えるのは当然だと思います。


でも、「悟りをひらいた人」から見て、「no.1」や「no.2」は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。
逆からの視点でも同じです。

もう1度わかりやすくなおしてみましょう。

・Aが「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」であることは「Aが悟りをひらいた人」であるための十分条件
・「Aが悟りをひらいた人」であることは「Aが(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
であるための必要条件

「リンゴ」と「果物」の関係と同じです。

失礼ながらこの点について混乱が生じているのはおおくぼさんであって、私や小室先生ではありません。


投稿: 古賀 | 2010年1月 7日 (木) 06時33分

「修行」と「悟り」の関係が、「リンゴ」と「果物」の関係と同じではないのです。

なぜなら、「修行」するには、時間がかかるからです。

修行する→悟れる
でも逆の・・
悟れる→修行する
・・・にはならないのです。

だから古賀さんは強引に

「釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」と「悟りをひらいた人」

のような「・・・の人」という二つの関係にしたと思います。

でも命題うんぬん前に、日本語として小室さんの主張を考えましょう。

>仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

小室さんは、仏教における「悟りをひらくための条件」について語っていると読むのが普通ですし、古賀さんのような解釈では意味不明になります。

古賀さんの解釈は・・・

>p は q であるための 十分条件
>q は p であるための 必要条件

のpとqに、強引に日本語を入れているだけで、日常的な意味では理解不能です。
「・・の人」に変更して、時間の経過を無視できる関係にしたにもかかわらず、意味不明な文章になっているのです。
コンピュータなら理解できるかもしれませんが、普通の日本語としては理解できません。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 7日 (木) 10時16分

>おおくぼさん


「修行」と「悟り」の関係が、「リンゴ」と「果物」の関係と同じではないのです。

相違点がわかってきました。

おおくぼさんの理解「釈迦が修行すれば悟りをひらけると言っているが、現実には修行をしなくても悟りをひらく人もいる」

私の理解「釈迦が自分の教えに従って修行すれば悟りをひらけるといっているが、現実には釈迦の教えにしたがって修行をしなくても悟りをひらく人がいる」

上記の比較が正しいかどうか確認したいので、その点についてまずコメントをお願いします。

投稿: 古賀 | 2010年1月 7日 (木) 19時27分

>おおくぼさん


「・・の人」に変更して、時間の経過を無視できる関係にしたにもかかわらず、意味不明な文章になっているのです。
コンピュータなら理解できるかもしれませんが、普通の日本語としては理解できません。

最初、私が出したのは
p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」
です。

おおくぼさんが「小室先生の本文と違う」と言ってくることを考慮して、なるべく本文の形を残して
p=「(こういう修行をすれば確実に悟りがひらける)釈迦が垂れた教えに従って悟りをひらいた人」
q=「悟りをひらいた人」
に1度直しました。当然日本語としては理解しにくくはなってます。

いくらでもわかりやすい日本語にはなおせるので、そこは全く本質的な批判にはなりえないと思います。

投稿: 古賀 | 2010年1月 7日 (木) 19時38分

古賀さんへ

正月明けから、本屋に行って、数学の教科書を読みました。
そのおかけで、問題点がすこしばかり見えてきました。

私の主張をする前に古賀さんの質問にお答えします。

古賀さんのコメント↓

>相違点がわかってきました。

おおくぼさんの理解「釈迦が修行すれば悟りをひらけると言っているが、現実には修行をしなくても悟りをひらく人もいる」

私の理解「釈迦が自分の教えに従って修行すれば悟りをひらけるといっているが、現実には釈迦の教えにしたがって修行をしなくても悟りをひらく人がいる」

上記の比較が正しいかどうか確認したいので、その点についてまずコメントをお願いします。

古賀さんは、私の主張を誤解しています。
だから、再度説明します。

前の私のコメント(一部変更) ↓


ここで、「天才」と「東大受験合格」で考えてみます。

1 「天才ではない人」が、東大受験に合格するには、受験勉強が必要である。

2 天才は、受験勉強をしなくても、東大受験に合格する。

「天才ではない人」にとっては、受験勉強は必要条件です。

天才にとっては、受験勉強は必要条件でもなければ、十分条件でもありません。

次に、受験界に釈迦のような教師Aがいたとします。
Aの教える受験勉強をすれば、必ず「天才でない人」でも東大受験に合格すると仮定します。

「天才ではない人」にとって、「Aの受験勉強」をすることは、東大受験に合格するための十分条件です。

でも天才にとって「Aの受験勉強」は、東大受験合格するための必要条件でもなければ、十分条件でもありません。


解説

天才=独覚 
東大受験合格=悟ること
Aの教える受験勉強=釈迦の教えに従った修行
と考えて下さい。

別の表現に直すと・・・

1 釈迦の教えに従って修行すれば悟れる。

2 釈迦の教えに従って修行してないにもかかわらず、悟った人がいる(もちろん悟れなかった人もいる)。

大事なのは、2種類のタイプの人間がいることです。

そして修行したのに、悟れなかった人がいた場合の理由として・・・
「釈迦の教えと違う修行だったから」となるのです。

現実がどうか、ということは、この小室さんの記述に関しての私の解釈では関係ないのです。
あくまで論理上の関係です。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 8日 (金) 20時21分

教科書を読んで、復習しましたので、数学的な議論をします。

p→q

古賀さんは、pとqに・・・

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

を代入しました。

だから・・

「釈迦の教えに従って修行を完成した人」→「悟りをひらいた人」

・・・になるわけです。

ここで、小室さんの文章を再引用します。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。

独覚とは・・・

pの否定形 → q

・・・という式で表すことができます。

ここで、必要条件と十分条件の定理を思い出しましょう。


「p ⇒ q が真」であるとき,
p は q であるための 十分条件
q は p であるための 必要条件

「p ⇒ q が真」であるときなのです。
だから独覚の場合の必要条件と十分条件は別なのです。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 8日 (金) 20時36分

>おおくぼさん


別の表現に直すと・・・

1 釈迦の教えに従って修行すれば悟れる。

2 釈迦の教えに従って修行してないにもかかわらず、悟った人がいる(もちろん悟れなかった人もいる)。

大事なのは、2種類のタイプの人間がいることです。

それはわかっています。それならそこでは見解の違いは生じていません。


ここで、小室さんの文章を再引用します。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。

独覚のような人間がいるから
「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」であるための十分条件になるのです。

悟りをひらくのに必ず釈迦の教えに従って修行することが必要なら
「釈迦の教えに従って修行を完成した人」であることは「悟りをひらいた人」であるための必要十分条件になります。

だから私は「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れてはいるが、それは正確には十分条件であって、必要十分条件ではない」と書く方がより正しいのではないかと思っています。

投稿: 古賀 | 2010年1月 8日 (金) 22時18分

>おおくぼさん

>維摩居士は釈迦の教えどおり修行すれば悟りをひらけるのは十分条件であって必要条件ではないという例として出ているだけです。

小室さんの「十分条件」と「必要条件」の使い方は、独自だと思いますが、理解できません。
数学の教科書の定義と違っています。
説明もありませんし。

現在の議論の出発点はここからだったと思うのでもう1度あげておきます。

投稿: 古賀 | 2010年1月 8日 (金) 22時34分

1 釈迦の教えに従って修行して悟った人。

2 独覚

1の場合の必要条件と十分条件と、

2の場合の必要条件と十分条件は違うのです。

なぜなら、1の場合は、p→qで、2の場合は「pの否定形」→qだからです。

だから、小室さんは必要条件や十分条件という用語を使わなければいいだけの話なのです。

小室さんの文章 ↓

>日本では、南無阿弥陀仏と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならいように、イスラム教徒が教典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけは絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。

>仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。

>というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいるからだ。


真ん中の「それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。」を削除して、後の文をドッキングすればいいのです。

変更後の文章 ↓

仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りがひらけるという教えを垂れているが、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に煩悩を払い、悟りをひらく人もいる。


変更後の文章は、普通の日本語として理解できるし、主張も変わっていません。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 8日 (金) 22時44分

追記

私のコメント ↓

>小室さんの「十分条件」と「必要条件」の使い方は、独自だと思いますが、理解できません。
数学の教科書の定義と違っています。
説明もありませんし。

独自だと思ったのは、私の勘違いです。
でも、小室さんは教科書の定義で使っていますが、使い方が間違っているのは事実です。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 8日 (金) 22時48分

>おおくぼさん


だから、小室さんは必要条件や十分条件という用語を使わなければいいだけの話なのです。

小室先生は必要条件や十分条件を使うのが好きなんですよ(笑)。

ただ「使わない方がわかりやすいし意味が良くとおる」というのと「必要条件や十分条件の使い方が間違っている」ではまるで違います。


でも、小室さんは教科書の定義で使っていますが、使い方が間違っているのは事実です。

おおくぼさんはちゃんと十分条件が成立しているにもかかわらず、強引に成立しないと言い張っているにすぎません。

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

pであることはqであることの十分条件。

で正しいのであれば、小室先生の十分条件の使い方は間違っていないと思います。

独覚はあくまで悟りをひらいたが釈迦の教えに従って修行をしたのではない人の例として出されているのです。おおくぼさんはそこにひっかかりすぎです。

投稿: 古賀 | 2010年1月 8日 (金) 23時09分


p→qは真であり、

「pの否定形」→qも真なのです。

だから、qという集合の中に、pと「pの否定形」がそれぞれ独立してあるのです。

そうすると、必要条件も十分条件も、それぞれ別のものになります。

投稿: おおくぼ | 2010年1月 8日 (金) 23時48分

>おおくぼさん

いくらそんなことをくり返しても
あなたのおっしゃることは

p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

pであることはqであることの十分条件。

の否定になっていないんですよ。きちんと理解してください。

「数学的におかしい」と言いつつ、あなたの批判はちっとも数学的じゃありません。

投稿: 古賀 | 2010年1月 9日 (土) 06時17分

>おおくぼさん

もう1度いいますが


p=「釈迦の教えに従って修行を完成した人」
q=「悟りをひらいた人」

pであることはqであることの十分条件。

が数式として正しいのであれば、小室先生の主張を命題になおす段階で間違っているのです。
つまり私が小室先生の言っていないことを勝手に命題になおしているということです。
それならばそう主張してください。

数式として間違っているのであれば、それを論理的にきちんと指摘してください。


だから、qという集合の中に、pと「pの否定形」がそれぞれ独立してあるのです。

そうすると、必要条件も十分条件も、それぞれ別のものになります。

qという集合の中に、pと「pの否定形」があるのだから、
pであることはqであることの十分条件であると同時に、「pの否定形」であることもqであることの十分条件です。

「釈迦の教えに従わなくて悟りをひらいた人」であることは「悟りをひらいた人」であることの十分条件
も成立します。
 

投稿: 古賀 | 2010年1月 9日 (土) 06時26分

>おおくぼさん

これ以降は『『日本人のための宗教原論』他議論用2』の方にコメントお願いします。


投稿: 古賀 | 2010年1月 9日 (土) 07時50分

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